延岡市街地から西北の行縢山にかけては、先土器期(前期新石器時代)から縄文期にかけての下舞野遺跡や大貫貝塚がある。
これらの遺跡が現在の海岸線から遠く距離を隔てた内陸部にあるのは、当時の海がこの地域まで深く入り込んでいたことを裏づける。
その後、海岸線が後退するにつれて、縄文後期から弥生・古墳期に至る遺跡が次第に広がり、貝の畑遺跡、南方古墳群、沖田貝塚と、現在の海岸線に向けて遺される。
その南方古墳群は、天下枝群、吉野・今井枝群、大貫枝群、舞野枝群、野地・野田枝群の五つの枝群に分かれていて、前方後円墳5基を含む42基が存在する。

天下神社
『日向の風土記に曰く、臼杵の郡の内、智鋪(高千穂)の里。
天津彦火瓊瓊杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて威稜の道別きに道別きて、日向の高千穂の二上山の峰に天降りましき。』
延岡市の市街地の西の方に、五ヶ瀬川が大瀬川と分かれるところがあり、その付近の地域を天下(アモリ)という。
この地域をなぜ天下(テンカ、ではなくて、アモリ)と呼ぶようになったのか、などとぼんやりとは考えたことはあるが、祝子(ホオリ)川の名前の由来と同じように、ある日突然に謎が解ける。
日向の風土記にせよ古事記にせよ、ニニギノミコトの天孫降臨は「アマクダリ(天降り)」、つまり文字を変えれば天下(アマクダリ)となる。
戦国時代のこの地方の武将が天下盗りを企てた故事によるものではなくて、天下りの伝承がそのまま地名となって、音はアマクダリからアモリとなったようだ。
注、天下神社には狛犬なし

南方古墳群一号墳
延岡市の天下町を中心として、五ヶ瀬川に沿って国指定古墳が広く分布している。
これらの古墳のほとんどは大正二年から昭和二年にかけて発掘調査が実施されたが、この天下神社叢内にある南方古墳群一号墳(前方後円墳)と二号墳(円墳)は未発掘の古墳である。
天下(あもり)神社は、その南方古墳群の一号墳と二号墳の間に、というよりも、二号墳の一部を解体して、残った二号墳と手付かずの一号墳の間にある。
そして、ここから北側三百メートルにある森の中に、十号墳(前方後円墳)がある。

南方古墳群十号墳の森

南方古墳群十号墳
十号墳は、すでに大正二年に発掘され、中から粘土棺が発見され、副葬品として、勾玉三個、管玉二十三個、竹櫛十四本、小刀一振、大刀二振、剣二振が出土している。
この前方後円墳の十号墳は、天下神社のある(未発掘の)同じく前方後円墳の一号墳と相対して、しかも同じ方向に並んで配置されている。

南方古墳群二号墳
『平成操練所』というホームページに南方古墳群に関する、私が求めていた内容の記述があったので紹介する。(下記【】書)
【この方(天忍穂耳尊)は宮崎というよりも、都農以北にしか神社も見当たらないところを見ると、女王の国の北部の押えとして、今の耳川以北、東郷町、日向市、延岡市のほうをおさめていたと推察される。
西郷、東郷と流れて、美々津海岸に注ぐ川を「耳川」というのも、この「耳尊」の名からとったのではないかと思われる。(中略)それで、北からの侵入に備えて、長男のこの天忍穂耳尊を、今の日向市、延岡市の地方においたのではないかと思われる。
また、神武天皇が、大和へ養子にこられる時、なぜ、大日霊女の居城、西都に近い一ツ瀬川の川口か、高鍋の浜から出港しないで、わざわざこんなに北へ歩いてきて、この耳川の川口から出港されたか。
やはり、この付近に伯父の忍穂耳尊がおられたので、そこに挨拶されるためだったと考えられる。神武天皇が大和へ養子に決まった時、鹿児島県隼人町におられた伯父の日子火々出見尊の所へ挨拶に行かれたらしいことは、そこにある鹿児島神宮(祭神、日子火々出見尊)の記録にある。(中略)この方(天忍穂耳尊)の事績や墓陵は、はっきりしていない。
鹿児島県川内市の瓊々杵尊の墓陵や、鹿児島空港に近い溝辺町の日子火々出見尊の墓陵、それから大隅の吾平町の鵜茅草葺不合尊の墓陵には、現在、宮内庁の詰所があり、官服の役人が詰めて、代々皇族方が御参拝されている。
また、次男の穂日尊の住んだ跡も、その墓陵も出雲にはっきりと存在している。
それだのに、この長男天忍穂耳尊だけが、墓陵がはっきりしていない。
延岡市の南方古墳群が昔から有名だから、あの辺にあるかもしれないと、自動車で二時間ばかり南方の部落を探してみたが、はっきりしなかった。
一カ所だけ部落の人家のある中に、小山があって、山上に神社があり、その裏に「古墳につき立ち入らないで下さい」と、柵のようなものがしてあった。
あの小山全体が古墳とすれば、よほど偉い人の墓陵であると思ったが、確かめる方法はなかった。皇室関係でも、この天忍穂耳の墓陵だけが判っていないようである。(『古代日本正史』P305-P307)
天忍穂耳尊は「忘れられた長男」なのである。「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」というりっぱな諡号をもらいながら、実のところ、現在まで「捨ておかれてきた神」なのである。
(原田氏が天忍穂耳尊の墓陵ではないかと推測し訪れた場所は、このHPの遺跡ページで見ることができる。[遺跡]ページの「瓊々杵尊1」天下神社参照)
私は、将来、天忍穂耳尊の墓陵がはっきりし、正しい名前で祀られるようになることを願っている。】
天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)は、日本神話に登場する神で、古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、日本書紀では天忍穂耳命、先代旧事本紀では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。
古事記では、アマテラスとスサノオとの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男で、物実の持ち主であるアマテラスの子としている。高木神の娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間にニニギをもうけた。
葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。
タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった。

天下神社とその裏手の二号墳
天下神社は上ノ原と呼ばれる丘陵の上にあるが、この上ノ原丘陵には天下神社境内にある南方古墳群の一号墳、二号墳を含めて九基の古墳が点在する。
一号墳は、全長71mの柄鏡式前方後円墳で、今日まで発掘調査はされておらず、内部は不明。
一号墳の東約30mに位置する二号墳は、径25m、高さ4.1mの円墳で封土の一部を失っており、石室の一部と思われる巨石が露出していて、明らかに石を割るために打込んだと見られる楔痕が斜めに続いているのが見える。
天下神社は一号墳と残された二号墳との間30mに建っていることになるが、神社を建てるために二号墳を解体しようとしたのか、それとも、誰かが破壊しようとして途中で中止した二号墳を祀るために神社を建てたのか。
現地の天下世話人会がたてた由緒書きには【言ひ伝えによりますと、村の人々が神社の建設の際山を切り取った時に石が出て来たので石工が神社の石段として割り出さうとしたところ頭上に多くのカラスが舞い下りて仕事をとめるように鳴き散らし又仕事にたずさわっていた人々が倒れる等した為割ってはならない石であらうと言うことで作業を取り止め現在に至ったものであります。】また【この古墳は高さ二米八○、直径東西二十六米五○、南北十二米、の大きさで、大正十二年十一月十六日、元延岡城主内藤家の協力にて考古学者石塚直太郎博士と村上兄一氏が東京より招聘され調査の結果、ご神体はニニギノミコトの塚であると今日まで伝えられています。】と続いている。
天下神社のある南方古墳群の一号墳、二号墳のある場所は、霊的な感覚に鈍感な者ですらそれらしき神秘性を感じさせる雰囲気がある。
二号墳の脇に「この場所の土を外へ持ち出すとどんなたたりがあるかわからないので、けっして土を持ち出してはならぬ」という趣旨の小さな看板がある。
観察するにも写真を撮るにも、宮崎の数ある神社や古墳の中にあっても、神域に対する相当の配慮を要求される場所の一つと感じたのは私一人だろうか。
瓊々杵尊の陵墓の伝承については、「鹿児島県薩摩川内市の新田神社」、「延岡市北川町の可愛岳(えのだけ)山麓の古墳」、「西都原古墳群の男狭穂塚」、それにこの「南方古墳群の(天下神社の横の)二号墳」と合計四ヶ所あるが、四ヶ所の内の三ヶ所は宮崎県内にあり、しかも二ヶ所は、高千穂地方から流れ下る五ヶ瀬川の下流の、別の言い方をすれば、高千穂の二上山から六峰街道を東に進んで速日の峰から天下った延岡市にある。
南方古墳群の一号墳と相対してある十号墳との関係の謎や、石室を覆う封土の一部を失くして、かつ石室の一部を解体しようとして途中で逃げ出したような痕跡を留める二号墳と天下神社の謎は将来誰かが解くことがあるのだろうか。
皇室関係の中で、その陵墓の一つの候補地もない天忍穂耳の墓陵だという推理も大いに興味をひくところであるが、天下(あもり)という地名の由来については、記紀などの神話についての知識のまったく普通の人は、ある日「あっ」と納得して、長年の疑問を解決する。
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