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| 宮崎の民話(2) | |||
民話は、民衆によって口述されてきた昔話や伝説や説話などを広く含めたものです。 たくさんある「宮崎の民話」を大いに楽しむことにしましょう。 「宮崎の民話(2)」では、『平家物語』、『謡曲』、『人形浄瑠璃』、『歌舞伎』などの古典芸能の世界ではよく知られた主人公の『平景清』の宮崎での民話を、景清や娘の人丸が供養されている『景清廟』、景清が建立したと伝わる五つの寺の中から廟に最も近いところにある『帝釈寺』、それと景清を祭神としている、目の神様として古来より全国に知られている『生目神社』などをあわせて紹介します。 ■ 宮崎の民話(2)の目次 1 平景清の民話のはじめに 2 平景清の民話 3 能の謡曲 『景清』 4 生目神社 |
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■ 平景清の民話のはじめに徳川三代将軍家光が編纂を命じた『本朝通鑑』続編は義経が死んでいなかったという記述をしましたが、義経とジンギスカンとはこの時代では伝説としてまだ結びついてはいないようです。 「義経は後にジンギスカンになったという伝説」は近年にうまれたもののようで、それを最初に唱えたのは意外にも外国人のシ−ボルトであったのです。 英雄の死後の伝説は義経ばかりではなく、同一人物で各地に複数あるのも特徴のようです。 義経と同時代を生きて、ともに相戦った平景清は悪七兵衛景清として知られていますが、ここで言う「悪」は豪勇という意味で使われるもので、とくに屋島の戦いにおいての三保谷十郎との一騎打ちで三保谷の兜の錣(しころ)を掴んでの双方の力比べは有名な話として伝わっています。 錣(しころ)とは、兜の鉢の左右、後方に下げて首筋を覆う部分をいいますが、屋島の戦いで三保谷(みほや)の錣を素手で引きちぎったという武勇談が能の『景清』でも『屋島』でも語られます。 景清は幸若舞の『景清』、能の『大仏供養』、近松門左衛門の作で自身の出世作ともなった(新)浄瑠璃の『出世景清』などなど日本の古典芸能における(アンチ)英雄として数多く庶民の前に登場したのです。 平景清は平氏に仕えて戦ったので一般に平姓で呼ばれていますが、本名は藤原景清といいました。 平景清は壇ノ浦の戦いで敗れた後、ひそかに生きのびて平家の残党となって、再び挙兵に加わって抵抗をして首尾よくいかず、源氏に捕らわれて絶食して自決して果てた、とされるのが一般的のようです。 その平景清は宮崎においては古くから壇ノ浦 『後』 の伝説(民話)が伝わっています。宮崎の民話では、平景清は仇敵である源頼朝から「日向勾当」に任ぜられるて (当時の人々にしてみれば、都や鎌倉から宮崎までというものは、現代の私たちからは想像も出来ないほど遠いものであったでありましょう) 日向国に下向するのですが、 勾当とは当時の大蔵省の役職名でありました。 また勾当とは寺にあっては法務をつかさどる役僧の名でもあり、さらに「勾当法師」とは、盲人の官名で検校(けんぎよう)の下で座頭の上に位したものでもありました。 平景清については失明した父景清のために娘が遊里に身を売って看病目をしたという話や、目を患ったが回復したという伝承がいくつかあったり、平景清の盲目説は数多くあって、そのことが平曲を語る琵琶法師が景清を開祖としている伝承を伝えたといいます。 宮崎の民話においては景清が失明したのは日向国にきてから後のことになっているのですが、宮崎の景清民話は、景清が身分の高い盲人であったことをも物語のオープニングから併せ織り込んだ成立だったのかも知れません。 |
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■ 平景清の民話平家が壇ノ浦の戦いで敗れた後、源氏の大将、頼朝は景清の優れた武勇を惜しんで家臣として重く用いたいと思ったのですが、景清はそれには及ばず、西国に流してくれるように願いました。 頼朝は景清の意思を汲んで日向勾当として宮崎郡北方、南方、池内村、の三百石を与えました。 文治二年十一月、景清は家臣の大野、黒岩、高妻、松半、山野、旧橋、重長、有半等を引き連れて日向国に下り、下北方古城(宮崎市)に居城しました。 日向国に住んで後、景清は滅亡していった平家一門の人々を供養しようと、深く神仏に帰依しました。 そして、下北方名田(みょうだ)、帝釈寺(たいしゃくじ)、岩戸寺、浮之城、正光寺などを建立しました。 景清は、新しい環境のこの地で静かに余生を過ごしたいと考えましたが、過去にあった記憶がよみがえり、また、源氏が権勢を欲しいままにしている現実などに対する苛立ちなどのために、もがき続けました。 ついにはその苦しさから逃れるために、自分の両眼をえぐって投げ捨てました。 投げられた両眼は大淀川を越えて生目神社の松の木の枝に引っかかって留まりました。 以来その松は、「目かけの松」と呼ばれていて、本殿の真後ろにその何代目かになるという子孫があります。現在、「目かけの松」はきちんと区画された場所にたっていますが、周囲の木々が高く、それらの鬱蒼と繁った葉に日光が遮られて、少し気の毒な状態です。 景清の両眼は神の霊力と化して、生目神社は全国に眼病に効能がある神社として知られています。 生目神社は平(藤原)景清を祭神として、その両眼を祀っているといわれています。 日向国で孤独な生活をつづけていた景清は、あるとき霧島山の参詣を思い立ち、西諸の眞幸(まさき)から登山しましたが、その帰途、健保二年八月十五日、山中の池のほとりで病死しました。 ときに六十二才、景清の遺骸を宮崎に持ち帰り埋葬しました。 現在、宮崎市下北方にある景清廟がそれであり、今でも近隣の住民に手厚く供養をされています。 景清は尾張の熱田で阿古屋という馴染みの女性がいました。 そして、人丸という娘を設けましたが、女では役にたたないということで、鎌倉の亀が江が谷(かめがえがやつ)の長者の家に預けておきました。 人丸は成長したのち父景清を慕ってはるばる日向の地にやってきました。 そして、盲目の父の世話をしていたといいます。 しかし、建永元年九月、父に先立って二十七才の若さで亡くなったのです。 人丸の墓は景清廟の一隅にあって、同じように手厚く供養されています。 また、廟の近くの土持院には、生前景清がつかっていたという春日野の琵琶が今も保存されています。 |
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■ 能の謡曲 『景清』世阿弥元清の作と言われている(実は不明)有名な能 『景清』 の謡曲のあらすじを紹介します。 平家の侍大将であった平景清は「悪七兵衛(あくしちびょうえ)と呼ばれる豪の者であったが、壇ノ浦の合戦の後に捕らわれの身となって日向国の宮崎に流されました。 今は盲目となり、琵琶を弾じて平曲(へいきょく)を語り、僅かばかりの施しを受けて細々と命を繋ぎ、土地では「日向の勾当」と呼ばれていました。 景清には鎌倉の宿の主人に預けたままの娘がありました。 娘の名は人丸といいましたが、生まれて間もなく分かれて、その後は会うこともありませんでした。 その人丸が生死も定かではない父を慕って、一人の従者を連れて鎌倉を出発しました。 源平の争乱が治まったとはいえ、道々の治安の悪さはいかばかりであったでしょうか。 危険でかつ長い旅路の末に、人丸と従者は日向国にたどり着きました。 そのころの景清は、わびしい庵で、門を閉ざして一人で住んでいました。 目は見えず、衣をくれる人もなく、体は痩せ細って、見るからに貧しい姿をしていました。 「世を捨てたのであるから、出家入道の姿をしているはずであるのに、黒衣も着ていない。俗体のままで落ちぶれて自分でもあさましく思うくらいだから、人が嫌がるのは当たり前だ。」などと愚痴を言っていました。 日向国に着いた人丸主従は、訪ねまわった末、乞食(こつじき)が住むとしか思えない粗末な庵の前を通りかかり、その中から、低く小さく声が聞こえてくるのを聞き咎めて庵の主に声をかけました。 「この辺りに平家の侍で、悪七兵衛景清という流人がいるはずですが、その人の居る場所をご存知ありませんか。」 景清はその刹那、自分の娘の人丸が訪ねてきたことに気付くのですが、平然と答えます。 「景清なるものがいるとは聞いてはいるが、さて何処にいるやら。私は盲目でよく知らない。人の噂によると、その景清なるものはいかにも浅ましい様子でいると聞いている。気の毒なことだが他で聞かれよ。」 景清はこの様に落ちぶれ果てた姿をたった一人の肉親である人丸にさらすのを許さなかったのです。 しかし、咄嗟の判断で人違いを装いながら景清は絶ち難い親子の絆を思い知ります。 熱田の遊女の生んだ人丸のことなどは、思い出したこともなかったものを、今になって自分に親子の情があることに気付かされるのです。 景清にかわされて人丸主従はその場を去りました。 人丸と従者が立ち去った後で、景清は、親子で言葉を交わしながら声を聞くだけしかできないわが身の不遇を嘆きました。 景清のもとを去った人丸主従は、まもなく道で里人に会い、従者が事情を話すと、先ほどの盲目の乞食が父の景清であると教えてくれたのでした。 景清が盲目となったこと、髪をおろして自分から勾当と名乗っていること、旅人や土地の人に米や銭の施しを受けて命をつないでいることなども、里人は語ってくれたのでした。 里人の案内によって、人丸主従はふたたび景清の庵へと引き返しました。 里人が表から声をかけると、景清は一度は怒号するものの、人の情にすがる他は生きるすべのない悲しみにすぐ頭を垂れてしまいます。 「いまさっき、あなたを訪ねた人はいませんか。」 里人の質問に景清は静かに答えました。 「いやいや、あなたのほかに誰も訪ねてきた人はいません。」 「あなたの娘さんがさっき訪ねてきたことを、どうしてお隠しになるのです。事情を聞いて、あまりお気の毒なので連れてきましたよ。」 と言うと、里人は人丸を景清の前に差し招きました。 人丸は父親に取り縋って泣き崩れました。 「この乞食を父であると名乗ったら、若く美しいおまえの恥になると思って親であることを名乗らなかった。悪く思ってくれるな。」 「昔は権勢を誇る気持ちから、親しくない人でも、自分を訪ねてこないと悪く思ったものだが、今では自分の子にさえ、顔をあわせまいとするとはなんと悲しいことか。」と景清は嘆きました。 間もなく人丸は屋島で合戦が行われたときの父の功名談を聞かせてくれるように頼みました。 景清は、「話を聞かせるから、それを聞いたらすぐ鎌倉に帰るのだぞ。」 と、人丸に約束をさせて上で景清は彼女が望む合戦の話を語り始めました。 壽永三年、三月。平家は海に源氏は陸に布陣して対峙した。 戦評定の場において能登守教経が 「これまで播磨の宝山、備中の水島、鵯越と我軍はいつも負け続けている。これはひとえに義経の謀(はかりごと)が優れているためであると思うので、なんとかして義経を捕らえたい。」 と言う。 それに対して 「九郎判官義経といえども鬼神などではない。捨て身の覚悟で戦いを挑めば討ちもらすはずはない。」 と能登守にそう申して、自分は源氏の軍勢がいる陸地に上がった。 それを待っていた源氏の軍勢は、どっと押し寄せてきた。 源氏何するものぞと、自分は夕日影のなかに刀を振るって切ってかかる。 源氏方はそれに耐えかねて、四方にぱっと逃げてしまう。 自分は、これを逃してはならないと、 「みっともない、みっともない。そんなざまでみっともない。源平の両軍に恥ずかしくないか、せめて一人くらいは我に立ち向かえ。それがしは平家の侍、悪七兵衛景清である。」 と叫びながら、薙刀を脇にかかえて、名乗り名乗って、源氏の侍を討ち取ろうと追っかけていった。 そうしている内に、三保谷四郎国俊という侍が逃げて走っていくのに追いついて、冑のしころを引っ掴んだ。 二度、三度と、三保谷はしころに掛かった自分の手を外して逃げていく。 これは優れた武将であると思い、逃がしてはならいないと思い、自分はなおも飛びかかった。 冑を掴んで、渾身の力を込めて「えい」と引っ張ると、しころは千切れて、自分の手に残った。 三保谷はそれには構わずにどんどん逃げる。 二人の間の距離ができて、お互いに顔を見合わせた。 「恐ろしいものだ、あなたの腕の強さは」 と三保谷が言う。 「三保谷の首の骨こそ、強いものだ。」 と自分は答える。 二人は笑って別れた。 長々と語りおわると、景清は言いました。 「昔を思い出しての物語を語り我身の衰えに心も乱れた。 自分の余生は長くない。 人丸は早く鎌倉に帰って、自分の亡きあとを弔ってくれ。 父はそれを冥土で待っていよう。」 「父上それではまいります」 「さらばよ人丸、父はここに留る」 景清と人丸は互いに涙のなかに最後の別れをしました。 ■ 曹洞宗 帝釈禅寺景清がいくつか建立したと言われる寺の一つの曹洞宗帝釈寺は平和台公園の南側にあります。 平和台公園は宮崎市街地の北の端に位置している小高い山にあるのですが、この地は「下北方」といい、神武天皇が東征に出発するまでその宮居があったといわれる「皇宮屋(こぐや)」があります。 景清が埋葬されたとされる「景清廟」と、景清が建立したといわれる「帝釈寺」と、「皇宮屋」は、それぞれ目と鼻の先のところにあって、お隣さんトライアングルになっています。 帝釈寺は鐘撞き堂があるお寺で、その山門の前の道を隔てたところに池があります。 池は護岸のためのコンクリート工事などは施されておらず、亀や鯉がのんびりと泳いでいます。 帝釈寺のすぐ西(約150m)には大淀川が流れていて、川を越えて南西に約4kmのところに景清が投げた両眼が留まったという生目神社があります。 ■ 生目神社御祭神 (15代)応神天皇 藤原景清 御相殿 彦火瓊々杵尊 彦火火出見尊 鵜茅葺不合尊 生目神社は古来より生目(活目)八幡宮と称えていましたが、明治になって、生目神社と改称しました。 八幡宮は第15代応神天皇をお祀りする神社であり、武運長久を願って武士に厚く信仰されています。 かって八幡宮であった生目神社では、その祭神として八幡宮である所以の応神天皇に加えて藤原(平)景清をお祀りしています。 生目(いきめ)という地名の起源は種々の説がありあます。 一説には景清の活(生)きているような目の霊を祀ったので、活(生)目となった。 一説には古くから眼を活かすに不思議に霊験があったので活(生)目といわれるようになった。 一説には活目入彦五十狭茅尊(垂仁天皇)が祀られていて尊の名前の「活」の一字から活目となった。 生目神社は古くから目の神様として全国に知られていて参詣者が多い神社です。 また、生目神社のある亀井山から出る湧水は硼酸性の天然水で、昔から神の水として眼病に効能があるとされてきました。 |
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