裸まいり

裸まいり 

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裸まいり 


宮崎市青島神社の「裸まいり」は日本神話に直接関連する庶民の祭りで、日向市美々津に伝わる「おきよ祭り」などと同様に宮崎の人々にとって日本神話の主人公(達)がいかに身近な存在であって、当時から現在まで尊敬と親しみを持ち続けたかを裏付ける何よりの根拠と言えるものです。


海幸彦と山幸彦の物語は日本神話の中にあっても格別に情緒豊かな文学性があり、それゆえに古事記が長く人々に読まれ続けてきたのではないかといわれていますが、「裸まいり」については、地元においては記紀には書かれていない伝承を伝えています。

「裸まいり」は山幸彦が海神宮(わたつみのみや)から突然帰国して、それを聞きつけた人々が迎えの着替えをする間もなく着のみ着のままで海に飛び込んで迎えたことからはじまった祭りで、現在では褌程度の最小限の衣類を着けるようになりましたが、昔は男だけの祭りで、丸裸で神を迎えていました。



明治になって丸裸でする祭りを警察が改善するように注意をして、それ以来現在のようなスタイルで神迎えをすようになりました。

裸まいりで人々が冷たい海に次々に入っていく様は山幸彦の権威や徳が今に続いているように思えるのです。
また神として祀られている山幸彦はこの裸まいりは大いに喜ぶところで、この祭りに参加する善男善女に対しては特別のゴリヤクを保証したくなるのではないかとも思えてくるのです。



兄の海幸彦は海で魚などをとり、弟の山幸彦は山で獣などをとって暮らしていました。
ある日山幸彦は海で漁がしたくなって兄の海幸彦にそれぞれの道具を交換してみることを提案しました。

海幸彦はしぶったのですが、少しの間だけ交換することに同意しました。
山幸彦は兄の釣針で一日中海で魚釣りをしました。

ところが慣れない道具のために1匹も魚を釣ることができませんでした。
しかも山幸彦は兄から借りた釣針を海の中になくしてしまいました。

兄の海幸彦も獲物を捕えることができず、「山さちも己がさちさち、海さちも己がさちさち(山の幸も海の幸も、自分の道具でなくては得られない)」と言って自分の道具を返してもらおうとしました。

山幸彦が釣針をなくしてしまったことを告げると、海幸彦は弟を責めました。

山幸彦は兄に許してもらおうと大いに詫びたのですが許してもらえず、遂には自分の剣を潰して1000の釣針を作って兄に差し出したのですが海幸彦は「あの釣針でなければだめだ」と言って受け取りませんでした。



山幸彦が海辺で悲しんでいると、そこに塩椎神(しおつちのかみ:潮流を司る神又は航海の神)が現れました。
山幸彦が事情を話すと、塩椎神は目の詰まった竹篭のような小船を作ってくれてそれに山幸彦を乗せ、「流れに任せてそのまま進めば良い潮路に乗って海神(わたつみ)の宮に着く。

宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれる。
海神の宮殿へ行きなさい」と言いました。
山幸彦は教えられた通りにして海神の宮殿について、井戸の近くの香木(かつらの木)に登って待っていると、海神の娘の豊玉姫の侍女が水を汲みに外に出て来ました。

山幸彦は侍女に水が欲しいと言いました。
侍女は水を汲んで器に入れて山幸彦に差し出しました。
すると山幸彦は水を飲まずに首にかけていた玉を口に含んでその器に吐き入れたのです。

するとその玉が器にくっついて離れなくなってしまい、驚いた侍女は玉のついた器を豊玉姫に差し上げて、事の顛末を話したのでした。
不思議に思って外に出てみた豊玉姫は、山幸彦を見て一目で好きになりました。

父である海神も外に出てきて、そこにいるのが天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)の子の虚空彦(そらつひこ:山幸彦の尊称)であると言い、すぐに娘の豊玉姫と結婚させました。


こうして、海神の元で手厚いもてなしを受けて三年間を暮しました。
三年間たったある日、山幸彦はここに来た理由を思い出して深い溜息をつきました。

海神が溜息の理由を問うたので、山幸彦はここに来た事情を話しました。
海神は海中の魚たちを呼び集め、釣針を持っている者はいないか問うと、赤鯛の喉に引っかかっていることがわかったのでした。

海神は釣針と鹽盈珠(しおみちのたま)・鹽乾珠(しおひのたま)を山幸彦に差し出し、「この釣針を兄に返す時、『この針は、おぼ針、すす針、貧針、うる針(憂鬱になる針、心が落ち着かなくなる針、貧しくなる針、愚かになる針)』と言いながら、手を後に回して渡しなさい。

兄が高い土地に田を作ったらあなたは低い土地に、兄が低い土地に田を作ったらあなたは高い土地に田を作りなさい。
兄が攻めて来たら鹽盈珠で溺れさせ、苦しんで許しを請うてきたら鹽乾珠で命を助けなさい」と言いました。

そして海神は海中の和邇(わに/鮫の事)を集めて「山幸彦様が国に帰ろうとしておられる。
皆の中で誰が幾日でお送りできるか」と問いました。
答えた和邇の中に一日でお送りして帰ってきますと申し出た和邇がいて、山幸彦はその和邇に乗って無事に帰国したのです。

このとき山幸彦の突然の帰国に人々は迎えの着替えをする間もなく着のみ着のままで海に飛び込んで迎えたことから「裸まいり」ははじまった、と地元青島では伝えるのです。


山幸彦は海神に言われた通りに釣針を返し、言われた通りに田を作りました。
海神が水を掌っているので、海幸彦の田には水が行き渡らず、海幸彦は次第に貧しくなっていきました。

海幸彦が山幸彦を攻めて来ると、山幸彦は塩盈珠を出して溺れさせ、海幸彦が苦しんで許しを請うと、塩乾珠を出して救いました。
これを繰り返すうちに海幸彦は降参し、山幸彦に仕えて昼夜お守りすると言いいました。


「モシ吾ヲ活カサバ、生児八十連属(ウミノコヤソツギ)汝ノ垣ノ辺ヲ離レズ、常ニ俳優(ワザオギ)ノ民タラン」
記紀では海幸彦は隼人の祖とされていますが、この時以来、隼人族は俳優として後代まで歌舞(隼人舞)をもって朝廷に仕えました。

隼人舞は海で溺れるしぐさをする舞であると古事記は伝えます。
神武天皇の祖父となる山幸彦に敗れた海幸彦は岩船に乗って南に逃れました。

満潮の流れに乗って着いた所が(青島から直線距離で約15kmの)北郷町の潮嶽でした。
ここにある潮嶽神社は海幸彦を祀っていて、この地では縫い針の貸し借りを禁じる風習があります。


天孫降臨族は日向三代の初代である瓊々杵尊(ににぎのみこと)が木花開耶姫(このはなさくやひめ)と、山幸彦である二代目の彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)が豊玉姫(とよたまひめ)と、三代目の鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)が豊玉姫の妹の玉依姫(たまよりひめ)と、そして四代目の神武天皇が吾平津姫(あひらつひめ)、そして東征後に奈良の豪族の娘である伊須気余理比売(いすけよりひめ)といった、宮崎(日向国)を舞台とした美しい物語に仕立てた政略結婚をしていきます。

山幸彦は兄の海幸彦が支配する海をわがものにするために外部の勢力、とりもなおさず強い海軍力を持った勢力との同盟関係を構築すために海を渡ったのではないでしょうか。

兄の海幸彦を家臣にしたあとも支配を確実にするためには海神という勢力と自ら血縁を結ぶ必要があり、継嗣である鵜茅葺不合尊もさらに血縁を重ねる必用があったのでしょう。



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