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五ヶ瀬川 |
五ヶ瀬川と鮎漁 |
五ヶ瀬川と鮎漁 |
天も高い秋の五ヶ瀬川では、川原に仮設の店を設けた「やな場」で鮎を焼くかおりが河原を漂います。 その香ばしい鮎を焼くかおりは古くからこの地方に暮らしてきた人々に親しまれた秋を代表する香りです。 五ヶ瀬川の「鮎やな」は300年以上続く伝統漁法で、大規模な「やな」を架設して鮎料理を食べる風景は五ヶ瀬川独自のものとなっています。 五ヶ瀬川では、中流域の川水流(かわずる)、岡元、下流域の延岡市内の三ヶ所に毎年10月から12月上旬にかけて「やな場」が営まれ、そこでは「かっぽ酒」など飲みながら、子持ち鮎の塩焼きや味噌焼きなど鮎料理の数々が楽しめます。五ヶ瀬川の「やな場」での鮎を焼く香りは、宮崎県で唯一、環境省の 『かおり風景百選』 に選ばれているのです。 五ヶ瀬川とその分流の大瀬川、それに北川、祝子川を含めて五ヶ瀬川水系といいますが、それぞれにとても美しい川です。 このページは五ヶ瀬川水系の川の風景写真と「鮎やな」などの川と鮎に関するこの地方の暮らしを紹介します。 ![]() 延岡簗 「やな」の造りもこの地方独自の工法によるものです。まず、杭の代わりに3本の馬木を組み立てて作る「やな」の馬簗(馬堰簗)と呼ばれるものを組んでいきます。 馬木には主に松を使用して、前馬2本(3.5m)、後馬1本(4m)を組合せて括ると馬の耳のように2本の馬木が上に出ます。 馬と馬の間隔は約3mで、重石を載せる棚木を渡して次々と掛けていきます。 馬木の棚には川底の石を拾って1枠に約30kgの重石を載せて、簗の流失を防ぎます。 そして川幅300m近くに及ぶ馬堰を構えて、道路側から100mと150mの川中の2ヶ所に、捕魚用の落簗を設けます。 前馬木には上水木、下水木(板やモウソウ竹を用いる)を取り付け、それに水圧を利用して竹簀(タケス)を持たせかけていきます。 その竹は、2年生のミヤコ竹を9月20日頃に切って、それを使用します。 竹簀を繋いでいく縄は3分縄を使用しますが、小指が入るくらいの目に編んだものを使用します。 下水木に掛ける竹簀の根元には、杉の葉を敷きます。 その上を足で踏みしめ、さらに川底の適当な石を拾ってかぶせて簗の礎底が水漏れで崩れないようにします。 ■ 五ヶ瀬川の名前の由来五ヶ瀬川の名前の由来は、吐ノ瀬・窓ノ瀬・あららぎノ瀬・網ノ瀬・大瀬の「五つの瀬」があるから付いた名前だという説が地元一般に認知されているのかも知れません。 ところで、「瀬」とは、川の流れのなかで水深が浅くなっていて歩いて渡ることが出来るようなところをいうのですが、もちろん五ヶ瀬川にはそのような瀬は上記の五つの瀬の他にもあって、「瀬」を五つに限定した名前の由来は少し無理があります。 火折命(ほおり)=彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)が誕生したとき、産湯に使う水をとった川を『祝子(ほおり)川』とした伝説のように、五ヶ瀬川も五瀬命(いつせみのみこと)と関連した名前の由来である方が、高天原、日向三代、神武天皇と続く皇祖神群の伝承が豊富な地域性を考えても、説得力があるし、何より「ようこそ宮崎」的だといえます。 五ヶ瀬川の名前の由来は、五瀬命が自身で名づけたと推測するとよりロマンがありますが、そうではなくても、命の時代の後に、誰か身分の高い人が五瀬命に因んで「五ヶ瀬川」と名づけたと考えてもいいのだと思います。高千穂地方には、長男の五瀬命から四男の神武天皇までの四人の皇子が生誕した場所である四皇子峰(しおうじがみね)の伝承地や、五瀬命が五ヶ瀬川に自ら臣下を遣わした五大水神の伝承などがあります。 そもそもこの地方では神武天皇が東征に出発するまでは高千穂にその宮居があったと伝えらていますし、東征に参加した三男の三毛入野命(ミケイリヌノミコト)は途中で高千穂に帰ってきて鬼八という妖怪を退治してその子孫が代々後の高千穂地方を治めたという伝承があり、垂仁天皇の時代に創建されたと伝えられる高千穂神社はその三毛入野命を主祭神として祀っている神社である等々、五瀬命をはじめとする四皇子に関する伝承が多くあり、この地方は四皇子とは繋がりが深いのです。 高天原から神武にかけての天と地に及ぶ神話の舞台としての伝承が数多く残るこの神々の里高千穂地方から流れ出る神聖な川「五ヶ瀬川」の名前の由来は、五瀬命をのぞいて推測することはできないでしょう。 ![]() ■ ちゃっぽんがけ 5~6匁の丸い鉛の先に釣り針をつけて、餌を付けずに川底を引いて、鮎を引っ掛けるのが「ちゃっぽんがけ」です。 鮎が石に生えている苔を喰いに来るのを引っ掛けるこの釣り方は、「鉛の重さ」と「水の流れ」と「鉛が石に当たる間隔」が重要なポイントになります。 川底の石の苔が指先で引っ掻いたような跡があるときは必ず鮎はいるといいます。 その指先で引っ掻いたような跡が大きいほど鮎も大きいといいます。 鮎が掛からないときは、鉛が軽すぎて石の上を飛んでるか、重すぎて川底を這っている状態かのどちらかのようです。 鮎は浅瀬では上下の動きが制限されますが、川が深くなる「トロ場」では鮎も上下にも動く幅が広くなり、その分、竿も上下方向に斜めにジグザグにシャクルように動かす必要があります。 チャッポン釣りは五ヶ瀬川下流から中流までで行われる漁で、石が粗く大きくなる上流域では不向きな釣りで、時期は落ち鮎の頃が最盛期です。 ■ 藤江監物と岩熊堰春に大量の稚鮎の遡上が見られる岩熊堰。 岩熊堰ではその稚鮎を餌にしようと待ち構える鳥達がいつもたむろしています。 江戸時代の徳川8代将軍吉宗のときに新田開発を奨励する「享保の改革」が行われました。 延岡藩でも家老の藤江監物(けんもつ)は当時「雲雀(ひばり)の巣」と呼ばれ、広大な荒地であった出北地区を新田開発することにしました。 1724(享保9)年に郡(こおり)奉行の江尻喜多衛門の指揮によって工事が着手されましたが、台風の洪水によって堰が流失したり土砂の堆積などがあってたびたび中断して、そのために工事費が多額に膨らんで藩の財政を圧迫する事態となりました。 もともと藩の財政は苦しい状況にあった中、家老の藤江監物は反対派を押し切った上での新田開発だったのですが、工事が難航する事態を受けて優勢に立った反対派は彼に濡れ衣をかぶせて3人の息子とともに日之影の「舟の尾」の牢に投獄します。 半年足らずで病弱の長男が亡くなり、藤江監物はその死を悲しみ自らは食を断って後を追いました。 藤江監物の遺志は江尻 喜多右衛門が引継ぎ、監物が亡くなって3年ののち、11年もの歳月と多額の資金(10万両)をつぎ込んだ岩熊井堰と12キロにも及ぶ用水路がついに完成したのでした。 岩熊堰は総延長260キロの水路を結び、約450ヘクタールの田に今も水を送り続けています。 春の岩熊堰では、秋に卵からかえって海に下り、Uターンして五ヶ瀬川を遡上する鮎の稚魚が、堰という難関を前にして、それを超える意を決するために時間が必用なのか、手前の淀みでしばらく遊ぶように過ごしているような光景が見られます。
それでも鮎の稚魚はやがて一気に井堰を昇ります。 ところが岩熊井堰にはその鮎を待つ数羽の鷺がいつも待ち構えているのです。 毎年6月1日は五ヶ瀬川で鮎漁が解禁になります。 その日は鮎は、鷺に加えて人間からも狙われる受難の季節の到来です。 しかしながら、鷺が川下に向かって(種の保存のために)鮎をじっと待ちながらも、一方でのんびりと川で過ごしているように見える情景も、また大いに風情があるものです。 岩熊堰がもたらす水によって潤わされる農地は延岡市内の農地のなんと半分にも及んでいるのです。 |
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■ 北川の鮎漁 北川では「投げ刺し網」を使った鮎漁が行われます。 網は幅が約70cm長さが約12mで、網の下には「ユラ」という鉛が約150個下がり、網の上には長さ約10cmの竹の浮きがついています。 地元の漁師は竹の浮きと網をつなぐ紐を上手く輪にして網を投げます。 網は弧を描いて水底に達し、投げたあとは石を投げ込んで鮎を網の方向に泳がせるのです。 網は適度に広がらなくてはならず、広がり過ぎても広がらなくてもいけません。 経験でしかわからないという「投げ刺し網」は、驚いて逃げた鮎が突進して、網に頭を突っ込むことで漁になる漁法です。 秋になって簗が解禁になると、「柴堰(しばぜき)」を作って刺し網で鮎を獲る「まわし漁」が始まります。 柴堰は土木事務所の許可制で架ける柴堰には数の制限があります。 柴堰は青竹をつかって川を堰止める方法で、竹の葉が枯れると取替えをし、いつも青竹でないといけないことからか、別名「青ね」ともいいます。 柴堰の一部に箱メガネを置いて、水中の鮎を見ながら網を投げます。 「まわし漁」の名前の由来は、柴堰を作って鮎がその周辺を回遊するようにしむけて獲ることからついたようです。 「まくり漁」という資源枯渇型の鮎漁もあります。 「鮎獲りまくり漁」なのでしょうか、夜間に舟をだして投げ刺し網の2~3倍の網を引き回します。 広がった網に竹の棒で水面を叩いたり、石を投げて鮎を脅して網に誘う。 そんな荒っぽい漁が「まくり漁」です。 川が濁ったことによって衰退気味の漁に「ちょんがけ」があります。 北川では川に「立て網」を張って上流から下流に鮎を追い込んで、さらに網を狭くして集め、箱メガネで見ながら竿の先に仕掛けた針で引っ掛ける鮎漁です。 立て網を使わずに流れの中で水中メガネを使って泳ぐ鮎を直接ひっかける「ちょんがけ」は、最近特に見かけないようです。 私は耳川の支流で一度「ちょんがけ」をしたことがあります。 簡単な装備ですから、釣り針一本と小刀とほんの少しの糸があれば、川の周辺にある竹を切ってきて安く自前の仕掛けができます。 少し深さがあるところでしたが、ねばって型のいい一匹を仕留めたました。 今でも仕留めたときの感触が手に残っています。 ![]() ■ 「北川の鮎掛け」 その1 (雑記帳 file no.24) Oさんという知人がいる。 1950年辺りの生まれだと思う。 数年前営業で私のところに見えたときに、四方山話の中で彼が鮎の伝統的な漁法をしていて、この地方では彼と彼の父親だけしかやっていない、と話したのを記憶していた。 一月ほど前に彼の弟さんがひょっこりやってきた。 一年ほど前からOさんの鮎の漁法を見たくて機会を待っていたので、これ幸いと、弟さんに頼み込んだ。 それから何の音沙汰もないので、面倒だから関わりたくないのかも知れないと、半ば諦めていたら昨日の夕方に来てくれた。 その仕掛けから鮎の生態まで約90分、機関銃のように話してくれた。 鮎に対する愛情と知識がいっぱいのようだった。 私の目的が「五ヶ瀬川と鮎漁」であることを聞くと「私は北川ですけどいいですか」と言うので、「北川は五ヶ瀬川水系になっていますから大丈夫です。是非聞かせてくれませんか」とお願いをして話を始めて貰った。 最近の鮎は鯵やら鰯んごつ群れで泳いじょって縄張りを持たんとですよ」 「じゃから「友釣り」も掛からんですわ」 「海かい遡上して川で珪藻を食べて育った鮎は匂いを嗅いでん鮎独特の香りがすっとですが、そうじゃない鮎は匂いもせんし縄張りも作らん」 「三月ん河口に近い海で獲って県の水産試験場でしばらく太らせたのを各漁協が買うて川に放流すっとですけんどん、ほんとはその間に川を昇って珪藻を喰って縄張りなんかも作りながら鮎らしくなるっちゃけど、その大事な間に人間がやる餌を喰って育つもんじゃから鮎の性格が育たんとですわ」 「川を昇って育った鮎は全体の1割以下でしょうかね」 「そん鮎は「キンキン」と言うっちゃけど、自分の縄張りに他ん奴が入ってきたら背ビレをピーンと立てて凄っいスピードで追っ払いますよ。 それが綺麗な黄色をしちょって、追っ払って行くときは筋肉が張っているんでしょうかね、針が掛からんで体を滑るんですわ」 「狙いは追って行っての帰りのときの気が緩んだときがいいんですわ」 「それも一回は見逃してやっとですわ」 「竿を流竹ぐらいに見せておいてさらに気が緩んだ瞬間を狙うんですわ」 「僕は右からくる奴は苦手で左からくる奴が確立が高いですね」 「右利きじゃかい右かいくる奴は竿が邪魔して見えにくいかいでしょうね」 「竿は先の竿と手元の竿とあってですよ、それを鍛冶屋で作って貰った鉄の棒で繋ぐんですわ」 「先の竿は1メートルくらいで先を少し曲げるんですわ」 「そしてビニールの筒を用意して片方にネジを切ってキャップが出来るようするんですわ」 「ビニールパイプに水と竿を入れてキャップをして密閉して1年から2年置きますね」 「密閉すると空気が入らんから水が腐らんとですよ」 「水に長く浸けるすぎると逆に竹が脆くなるんですわ」 「そんげして作った竿なら鮎は流竹ぐらいにしか思わんで、それが青竹なんかじゃったらびっくりして警戒しますもんね」 Oさんが仕掛けの絵を描いてくれた。 耳川でやっている「チョンガケ」に近い仕掛けだと思い口に出した。 「うん、チョンガケと言うんですよ」 「じゃけんどん本当は「アユカケ」ですわ。親父なんかもそう言いよったです」 ただ、耳川で見て実際に自分でもやってみた、そして1尾だけ引っ掛けたあの仕掛けとは違う。 Oさんは、「最近は北川でもいるんですわ」 「針が二股に分かれちょって、短い竿の先に引っ掛けて、潜っちょってやたらめったら引っ掻き回しちょる」 「鮎とは遣り取りを楽しまないかん。網で獲る奴もおるけんどん、一網打尽はいかんですわ」 「鮎は獲っても育てないかんとですよ」 「北川もダムがある方の川はダム底からヘドロが流れてくるから水が濁っっちょるですもんね」 「ダムがない方の川は澄んじょって、潜ると気持ちいいして何もかも忘れらるっですもんね」 「北川ん鮎はあんまり大きくないってすよ」 「そのてん五ヶ瀬川ん鮎はおっきいですよ。僕は北川で28センチが最高じゃけど五ヶ瀬川のはおっきいですよ」 「八戸の鮎は特に大きい」 「やっぱ、五ヶ瀬川は餌があるってしょうね。コケがいいってしょう」 ■ 「北川の鮎掛け」 その2 (雑記帳 file no.25) 五ヶ瀬川は延岡市の吉野町で大瀬川と分かれ、そして方財の手前で合流して、その間に小さな二つの山を取り込んで三角州を形成し、そこが延岡市の中心地となる。 方財は昔は孤立した島であったものが五ヶ瀬川が運ぶ土砂を周囲に集めて陸続きになったし、陸に囲まれた島みたいになった。 とくに北の対岸は北川と祝子川と五ヶ瀬川が運ぶ土砂で埋め尽くされた広大な三角州になっている。 遡ると、北川は河口から大分県に向かって北上して国道10号線と日豊本線がそれに沿うように走る。 そして旧北川町の役場の近くで小川が北川に合流する。 本流の北川の大分県に入った所に「北川ダム」があり、支流の小川にはダムがない。 Oさんはダムがある方の本流は水が濁っていて「アユカケ」がし辛いと言う。 一方の小川に潜ると「気持ちいい」と言って、ダムは魚を守るためにはあってはならないと言う。 台風の後に川底の石が土に蔽われると餌のコケが死ぬ。それでも自然の川の回復力でまた土が再び洗い流されてコケが生える。 ところが、ダムがあるところは回復力が弱いと言う。 五ヶ瀬川水系のもう一つの川、祝子川は大崩山(1643m)の北に発し可愛岳(728m)直下西側を通って流れて、河口までは25km程度の短い川。 初めてホオリガワが祝子川と書くことを知ったときに首を捻ったが、それは日月を隔ててある日自分なりに腑に落ちる。 旧北方町の速日の峰と邇藝速日命(ニギハヤヒノミコト)の伝承のように、祝子(ホオリ)川とホオリ(火折命)は、何か関連する伝承があるのではないか。 探してみたら、小中合わせて生徒数が2名の祝子川小中学校のHPに期待したものがあった。 ホオリ(火折命)は別名が多すぎて混乱してしまうが山幸彦のことで、天孫瓊々杵尊(ニニギノミコト)と木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の間に生まれた三男。 瓊々杵尊は結婚した翌日に木花開耶姫から「あなたの子供が生まれるからすぐに産屋を用意してください」と言われて、自分の子ではないの じゃないかと妻を疑う。 木花開耶姫は怒って、自分の身の潔白を証明するために産屋の入口を塞いで火をつけて出産する。 二人の間にできた三男の名前は、ホデリ(火照命)、ホスセリ(火須勢理命)の次に産屋の火が収まりかけたときに生まれたのでホオリ(火折命)となった。 祝子川小中学校のHPは、祝子川の名前の由来の一つとして、そのホオリをこの川の水を産湯にしてその誕生を祝ったという伝説があることを紹介している。 ■ 「北川の鮎掛け」 その3 (雑記帳 file no.26) 祝子川の中流域を少し下ったところの「浜砂」集落から直線で約3kmのところに標高728mの可愛岳(えのだけ)がある。 「鹿川渓谷のページ」でも紹介したように、祖母傾国定公園の中の行縢山脈の東の端の山になる。 大崩山と同じ時期にできたこの山脈の可愛岳と行縢山の間を通り抜けて下るこの祝子川は、同じ祖母傾国定公園の中にある(鹿川渓谷を有する)綱ノ瀬川と同様に水は極めて澄んでいて、祝子川渓谷の景色もまた素晴らしい。 可愛岳はそれほどポピュラーな山ではないと思うがただ一点注目すべき点は、ホオリ(火折命)の父親である天孫瓊々杵尊(ニニギノミコト)の埋葬地であること。 明治政府は学者や宮内庁の調査をもとに明治29年に宮崎県東臼杵郡北川町の可愛岳(えのだけ)山麓の古墳を「可愛山陵伝承地」と定めている。 つまり、瓊々杵尊の埋葬地は可愛岳(えのだけ)にある古墳であるという結論をだしている。 さらには、可愛岳そのものが瓊々杵尊の神陵であるという伝承もある ■ 「北川の鮎掛け」 その4 (雑記帳 file no.27) Oさんの話に戻るまえに、五ヶ瀬川の名前の由来についての独り言を言おう。 五ヶ瀬川の名前の由来は、吐ノ瀬・窓ノ瀬・あららぎノ瀬・網ノ瀬・大瀬の五つの瀬があるから付いた名前だという説の方が認知されているのかも知れないがこの「五つの瀬」の説には与したくない。 何故なら、「瀬」とは、川の流れのなかで水深が浅くなっていて歩いて渡ることが出来るようなところをいうが、五ヶ瀬川にはそのような瀬は六も七つもそれ以上もあるはずで、五つに限定するのはいかにも後付け由来にみえて根拠が薄い。 それよりホオリ(祝子)川と同じように五瀬命(イツセノミコト)と関連した伝承の方が説得力があるし、何より「ようこそ宮崎」的であると思う。 五ヶ瀬川の由来は、五瀬命が命名したか五瀬命に因んで命名したかのどちらかであると考えたい。 高千穂地方には、長男の五瀬命から四男の神武天皇までの四人の皇子が生誕した場所である四皇子峰(しおうじがみね)の伝承地や、五瀬命が五ヶ瀬川に自ら臣下を遣わした五大水神の伝承や、そもそもこの地方では神武天皇が東征に出発するまでは高千穂にその宮居があったと伝えらているし、東征に参加した三男の三毛入野命(ミケイリヌノミコト)は途中で高千穂に帰ってきて鬼八という妖怪を退治してその子孫が代々後の高千穂地方を治めたという伝承があり、垂仁天皇の時代に創建されたと伝えられる高千穂神社はその三毛入野命を主祭神として祀っている神社である等々、五瀬命をはじめとする四皇子に関する伝承は他にもあって、この地方は四皇子とは繋がりが深い。 高天原と日向三代から神武にかけての天と地に及ぶ神話の舞台としての伝承が数多く残るこの神々の里高千穂地方から流れ出る神聖な川五ヶ瀬川は、五瀬命が命名したか五瀬命に因んで命名したかのどちらかであるという説の方が肯ける。 ■ 「北川の鮎掛け」 その5 (雑記帳 file no.31) 竿は二つに分かれていて先の竿は長さが1メートルくらいで1~2年密封した水に浸けて鮎が騙されるようにアクを抜く。 手元の竿は川の深さによって使い分けをするらしく2mとか3mで、これは鮎には近寄らないからアク抜きはしない。 その二本の竿を鍛冶屋で特注して作ってもらった鉄の棒で繋ぐ。 鉄の棒は70センチくらいの長さで両端が細くなっていて両方の竿に刺して繋ぐ。 鉄の棒は単にジョイント金具の目的のためではなくて、鮎を狙うときに竿の先を水中に沈める錘の役目もある。 「アユカケ」に使うハリは「鮎かけハリ15~16号」。 それを元細りの竹楊枝にテグスで固定して、元が細った竹楊枝は竿の先に刺す。 鮎を掛けたら「ハリと竹楊枝」が竿の先から抜けて鮎に追随することになるが、「ハリと竹楊枝」を竿に繋ぎとめておく仕掛けをする。 アユカケは川の中に立ってする場合と船からする場合がある。 県立博物館に船でアユカケをしている実物大の模型が展示されていて、たまたまその写真を撮っていたのでそれを見てもらった。 艫(船尾)に川石を入れて沈め、顔が水面すれすれになるようにする。 そこで自作の箱メガネで水中を見て鮎とのやりとりの後、首尾よく仕留めた鮎は箱メガネを取り敢えずの魚籠(びく)の代用として使いながら次なる動作に続いていく。 碇を繋いでいるロープは足に括りつける。 そして水中を覗きながらロープを引っ張ったり緩めたりして操船する。 ロープを引っ張ると艫は右に動く。緩めると船はその反対の動きをする。 活発に泳ぎ回る鮎を碇に繋ぐロープを使って追う。 そんな高等技術もあるとか。 後記 (2008.08.09) 「五ヶ瀬川と鮎漁」のページは長く不満を抱えながらこれまで我慢をしてきました。 「宮崎のページ・ようこそ宮崎」を通して全体に言えることのなのですが、HPの初期の段階でつくったページは概して出来が悪く、さりとて、外にも興味を惹く題材も多く、出来の悪いまま放置する状態が続くことになっていました。 「五ヶ瀬川と鮎漁」のページはアップロード以来初めての改訂を行ったのですが、「宮崎のページ・ようこそ宮崎」のHP作りの技量が(少し)向上すれば、また近いうちに不満の芽が少しずつ伸びてきて、また再び改訂の作業をすることになると思います。 五ヶ瀬川や北川には管理人が取材したいと願っている鮎の漁法があるのですが、今のところそれに当たる機会に恵まれていません。 「魚心あれば水心」といいます。 「水心」に遭うのを心待ちにしています。 |
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