一般的に日本神話と呼ばれるものは、そのほとんどが『古事記』と『日本書紀』及び『風土記』に書かれている記述を元にしているもののようです。
また伝説とは、古来人から人へと言い伝えられてきた話や噂で、それが具体的な事物に直接結びついて語られるところに特徴があります。
伝説には特定の山や川などが登場して、語る側はその言い伝えが真実であるのを信じ、聴く側にそれを要求するような要素もあります。
民話は、民衆によって口述されてきた昔話や伝説、説話などを広く含めたもので、場合によっては神話でさえその源泉は民話であることもあって、その概念はきわめて曖昧であると言えます。
「ようこそ宮崎」においては、民話の概念を広くそして曖昧のままにして、たくさんある「宮崎の民話」を大いに楽しむこととしましょう。
|
■ 宮崎の民話(1)の目次 ■
|
1 大浪池の民話(霧島連山)
2 銀鏡村の地名となった民話
3 米良の地名となった民話
|
4 高千穂の鬼八の民話
5 小倉ヶ浜と金ヶ浜の民話 |
 |
| 大浪池(おおなみいけ) |
■ 大浪池(おおなみいけ)の民話
千三百年も前のことと言いますから、奈良時代の終わりの頃でしょうか、今の西都市の妻町に「仁右衛門」と「さき」の夫婦が住んでいました。
「仁右衛門」は穂北地区を納めていた豪族でしたが、「さき」とのあいだに子供が恵まれませんでした。
「仁右衛門」と「さき」の夫婦は「神様、どうかわたしども夫婦に子供を授けてください。きっと可愛がって立派に育て上げて、時がきたら必ずお返しいたします。
どうかわたしども夫婦に子供をお授けください」と来る日も来る日も祈っていました。
そうして過ごしていたある日、「さき」が身籠りました。
そして臨月をむかえて可愛い女の子が誕生しました。
夫婦は天にも昇るように喜び、名を「お浪」とつけて、それはそれはとても可愛がって育てました。
「お浪」はすこやかに成長していって年頃になると近郷一の美人といわれるようになりました。
ところがその頃から「仁右衛門」と「さき」には気になることが毎夜おこるようになりました。
朝になってみると決まって「お浪」の草履が濡れているのです。
「仁右衛門」はある夜、「お浪」の足音を聞きつけて後を追いました。
「お浪」は屋敷のすぐ近くの池までいくと、その姿を白い馬に変えて池の周囲を回っているのでした。
驚いた「仁右衛門」は急いで屋敷に帰って、「さき」に今見てきたことを話してやりました。
翌朝、心をきめた「仁右衛門」と「さき」は「お浪」を部屋に呼んで、昨夜見たことを話して、そのわけを訊きました。「お浪」は聞きおわると涙を流しながら「私の姿を見てしまわれたのですね。
いずれこのことはお話しなければなりませんでした。父様母様、これまで本当にありがとうございました。
父様母様が神様に約束なさったように、わたしはもう帰らないといけません。
この先、わたしに会いたいときには、どうか霧島山の大池においでください」と言うと、そのまま行ってしまいました。
「仁右衛門」と「さき」は「お浪」がいない寂しさに居ても立ってもいられずに霧島山に向かい、二日の後に麓まで辿りついて、さらに鬱蒼と樹木が生い茂る森の中を歩いてようやく大池の畔に着きました。
「お浪〜お浪〜、姿を見せてくれ〜」「お浪〜父じゃぞ〜お浪〜母じゃぞ〜」
するとそれまで穏やかだった水面がにわかに浪立って「お浪」が現れたのです。
「父様母様、遠いところをわざわざお出で下さいましてありがとうございます。せっかくお出でいただいたのですが、お会いできるのはこれが最後です。父様母様、親不孝をどうかお許しください」
と言うと、「お浪」は池に入っていきました。
「仁右衛門」と「さき」は「お浪」の姿を見たものの、あまりの短い間のことで、もう一度見たいと切望します。
「お浪、お前の言うとおりにいたしましょう。だが今一度その姿をこの父、母に見せてはくれないか」
すると、先ほどにも増して大きく水面が盛り上がり、大きく浪が立つと、これまで見たこともない美しい「お浪」が再び姿を現しました。そして次の刹那、大きく浪打つ水の中でお浪の姿は大きな白い蛇に変わりました。
すると天空のどこからかお浪の声で「父様、母様、これまで本当にありがとうございました。
父様と母様と暮らした日々は幸せでございました。ご恩は決して忘れません。どうかお体を大事になさってお暮らしください。もうここには二度とお出でになってなりません。
父様、池の畔の銀杏の枝を杖にしてお帰りください。
杖はお庭のどこかに刺して下さい。やがてその杖は大きな銀杏になります。
そしてその銀杏とともにお家は栄えます。そしてわたしも達者でございます」
大池から持ち帰った銀杏の杖は、「お浪」の言ったように庭に刺した。
杖はやがて芽をだして、枝を張って、ついには大きな銀杏の木になりました。
「仁右衛門」と「さき」は大いに栄えました。
「仁右衛門」と「さき」はお浪の墓をたてました。
墓は南向きに立てましたが、いつのまにか西を向く。
何度直してもいつのまにか霧島山の大池の方向を向いたといわれています。
西都市白馬(しろうま)町は「お浪」が白馬に化身したという伝説に由来するといわれています。
大浪池は霧島連山の韓国岳(1700m)の頂から南西の方角に直線距離で1キロと少しのところにあって、とても神秘的な火口湖です。
大浪池は、その姿はいかにも伝説を生みそうな池で、韓国岳から見ていると今にも大きな竜が湖面を大きく波立たせながら空に舞い上がっていきそうな、そんなロマン溢れる雰囲気を漂わせています。
|
 |
| 銀鏡神社(しろみじんじゃ) |
■ 銀鏡村(しろみむら)の民話
高天原から降臨した天孫瓊々杵尊(ににぎのもこと)は笠沙(かささ)の御前(みさき)で木花開耶姫(このはなさくやひめ)と出会いました。
一目で木花開耶姫を好きになった瓊々杵尊はその場で求婚します。
木花開耶姫はそれには、父の大山津見神(おおやまつみのかみ)にお訊ねくださいとこたえました。
訪問を受けた大山津見神は天津神(あまつかみ)の御子との縁談を大いに喜んで、木花開耶姫にその姉の磐長姫(いわながひめ)を添えて瓊々杵尊のもとへ送りとどけました。
瓊々杵尊は磐長姫が美しくはなかったので大山津見神のもとへ送りかえしました。
父の大山津見神のところに帰ってきた磐長姫は、大いに嘆き悲しんで、自分の顔を鏡にうつして見ていました。
あるとき自分の顔が龍に見えて、その鏡を怒りをこめて投げ飛ばしたのでした。
鏡は(旧)東米良の龍房山(りゅうほうさん)の頂の大きな木の上にかかって、麓の村を昼夜通して白々照らし続けました。
それよりこの地を白見村というようになったのです。
磐長姫は、投げた鏡を追って旅に出て、とうとう白見村を探し当ててやってきました。
そして白見村にその身を隠してしまったのです。
その後、白見村の長老が龍房山に登り、鏡を村に下ろして祀るようになりました。
白見村はこの故事に因んでそれより銀鏡(しろみ)村と呼ぶようになりました。
銀鏡神社は磐長姫と大山津見神を祭神としていて、磐長姫のご神体として銀の鏡が祀られています。
また、毎年12月に奉納される銀鏡神楽は国指定重要無形民俗文化財になっています。
|
 |
| 西米良村のかりこぼうず大橋(日本一長い140mの木造の車道橋) |
■ 米良(めら)の地名となった民話
銀眼神社は現在は西都市に合併されていますが、古くは東米良でありました。
この地に身を隠した磐長姫が米を作ったら大変よく稔ったそうです。
磐長姫は「コメヨシ コメヨシ」と大いに喜んだそうです。
そのことからこの地を「米良」と呼ぶようになったというこです。
|
 |
| 鬼八塚 |
古代の高千穂の人々に恐れられて、それ故にしっかりとした伝承(民話)を残した鬼八は、何故に、これほど高千穂の人々に手厚く祀られているでしょうか。
鬼八塚は以外にも高千穂の市街地のほぼ中心にあって、一本のヒバが塚全体を覆い、それはまるで雨や風から鬼八塚を優しく守っているようにも見えます。
そのことは、高千穂の村人の鬼八に対して今も続いている恐れの念からなのかも知れません。
■ 鬼八(きはち)の民話
他の兄弟とともに神武天皇の東征に従った三毛入野命(みけいりのみこと)は、熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「母も叔母も海神であるのに、どうして我々は波によって進軍を阻まれなければならないのか」と言って、波頭を踏んで常世に行ったと(日本書紀)されていますが、高千穂の伝承(民話)においては三毛入野命は途中ではぐれて高千穂に帰ってくるのです。
高千穂の伝承では、神武天皇軍が東征に出発したのは高千穂からとされていて、神武天皇軍が抜けたことによって、当時、阿蘇一帯を含めて高千穂であった地域の、それまで保たれていた軍事的バランスが一度に崩れてしまったのでしょうか。三毛入野命が高千穂に帰ってみると鬼八という妖怪が思うがままに振舞っていて、村人は恐れ慄いていたのでした。
三毛入野命は日向国に着くと、延岡から五ヶ瀬川を上って高千穂に入ろうとしました。
鬼八はそうはさせじと妖術をつかい、大雨を降らせて五ヶ瀬川を洪水にして、行く手を阻みました。
「日之影町」の地名は、このとき大雨がやんで日が射してきた所であったからついた名前と伝わっています。
三毛入野命はその宮居を「あららぎの里」に決めて住むことにしましたが、村人は大いに喜んで七日に及んで神楽を舞ってそれに応えたということです。
あるとき、三毛入野命が御塩井の谷を歩いていると、美しい姫に出会いました。
身分を聞くと、祖母嶽明神の娘の稲穂姫の娘で鵜ノ目姫だと名乗りましたが、鬼八から無理に連れてこられて鬼ヶ岩屋という場所にいるといいます。
三毛入野命は鬼八の悪行を退治したいと思うようになっていたのに加えて、鵜ノ目姫があまりに美しい姫であったので鬼八を討って姫を自分の妃に迎えたいと思いました。
三毛入野命は右大臣富高、左大臣田部をはじめ、総勢44人で鬼八退治に向かいました。
命らの軍勢により岩屋の前面をふさがれた鬼八は、太さ1尺角、長さ1丈3尺もの石棒を持ち、さらに妖術をつかいながら逃走して、諸塚から椎葉、椎葉から米良、米良から八代、八代から阿蘇へと山々を逃げ回ります。
鬼八は松の大木を根こそぎ引き抜いて応戦したりして、7日間の戦いで三毛入野命の軍勢は、鬼八にそのほとんどが討ち取られて、命と右大臣富高、左大臣田部の3人のみとなったのです。
それでも鬼八はついに三田井原で追いつめられて右大臣富高、左大臣田部の両人に挟まれたところを命が最期の一振りを下し、とうとう成敗されたのでした。
命は鬼八の体を地中に埋めました。
ところが一晩でもとの鬼八が生き返ってくるので、左大臣田部が長刀で鬼八を倒して体を三つに分けて埋めました。鬼八の墓は三つあるといわれていますが、一つは加尾羽(かおば)、一つは尾羽子(おばね)、そして一つは祝部(ほうり)の三ヶ所で、この後鬼八は二度と生き返ることはなかったそうです。
ところが、鬼八は死んだ後も霊が目覚めて、地下で唸り声をあげ、また、霜を降らせて村人を困らせたそうです。
村人は鬼八の祟りを恐れ、鬼八申霜宮という祠をたててその霊を祀り、また毎年人身御供をして慰霊をしました。人身御供は戦国時代まで続きましたが、岩井川(日之影町)の時の領主、甲斐宗摂が猪を供えることにして、その風習は形を変えたそうです。現在は高千穂神社において「ししかけ祭り」として受け継がれています。
鬼八が松の大木を引き抜いた所を「根引原」、鬼八が切られた所を「鬼切畑」、といって、現在もその地名が残っています。
一方、命は鵜ノ目姫を妃に迎えて、二人の子孫が代々高千穂を納めました。
三毛入野命は妃の鵜ノ目姫と八人の子が合祀されて「十社大明神」として祀られて、後の高千穂神社となったのです。
|
 |
| 金ケ浜 |
「金ヶ浜にもお倉浜と同じくこんにちではハマグリがとれるのに、とれないという民話がなぜおこったのか。たしかに以前は金ヶ浜ではほんとうにハマグリがとれなかったからこそ生まれた民話であると考えられるが、その原因はたたら製鉄の鉄穴流しで川の水や海が赤く濁ったためではないかということになる。」とは佐藤忠郎著の「郷土の地名雑録」の「金ヶ浜」に関する記述の一部です。
氏は同著の中で、金ヶ浜に意地悪な女性がいたためにハマグリがとれなくなったという民話は古代の公害かくしではなかったかと推論して、また、金ヶ浜は砂鉄が多くあって昭和の初期には砂鉄の採取が行われていたことをなどを紹介しています。
■小倉ヶ浜と金ヶ浜の民話
むかし、岩脇というところにお金とお倉がすんでいました。
岩脇の近くの浜は昔から蛤のよく採れるところでしたが、ある日、浜でお金が蛤を採っていました。
そこに一人の僧がやってきて、お金が採った蛤を見て「その見事な蛤をいくつか分けて下さらぬか」と言いました。
するとお金は「これは蛤ではない。蛤に似た石じゃ」と言いました。
「そうですか、それは大きな勘違いをしてしもうた。ところでお前様の名は何と申されるか」
「お金じゃ」
「お金と申されるか、それではこれから後、この浜をお金ヶ浜と名付けて後の世まで石ばかりの浜にしよう」と言い残して歩いて行きました。
僧は浜沿いに北に歩いていくとお倉が蛤を採っていました。
僧はお倉のところまで来ると、「その見事な蛤をいくつか分けて下さらぬか」と言いました。
お倉は「ここでは蛤はいくらでもございますのでお好きなだけお持ち下さい」と籠の蛤を差し出しました。
「これはありがたい。なんとお礼をしたものかと思うが、見た通りの貧乏僧侶ゆえ何もできぬ」
「ところでお前様の名は何と申されるか」
「お倉です」
「お倉と申されるか、それではせめて、この浜をお倉ヶ浜と名付けて後の世まで蛤がよく採れる浜にしてあげよう」と言い残して歩いて行きました。
地元ではこの僧のことは空海(弘法大師)だと伝承されています。
現在では小倉ヶ浜のある日向市以外の碁石用蛤の産地は消えて、加工技術もまた日向だけが受け継ついでいます。黒石を含めて蛤碁石が作られているのは、全国で日向市のみとなっています。
「小倉ヶ浜」は「日本の白砂青松100選」と「日本の渚100選」に選ばれています。
|