木喰 五智如来 |
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国分寺(こくぶんじ)は、聖武天皇が741年に国状不安を鎮撫するために各国に建立を命じた寺院で、正式名称を金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)という。 各国には国分寺は国府のそばに置かれ、多くの場合、国庁とともにその国の最大の建築物であった。 大和国の東大寺は総国分寺とされ、全国の国分寺の総本山と位置づけられた。 日向国分寺の建立時期については記録が残っていないため不明だが、『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平勝宝8歳(756年)12月20日の条に、越後、丹波、日向など26か国の国分寺の名が記載されていることから、建立の詔が発せられた741年から756年までの16年間に建立されたと考えられる。 1948年に日向考古調査団、1961年及び1989年に宮崎県教育委員会によって確認調査が実施された。 その際、僧房跡と推定される遺構が確認されたが、、主要伽藍配置については不明であった。 その後、1995年から西都市教育委員会によって実施された確認調査によって、金堂のものと推定される掘込地業跡や中門跡、さらに、回廊跡とその外側に巡らされていたと推定される溝が検出され、主要伽藍配置についてわずかではあるが判明した。 今日では日向国分寺跡の周辺は宅地化が進み、一部は墓地になっていて、遺跡を確認するには条件が悪いが、それでも、3回の建て替えがおこなわれたことが判明した。 日向国分寺は、方二町の寺域を持ち、東西南北に門を有し、南大門、中門、金堂、講堂を南北一線に並べ、中門、金堂を回廊で結び、南東に塔を配する典型的な国分寺様式であったと考えられている。 都が奈良から平安京に遷されると、新しい墾田の私財化が進み、貴族や寺社の特権に保護された荘園の形成によって律令体制が崩れた。 そして財政支持を失った国分寺の多くは廃れたが、異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けた。 日向国分寺は江戸時代には寺はあったようだがその詳細は不明である。 ![]() 木喰上人(もくじきしょうにん)は55歳のときに日本廻国の大願を発し、全国行脚の途についた。 その途中、四国から豊後を経て天明八年(1788)に日向国分寺に来た。 三宅村の住人たちは木喰上人を喜んで迎え住職になってくれるようにお願いをした。 木喰上人はその希望を受け入れて、寛政九年(1797)までの九年間、三宅村にとどまった。 ![]() 三年経った寛政三年(1791)に寺が原因不明の火災で全焼した。 73歳になっていた木喰上人は責任を感じるとともに大きく落胆したに違いない。 木喰上人は同年再建の大願を発し日向国各地を托鉢に回り寄付を集めた。 寺は寛政五年に再建が成った。 ![]() 釈迦如来坐像 ![]() 阿弥陀如来坐像 ![]() 大日如来坐像 ![]() 薬師如来坐像 ![]() 宝生如来坐像 木喰は1718年(享保3年)、甲斐国東河内領丸畑村(現在の山梨県南巨摩郡身延町古関字丸畑)の名主伊藤家に生まれた。 14歳の時、家人に「畑仕事に行く」と言い残して家出をした。 その後しばらくのあいだは木喰の消息は定かでないが、22歳の時に相模国(神奈川県伊勢原市)の古義真言宗に属する大山不動で出家。 45歳のときに常陸国(茨城県水戸市)の真言宗羅漢寺で、木食観海から木食戒(もくじきかい)を受けた。 「戒」とは仏教者として守るべき規律のことであり、「木食」とは五穀(米、麦、アワ、ヒエ、キビ)あるいは十穀(五穀+トウモロコシ、ソバ、大豆、小豆、黒豆)を絶ち、山菜や生の木の実しか口にしないという、厳しい戒律である。 木喰は、木食戒を受けて10年以上を経た56歳の時廻国修行に旅立つ。 以後、木喰は北海道から鹿児島県まで日本全国を遍歴し、この間、佐渡島に4年間、日向国分寺に9年間留まったのを例外として、1つの土地に長く留まることなく行脚した。 遊行僧(ゆぎょうそう)の典型である木喰は、特に仏像彫刻家として知られた人物である。 訪れた先に「木喰仏」(もくじきぶつ)を刻んで奉納したので日本全国におびただしい数の遺品が残っている。 その木喰の仏像彫刻家としてのスタートは61歳であり、30年後の91歳の時まで制作を続けた。 木喰が住職となった西都市の日向国分寺の跡地にある「木喰五智館」に安置されている五体の如来像は五智如来という。 五智如来はいずれも高さ三メートルほどで、日本中の木喰の作品の中では最大のもので、木喰のこの如来像を刻んだときの気概を物語る。 如来の顔の特徴はといえば、眉は太く、鼻は胡坐をかいて低くて大きく、顎のえらが張って唇は厚い。 庶民のなかのどこにでもいるような人物でかつ徳が高くて穏やかな顔相の如来である。 その顔には慈愛が溢れ出ていて、何の前知識を持たずに前に立ってもその優しさを感じることができるほどである。 木喰の仏は「木喰の微笑仏」と呼ばれている。 それでいて如来に残るノミのあとは、達観した木喰の心境の写しかと思えるような大胆さがある。 木喰の残した五智如来は、明治になって起こった廃仏毀釈の難をある村人の尽力でまぬがれて、現在は日向国分寺跡に建つ「木喰五智館」に何事もなかったように安置されている。 寛政九年(1810)に再び旅の僧となった木喰は文化七年(1810)に93歳で没したされるが、どこが木喰の終焉の地であるかは分っていない。 |
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