3世紀半ばから7世紀前半に至るまで、これだけの大規模な古墳をつくり続ける権力がこの古代の宮崎に複数存在していました。
西都市の西の郊外に、全国でも有数の西都原古墳群があります。 文学博士喜田貞吉は「日向国史」においてこう論じています。
「之を近畿地方の大古墳に比するに、其の特別なる二三のものを除きては、敢えて甚だしく相譲らざるものあり、之を近畿以外の他の地方に存するものに比するに、是等と伍すべきものは極めて少許の数に出でざるべし。
殊にその数の多きに至りては、近畿地方を除いては殆ど比較すべきものを見ず。
以って我が古代日向の地方に、如何に多くの有力なる豪族の存在し、其の継続年間の、如何に久しかりしかを察すべし。
既に有力なる豪族あり其の下必ず之に副ふべき多数の民衆ありしなるべく、文化も自ら進歩せしものありしを疑はざるなり。
■ 西都原古墳群 ■
西都原古墳群では現在、高塚墳311基が存在していて、その内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基となっていますが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されています。 地下式横穴墓とは、地面に竪穴を掘り、そこから更に横穴を掘って地中に墓壙(玄室)をつくり、その中に被葬者を葬る墳墓の形式です。
それは、地上には何もその存在を示す物はなく、かっては田畑の耕作や農地改良の際に偶然発見されることが多かったのですが、最近では地中レーダーを使用することによって発見されることもあります。
地下式横穴墓は、西都原古墳群を北限に、一ツ瀬川、大淀川、川内川の各流域地帯や、宮崎県中央内陸部から霧島山麓の諸県盆地にかけて分布しており、宮崎県側で約600基、鹿児島県側で約100基が確認されていて、特に、えびの市周辺において、300基以上が確認されています。
したがって、古墳時代の南九州は、日本列島のなかで、地下式横穴墓や地下式石室などの個性的な墓造りの文化を生み出しましたが、前方後円墳の数は少ないのです。

男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳の案内板
しかし宮崎平野だけは極めて例外で、西都原古墳群はもとより、他にも数多くの前方後円墳が築かれていて、特に西都原古墳群には九州最大の前方後円墳・女狭穂塚があります。
女狭穂塚に隣接する男狭穂塚は、前方部が異常に短いために、帆立貝式とか造り出し部をもつ円墳などといわれますが、また一方で、女狭帆塚を築く時に破壊を受けたとか、築造途中で中断したという見方もあるのです。
帆立貝式とすれば、わが国最大規模。円墳とすれば、わが国最大どころかとび抜けて超大型になります。いずれにしても、なぜ宮崎にそんな大きな古墳が築かれたのかは誰しも疑問に思うことでしょう。
ところで、男狭穂塚は瓊々杵尊(ニニギノミコト)、女狭穂塚は瓊々杵尊の妻の妃木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)の墓と伝承されていて、目下陵墓参考地として、宮内庁の管轄下にあります。
天皇・皇后・皇族の墓として宮内庁が陵墓に指定している古墳は八十基ほどあり、そのうち四十六の古墳が陵墓参考地となっていて、これら陵墓とされた古墳は、「皇室歴代の祭祀の場」として宮内庁が立ち入りを厳しく制限しています。
その多くはわが国のトップクラス、あるいはその地域の最大規模を誇る大型前方後円墳であることは言うまでもありません。

男狭穂塚古墳
両塚の築造は5世紀初めごろで、被葬者は瓊々杵尊、妃木花開耶姫命説をはじめ、景行天皇が熊襲を征伐するために6年間滞在した際に日向の美波迦斯毘売(みはかしびめ)と結婚して生まれた皇子で日向国造の始祖、大首長であったと推測される、豊国別王(トヨクニワケノミコト)とその母美波迦斯毘売説。
また、日向の豪族の牛諸君牛諸井(牛諸井)(モロカタノキミウシモロ)が朝廷に服従を誓うために差し出した人質なのか、それとも絶世の美女との噂を聞いて応神天皇が召し上げようとしたのか、ともかく、姫を見た皇太子(後の仁徳天皇)はその美しさに感動して、父である応神天皇に自分に賜わるようお願いして妃にした髪長姫(かみながひめ)とその父、牛諸君牛諸井のものなのか、当時、女性は出身地に葬られる習慣があったこともあり、この親子埋葬説も含め、古代日向国を遠く眺めるに西都原の古墳群は興味が尽きないところです。
参考(日本書紀):景行12年熊襲が背いたので、征伐するために、同年の8月に景行天皇自ら西下します。11月にようやく日向国に入り、翌年の夏に熊襲平定しました。
日向高屋宮(宮崎県西都市近郊)に6年滞在して、18年3月に都へ向け出立して、熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡って、19年9月に帰りつきました。

女狭穂塚古墳正面
<国内最古級の前方後円墳の可能性> 毎日新聞 2005年5月18日
宮崎県西都市
の国特別史跡「西都原古墳群」にある81号墳が、3世紀中ごろに築造されたと見られる国内最古級の前方後 円墳の可能性が高いことが宮崎大の調査で確認された。
大和政権は全国の有力豪族が連携して成立したとの見方が近年有力 になってきているが、地下式横穴などの独自の葬送文化を持つ南九州は、そのらち外にあったと考えられてきた。
奈良盆地 とほぼ同時期の前方後円墳の発見により、南九州までが古墳文化の成立にかかわった可能性が出てきた。調査した宮崎大の 柳沢一男教授(考古学)が22日、東京である日本考古学会総会で発表する。
調査は04、05年度の2カ年計画。柳沢教授によると、81号墳の後円墳から3世紀中ごろのものと見られるつぼなど 計4点の土器が発見され、墳丘の形も前方後円墳出現期に特徴的な前方部が丸みを帯びた「纒向(まきむく)型」で、3世
紀中ごろの築造の可能性が高まったという。
81号墳は西都原台地東端にあり、墳長は46メートル。後円部の高さは3メ ートル。
柳沢教授は10年前の論文で既に81号墳が3世紀中ごろにできたものと推定し、調査していた。これまで4世紀とされ ていた西都原古墳群の築造開始年代も半世紀さかのぼることになる。
近年の発掘調査の成果により、弥生時代後半から列島各地に地域的な政治連合が形成され、それが相互に結びついていき、 近畿から北部九州に至る広域的な政治的まとまりが形成されたというのが、有力となっていた。
3世紀半ばから、纒向型古 墳がこれらの地域に出現し始め、3世紀後半から墳丘が200メートルを超える巨大な前方後円墳が奈良盆地に相次いで築 造されるためだ。
ただ、地下式横穴などの独特の葬送文化を持つ南九州は全く無関係と考えられてきた。
柳沢教授は「大和政権と呼ばれているものは全国の豪族が広く連携したシステムと考えられ、南九州の勢力もいち早く、古 墳を取り入れたと言えるのではないか」と話している。
[宮崎日日新聞記事より一部引用] 2005年9月3日
81号古墳から土器の中に遺体を納める土器棺の一部が見つかった事が2日わかった。
土器棺は弥生時代に用いられた埋葬形式。
宮崎大学柳沢一男教授は「81号墳が国内最古級の前方後円墳である可能性がさらに高まった」としている。宮崎大学グループは遺物の発掘状況も加味し、81号墳は卑弥呼の墓とされる奈良県の箸墓古墳より古い3世紀前半の古墳とみている。

鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)
【鬼の窟古墳(206号墳)(おにのいわやこふん)】
西都原古墳群内で唯一、内部主体に横穴式石室を採用している古墳です。
妃木花開耶姫に恋した鬼が一夜で造りあげたとする伝説が残ることが名の由来となっています。
石室入り口付近に生えていた楠により石室崩壊の危機にあったため、解体修復作業が行われ、その際同時に発掘調査が実施されました。
石室内の水を排出するための暗渠の存在や土塁が完全に古墳を一周していたこと、追葬が行われていたことなどが明らかとなりました。
古墳の周囲に土塁を巡らしているのは中華人民共和国・朝鮮半島ではよく見られますが、国内では奈良県明日香村にある(蘇我馬子の墓であったとする説が有力である)石舞台古墳が類似するのみで、両者の関係が注目される墳墓です。

鬼の窟古墳
【西都原古墳群の出土品】

子持家形埴輪(重要文化財)レプリカ 舟形埴輪(重要文化財)レプリカ
■ 持田古墳群 ■
昭和のはじめに盗掘にあい、地元の教委にもあまり資料が残っていないのが現状の持田古墳群は、現在確認されている古墳85基で、内10基が前方後円墳。地下式横穴墓は確認されていません。
古墳の地図は盗掘前のものと現在のものがあり、その30以上が地図の上で一致しないといいます。
重要文化財に指定されている持田古墳群出土といわれる画文帯神獣鏡は少なくとも3面以上存在するはずというものの、確認できるのは広島県の耕三寺博物館の1面だけです。同じく重要文化財の変形四獣形鏡は8面以上存在するといわれていて、宮崎県総合博物館に1面をはじめ全国4ヶ所で合計8面が確認できます。

1号墳 26号墳
【持田古墳群の出土品】
持田古墳群から出土したとされる青銅鏡の画文帯神獣鏡、及び変形四獣形鏡国指定重要文化財です。
また、金銅製馬具は、宮崎県内では14遺跡からの出土例があり、特に西都原古墳群内出土のものは国宝に、持田古墳群56号墳出土のものは重要美術品として指定されています。

重要文化財 持田古墳群出土 画文帯神獣鏡 重要文化財 持田古墳群出土 変形四獣形鏡

舟形石棺:持田古墳15号墳より出土
■ 生目古墳群 ■
生目古墳群は、市街地より北西へ6キロ、大淀川下流右岸の東西約1.3キロ、南北1.2キロの標高25メートルの丘陵上に立地しています。古墳は昭和18年の指定当時には43基が確認されていましたが、現在は前方後円墳7基、円墳22基の高塚古墳が見られ、他に発掘調査で明らかになった円墳7基、横穴墓9基、地下式横穴墓14基で構成されます。
これらの古墳は3〜7世紀にかけて築造されたものと思われ、畿内より西では唯一、100メートル級の前期(3世紀後半〜4世紀末)前方後円墳(1号墳・墳長136メートル、3号墳・同143メートル、22号墳・同117メートル)3基を含んでいます。特に1・3号墳はその墳丘形態から畿内政権との密接な関係がうかがわれ、3〜4世紀代の南九州を代表する首長墓であるといわれています。
生目古墳群は、国指定の重要な古墳群で宮崎の中心部にあるにもかかわらず、まったくといってよいほど知られていない。
むしろ古墳群よりも、眼病に御利益があるとされる生目神社のほうが有名かもしれない。
ところが、生目古墳群は、西都原よりも遥かに重要で、大きな謎を秘めた古墳群なのだ。
生目古墳群は、西都原古墳群より時代が全体的に古いのである。それどころか、いくつかの古墳は、日本最古と一般的に思われている箸墓古墳と同時代か、更に古い可能性もあるのだ。しかも、生目古墳群には、畿内にある古墳の、ほとんどすべてのタイプがそろっている。この時、案内をしてくれた調査関係者の一人が、思わぬ事をつぶやいた。「ここの古墳は、まだ知られてないけど、異常に古いんですよ。」「しかも、畿内にある古墳が、大きさが縮小した形ですべてそろっている。」
ここで思わず、私が聞き返した。「と言う事は、畿内の古墳は、ここをお手本に作ったと言う事ですか?」「そう考えるのが、自然ですよね。誰でもそう思うはずです」「でも、公には、畿内の巨大な勢力にあこがれた宮崎の勢力が、畿内に遠慮して、そっくり同じ物を少し小さく作った事になっています。」「でもそれでは、時代的に矛盾があるのではないですか?」「ウーン・・・・」
つまり、生目古墳群の示す所は、宮崎の平野部に、非常に古い時代に巨大古墳を作った大きな勢力が存在していたと言う事実だ。
しかし、歴史教科書の何処にも、宮崎に付いて詳しくかかれた部分は出てこない。
何故なのだろうか?
生目古墳群のある跡江地区と大淀川を挟んで対岸には、瓜生野と呼ばれる地区がある。
この瓜生野地区周辺部にも、信じられないほど多くの古墳が広がっている。
古墳として認定された場所以外にも数限りない古墳が存在する。あまりに古墳だらけのため開発が進むにつれて、その多くは発掘もされないまま壊されているのが実情である。
瓜生野地区の古墳が、生目古墳群と違うのは、巨大な前方後円墳が、存在しない事だ。ほとんどが、横穴式古墳である。周辺には、上北方、下北方、池内町などがあるが、この付近にも数限りない横穴式古墳、地下式横穴墓、円墳、前方後円墳などが広がっている。
この地区から、もう少し市中心部に下った所には、神武天皇を祭る宮崎神宮があり、その鎮守の森にも船塚古墳と呼ばれる立派な前方後円墳がある。
近くの平和台公園や蓮ヶ池にも古墳群が広がる。要するに、宮崎の平野部は、古墳だらけなのだ。図1に大規模な前方後円墳を含む主な古墳群を記したが、あくまで大規模で主な古墳群のみを記してある。
小さな古墳群を入れると市中心部から大淀川の流域にかけてほぼ全域が古墳群と言っても差し支えないだろう。宮崎市は、古墳群の中にできた町なのである。
九州古墳時代研究会発行の「宮崎平野の古墳と古墳群」によると、あくまでも概算としながらも宮崎平野部の前方後円墳150基、円墳1153基、方墳4基、横穴墓965以上、地下式横穴墓224以上と言う数字が掲載されている。考古学者の鈴木重治氏による昭和60>年発行の著作によると瓜生野地区だけで、昭和30年代の調査で90基以上の横穴墓が確認されていると言う。
ところが、瓜生野古墳群は、現在では主要な古墳群に掲載される事も無い。
おそらく、ここ50年の間に、その多くは破壊されたのだろう。これらの数字を見ただけでも、宮崎平野の古墳の数がいかに凄いかがわかるだろう。
しかもこの数字は確認されているものだけなので、確認されないまま壊されたものは含まれていない。
更に、横穴墓や地下式横穴墓に関しては、外から見えないだけに、いったい幾つあるのか検討もつかないのだ。それにもかかわらず、西都原古墳群のみが整備され、宣伝されてきた為、宮崎平野にこれほどの数の古墳が存在する事を知る者は少ない。
古墳と言えば、お墓である。墓がこれだけあるのだから、そこに暮らした人々が多くいた事は容易に想像できる。しかも、古くから多くの人々が暮らす宮崎平野部の古墳は、そのほとんどがすでに、跡形も無く壊されているのだ。古代においては、古墳の数は、今の数倍は有ったことだろう。
つまり、巨大な古代国家が、宮崎に存在したと言う事だ。
邪馬台国と製鉄 巨大墳丘墓に隠された幻の製鉄国家発見の目録 より一部引用

生目古墳群:3号墳
【生目古墳群の周辺部分を追加指定答申】
国の史跡で、古墳時代前期から中期(約1400〜1700年前)の大規模な前方後円墳がある宮崎市の「生目古墳群」に対して2006年11月17日、国の文化審議会文化財分科会が古墳の周辺部分も追加指定するよう文部科学相に答申した。
生目古墳群は1943年に国史跡に指定された。標高25mの丘陵地にあり、5万3456uの敷地に計43基の古墳があった。93年から市教委が実施した発掘調査で新たな古墳なども見つかり、一層の保護と活用を図るため、周辺の8万9525uの指定拡大を申請していた。追加指定されれば、総面積は14万2982uになり、古墳は計51基(地下式横穴墓を除く)になる。古墳群には前方後円墳が7基あり、九州で3番目に長い143mの「生目3号墳」など3基が100mを超える。西都原古墳群にある女狭穂塚古墳(全長176m)、男狭穂塚古墳(全長155m)に次ぐ規模となっている。
(2006.11.18 朝日新聞 記事の一部を引用)
【特異な埴輪 復元進む 百足塚古墳】
新富町新田の「百足塚古墳」から出土した埴輪29点が公開された。町の教育委員会は98年以降に同古墳から見つかった埴輪の多数の破片を使い、地道な復元作業を続けてきた。02年に続き2回目の一般公開で、新たに復元された埴輪18点も含まれる。全国初や西日本初公開となる出土品も並び、同古墳と近畿地方のつながりを示す手がかりとなりそうだ。
同古墳は国指定史跡「新田原古墳群」の中にあり、長さ約80mの前方後円墳。これまで確認できた形象埴輪は約60個体にのぼる。一般公開されるのは、全国初出土の「太鼓形埴輪」や、西日本で始めて復元された「ひざまずく男性」の埴輪など。 (2006.09.02 朝日新聞 記事の一部を掲載)

■ 宮崎県のその他の考古学的ページ ■
【県内最古の竪穴住居跡】
清武町船引の上猪ノ原遺跡で、県内最古となる縄文時代草創期(1万2千年〜1万年前)の6軒分の竪穴式住居跡が見つかった。
6軒が同時期にあったとすれば、この時代では全国的にも珍しい集落で、九州では最大規模となる。
同町教育委は「南九州で1万年以上前から定住生活があったことの裏付けになるのではないか」と期待している。
町教育委によると、縄文草創期の竪穴式住居は、鹿児島市の掃除山遺跡で2軒が見つかった例などがあるが、6軒は九州でははじめてという。
今回の発掘は県の農道工事に伴うもので、住居跡は深さ1メートル付近にある1万2千年前の火山灰の地層から見つかった。いずれもほぼ楕円形で、最も大きい住居跡は長径5.5メートル短径3.5メートル。
ほかの5軒は北東と南西を結ぶ一直線上に並んでいた。
3軒の住居跡の中央部分の土には焼けた跡があり、炉の跡とみられる。
その周りからは土器片や研磨されたすりこぎ状の石器も出土した。
さらに遺跡からは木の実をすりつぶすための石台なども見つかった。
重くて移動生活には不向きなため、定住生活を営んでいたことを裏付ける有力な根拠の一つだという。
同教委は、当時の主食は木の実をすりつぶした団子や小動物の肉などだったと推定している。
遺跡は現在は大地の突端に位置しているが、縄文草創期には海が間近まで迫っていたことから、魚介類も捕って食べていたとみている。
住居跡の周辺では、縄文早期(1万〜6千年前)の狩猟用の落とし穴の跡も多数見つかっている。
同町教委の伊東但生涯学習課係長は「今後の発掘で当時の人々の暮らしを復元し、定住のために必要な食料をどう確保していたのかなど、生活基盤や生活様式の解明を進めたい」と話している。
<橘昌信・別府大学教授(考古学)の話>
縄文時代草創期の集落跡は全国でも珍しい。定住があったかどうかが、今後の調査のポイントだ。
6軒が同時に存在したかどうかはまだ分からないが、竪穴式住居があったということは、人が長期間そこに住んでいた証拠だ。縄文時代の草創期から早期にかけての定住化の過渡期に、どんな生活が営まれていたのか。遺構や遺物の今後の調査に期待している。 (2007.05.09朝日新聞記事全文)
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