飫肥

                                                       ようこそ宮崎

 飫肥              

飫肥       飫肥の武家屋敷跡を歩くと今にも刀をさした武士が向こうの角から姿を現すような感じがします。
国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された飫肥の街並みは、とても落ち着きがあります。
この飫肥の街を作ってきた人々や、それを今まで守ってきた人々は、どんな人々だったのか。
そんな興味から、飫肥のルーツを辿ってみます。

      
                        飫肥城    

【飫肥藩主伊東氏の祖、工藤祐経】
小学校6年生で学習するのでしょうか、「大化の改新」で有名な藤原氏の始祖の藤原鎌足。
何故飫肥を語るに突然のように藤原鎌足が出るのか。
それは、藤原鎌足は後の飫肥藩主伊東氏の遠い先祖であることで飫肥との関わりがある人で、そういう意味でこのページの冒頭を飾るに最高の人なのです。 

          
                      藤原鎌足像

その藤原鎌足から11代目の藤原為憲が、852年、木工介(もっこうにすけ)と言う役職に任じられ、「木工の藤原氏」という意味でここに「工藤」をはじめて名乗ることになります。
現在の国土交通省の大臣みたいなものでしょうか。
それからさらに、この藤原為憲から8代目の工藤祐経さん(?〜1193)が日向伊東氏の祖にあたる人ですが、その工藤祐経は有名な曽我兄弟の仇討にあって亡くなります。
その物語のはじまりはこうです。

工藤祐経は幼少の頃に父を失なって、彼の従兄にあたる伊東祐親の世話を受けて育つのですが、父の領地(伊東の荘)は、まだ何も理解できない祐経に代わって伊東祐親が実権を奪ってしまいました。
しかしあるとき、工藤祐経は、領地の主は自分であることに気がついて、伊東祐親に領地を返してくれるよう要求します。ところが伊東祐親それに応じませんでした。
1176年、伊東祐親が狩を催した折の帰り道に工藤祐経は伊東祐親をねらって家来に弓を射掛けさせました。
ところが矢は伊東祐親には当たらず、そばにいた息子の河津祐泰にあたり河津祐泰は死亡するのです。
このとき河津祐泰には五歳の一万丸と三歳の筥王丸の兄弟がいました。
祐泰の亡き後、妻満江御前は兄弟を連れて曽我太郎祐信と再婚して、後に、兄は曽我十郎祐成、弟は曽我五郎時致と名乗り、父の仇である工藤祐経の命を狙うようになります。
工藤祐経は歌舞音曲に通じ教養のあった人ようで、源頼朝に信任され、奥州征伐の功として、日向国の地頭職、陸奥国鞭指庄など二十四ケ国に所領を賜り、ここに日向との縁が始まります。


        
                  曽我兄弟(浮世絵)

【曽我兄弟の仇討ち】
源頼朝は、1193年に多くの御家人を集めて富士山の裾野で巻狩(軍事演習)を行いました。
その巻狩の行われている5月28日の夜中、工藤祐経は曽我兄弟の仇討ちによって落命します。
ところで、この曽我兄弟の墓と言われているものは全国に数十箇所あるらしいのですが、宮崎県日向市にもあります。
この墓の形は「五輪塔」と言って、鎌倉時代から江戸時代にかけての様式の石塔だということです。
墓は 日向市の江良児童公園の東側の幹線道路沿いにあって、重厚な五輪塔で、日向市が「曽我の森」と称して保護してる359uの森の中で(車の音はしても)曽我兄弟は悠久の眠りについているようです。
曽我兄弟がどういう人物なのかを知ってか知らずか、地元の人達はこの曽我兄弟の墓と言われる五輪塔を今に至るまで保存してきたことに不思議な思いがするのです。
伊東氏の戦国時代の日知屋城址は、この墓から近くにあります。


        
                 曽我兄弟の墓(日向市江良町)

【日向国下向】
仇討ちによって亡くなった工藤祐経の庶子伊東祐時は1198年、日向国の県庄、富田庄、田島庄、木脇庄などの地頭職を受け継ぎ、祐明、祐景、祐頼(いずれも祐時の子)を代官として日向に派遣して、三人の伊東氏はここに日向の国に土着することになるのです。
伊東祐時の子伊東祐光から4代目の伊東祐持は南北朝内乱期に足利尊氏に従い尊良(たかなが)親王軍との箱根での合戦で活躍して尊氏よりさらに都於郡三百町をもらって伊東氏本家が下向して、日向の宮方の軍と戦い、また京に上っては戦います。


        
                  都於郡城址本丸階段

【島津氏との興亡と飫肥城陥落】
当時(鎌倉時代初頭)の飫肥は、島津荘寄郡(よせごおり)の一つで、地頭島津忠久の支配下にありました。
伊東祐持からさらに6代目の伊東祐尭のころになると伊東氏は青井岳の東部地域まで勢力を拡大して島津氏との日向戦国時代に入ります。
島津との百年以上に及ぶ長い興亡戦場の一つが飫肥であったのです。
1484年には都於郡の伊東祐尭はその子の祐国祐邑に飫肥城を攻めさせ、自身は清武城に出張りますが祐尭は清武城で病死するのです。
祐国輔邑の兄弟はそのまま飫肥城を攻めて勝利します。
翌1485年、伊東祐国は都於郡城、弟の伊東祐邑は日知屋城からそれぞれ8000の軍で飫肥城を攻めました。
このとき(1485年)の戦いで伊東祐国は戦死します。
その後の飫肥城には島津氏は一族の島津忠廉が入り、その子孫が飫肥城の守備にあたりました。
伊東祐国から3代目の伊東義祐は再び飫肥城奪取を志します。
飫肥城を取り囲むように砦を配し、28年の間戦が続くのですが、1568年、義祐は2万の軍を率い146日に及ぶ興亡の末、ついに飫肥城は伊東氏に帰するところになったのです。

        
                   都於郡城見取図

【木崎原(きさきばる)の合戦】
1572年、さらに領土の拡張を目指す都於郡の伊東義祐
は加久藤城を攻めます。
その加久藤城には僅かの兵しかいなかったのですが城が堅固でなかなか落ちません。
てこずった伊東軍は一度飯野川まで引いて休息をとっているところに加久藤城に向った島津義弘が引き返してきて木崎原で激突することになります。
この戦いで伊東加賀守柚木崎丹後守
などの伊東軍の有力な武将達が戦死して、結果、伊東軍は大打撃を被り、その後は衰退して行きます。
この木崎原の合戦が伊東、島津両氏の長い攻防の決着の戦いになるのですが、この後、伊東義祐は1577年、島津軍が都於郡に迫ると、山深い道を通って豊後の大友宗麟を頼って行くのです。


        
                  高城(木城町)

        
          高城に上る階段:慰霊のためのものと思われる僧侶の石像



【豊後落ち】
城雪穂の小説「雪の道」は困難を極めた義祐一行の「豊後落ち」を書いてiいます。
義祐が島津の来襲を前に、佐土原城を退去したのは九日未の刻であった。義賢、祐勝兄弟と、その母阿喜多らが、都於郡城を捨てたのも、ほぼおなじころであった。新田原の西のはずれで落ち合った一行は、海沿いの日向路を北にむかった。落ちゆくあては、豊後府内の大友宗麟である。義祐の嗣子義益に嫁した阿喜多の父は、土佐一条中納言基房で、母は大友宗麟の妹にあたる。敗戦の義祐には、いまや、宗麟ひとりが頼りの綱であった。いくほども行かぬうちに、思いもかけぬ事態がおこった。財部(高鍋)城主落合刑部少輔に通行をさしとめられた上に、矢を射かけられたのである。財部城は義祐全盛時代の伊東家48城のひとつである。民部少輔の心がわりは、、嫡男落合丹後が、かって義祐の忌諱にふれて自害したことが原因であった。一行はやむなく、奥日向の山越えをえらんだ。その夜は穂北城主長倉洞雲斎の館にとまり、米良山中に踏み入ったのは、翌十日の朝まだきであった。
ところで、豊後落ちの際に伊東義祐の娘の子に後の天正遣欧少年使節の正使、伊東 マンショがいました。
1569年の生まれであるから当時8歳です。
その伊東マンショを豊後まで負ぶって落ち延びさせた家臣の田中国広のは後に正宗に次ぐほどの刀鍛冶になるのです。

        
            都於郡城址にある石郡(文字は刻まれていない)


【田中国広】 
現在の綾町古屋の出身で、刀鍛冶を営んでいました。
綾は国広の時代は都於郡伊東氏の領地でしたが、1577年の伊東氏の豊後落ちの際、当時8歳の伊東マンショを負ぶって逃避行したと伝わっています。
また、1587年、豊臣秀吉は島津氏を攻め、そのときに島津軍の「国広」の銘の矢じりの鋭いことに気づき、国広を京に呼んだ伝わっています。
伊東氏豊後落ち後しばらくは豊後で鍛治に勤めていたようですが、その後足利学校に赴いたらしく、長尾顕長に仕えていたともいわれています。
小田原の役頃に京にゆき、埋忠明寿の所で研究を重ね、時の正親町天皇は国広の名声を聞くに、一振りの刀を所望し、その出来栄えに「信濃守」の位をを与えたほどでした。
朝鮮出兵の際には豊臣秀吉から遠征軍に従うように命を受け、彼の地で刀を鍛えるのですが、中に「釜山海の湊に於て之を造る」という銘のものは現在たいへん珍重なものです。
朝鮮出兵の後は元の主君の伊東祐兵に仕えました。
国広の鍛えた刀は石田三成・加藤清正・立花宗茂らも所有したといい、現在でも1000万円レベルの高額品です。
「日州古屋住国広」・「国広」・「信濃守国広」・「堀川信濃守国広」・「藤原国広」などで知られています。
田中国広の家の跡は綾町にあって県指定文化財になっています。


        
                 田中国広の生家跡(綾町)

        
                 田中国広の鍛えた刀剣(綾城蔵)

【伊東マンショ】
マンショは洗礼名であり本名は伊東祐益といいました。
父は伊東祐青で母は伊東義祐の娘(通称「町の上」)でした。
伊東氏が島津氏の攻撃を受け、伊東氏の支城の綾城が落城した際、当時8歳だった伊東マンショは家臣の田中国広に背負われ豊後に落ち延びるのです。
豊後に暮らしていたときにキリスト教と出会い、司祭を志して有馬のセミナリヨに入りました。
日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノはキリシタン大名であった大村純忠と知り合い、日本の布教事業を立て直すため、また日本人の司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節(天正遣欧少年使節)をローマに派遣しようと考えました。
そんな中、ヴァリニャーノの目に留まったのが、セミナリヨで学んでいた四人の少年たちでした。
伊東マンショは「大友宗麟の姪、一条房基子女の夫である伊東義益の妹の子」という遠縁の関係にあったことから大友宗麟の名代として、使節の正使として選ばれました。
本当は義益の息子で宗麟と血縁関係にある伊東祐勝が派遣される予定であったようですが、当時祐勝は安土にいて出発に間にあわないため、マンショが代役となったといいます。
その選考基準は容姿端麗であり、長旅に耐える健康を備え、語学や勉学においてすぐれていることでありました。
1582年(天正10年)2月、と言いますから、織田信長が本能寺の変で討たれる年になります、使節はイニヤスマリー号という小さな帆船を使って出航して、17日目にマカオに着きました。
船の便の都合でマカオに9ヶ月間の滞在を余儀なくされ、ようやく出航するものの船が漂流することになり、インドのゴアにやっとの思いで到着します。
1584年5月にゴアを出航。
同年8月にリスボン、1585年3月、ようやくローマに到着することができました。
ローマにあっては、終始使節の首席として振舞い、スペイン国王フェリーペ2世教皇グレゴリウス13世らキリスト教世界の最高位の人々から絶大な歓迎を受け、名誉を授けられました。 1590年、日本に戻ってきた彼らを謁見した豊臣秀吉は彼らを大いに気に入り、伊東マンショには特に強く仕官を勧めるのですが、司祭になることを決めていた伊東マンショはそれを断ります。
その後、司祭になる勉強を続けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続けました。
1601年には神学の高等課程を学ぶため、マカオのコレジオにります。
(この時点で千々石ミゲルは退会。)1608年、伊東マンショ原マルティノ中浦ジュリアンはそろって司祭に叙階されました。伊東マンショ神父は小倉を拠点に活動していましたが、1611年に領主細川忠興によって追放され、中津へ移り、さらに追われて長崎へ移りました。
長崎のコレジオで布教していましたが、1612年に病死。
ヨーロッパからの帰国から22年目でした。
 

        
                    伊東マンショ

【耳川の合戦】
1578年、大友宗麟は5万の軍を率いて日向に入り松尾城(延岡市)の土持氏を滅ぼして、無鹿(延岡市)に本陣を敷いて高城(現在の木城町)まで攻め上ります。
対して島津義久は日向、薩摩、大隈の三国の軍を率いて佐土原、都於郡、財部(高鍋)に布陣して激突します。
小丸川の戦いで豊後勢は破れて耳川まで退きました。
耳川においては、島津軍は南岸、大友軍は北岸にて対峙します。
戦いは壮絶を極め、大友軍4千、島津軍3千の戦死者は耳川流れを堰き止めたと言われます。
この耳川の合戦の後は豊臣秀吉軍(羽柴秀長の軍勢)が高城根白坂(木城町)で戦で撤退するまでの間、日向のほぼ全土が島津氏の支配地となります。


        
                    耳川河口付近 

【無鹿】
遠藤周作は小説「無鹿」でこう書いています。

伊東義祐の軍勢は猛獣のように精悍そのものの島津軍に大敗し、義祐は宗麟の助けを求めて臼杵に逃れてきた。臼杵は宗麟<の隠居所だったからである。「必ずや伊東48城を戻して遣わそう」と宗麟は自信をもって義祐を慰め、励ました。彼の心底には中国、周防の梟雄だった毛利元就をも九州から敗退せしめた自信があった。六カ国の太守である彼が出陣を告示すれば四万の大軍を侵攻させる自負もあった。島津、強しといえども兵力において余りに差がある。その自信は伊東義祐にも伝わり、「お話の山紫水明にして浄らかな土地が北日向の土持親成(ちかしげ)の居城近くにございます」と宴の折に語り、「海に近くも、風はなく、北川と申す川が流れております。日向をおとりになされましたあと、その土地をご覧になられては如何でしょう」と言った。この提案に宗麟は胸をおどらせた。一日も早くその土地を見たいという願望のため島津との全面衝突に反対する重臣が多かったにもかかわらず、宗麟は天正6年、領有する六カ国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後)に動員令を布告した。

また「無鹿」については土地の男にこう語らせています。

「無鹿ちゅうはね、変な名前ですじゃろ。これはよ、ラテン語で音楽ちゅうこつじゃが。英語のミュージック」「ええ」「豊後ん、戦国大名だった大友宗麟が大分に来た宣教師かいはじめて西洋音楽を聴かされてよ、その何とも言えん調べにひったまけちゃが、それでよ、その音楽のごと美しか、きよらかん町作ろうと考えて選んだんが、今の無鹿の場所じゃったちゃが。


        
                北川(対岸は宗麟が陣した無鹿)

【豊臣秀吉の国割り】
1587年、豊臣秀吉は島津氏を降伏させて九州の国割りを行いました。
伊東祐兵(すけたか:義祐の次男)は先祖伝来の都於郡ではなく飫肥に封ぜられます。
伊東祐兵の知行は現在の日南市、北郷町、南郷町、清武町、田野町と宮崎市の一部でした。

【江戸時代】
後の関が原の戦いで、伊東祐慶(すけのり)が東軍に加わって活躍をして所領を確保し、1617年、将軍徳川秀忠に五万七○八六石を安堵されました。
以後、1871年の廃藩置県まで14代約280年を全うすることになるのです。
他の藩と同様、幕府の軍役、城下の整備など困難な財政常態が続くのですが、飫肥藩は様々な改革を成し遂げてていきます。
飫肥の代表的な産物の飫肥杉は、天明年間(1781〜1789)にそれまでの「部一山制」から、土地に杉を植え伐採した時に藩と民とで半分ずつ分ける「二分一法」(5官5民)という分収法に改革をします。
後に「三分一部収林制」(1官2民)にさらに改革して部分林制度を確立していきました。
これが現在の分収林制度の起源になっているようです。
また、このときに植木方役所を設置し藩の造林は著しく拡大をみました。
藩士野中金右衛門(1768−1846)は植木方、杉方として50年間一生涯を植林事業に捧げて今日の飫肥林業の基礎を築いたと言われています。
現在もその遺徳を称えて野中翁顕彰市売会が毎年開催されています。
 

        
                日本一の杉景色(飫肥杉人工林)

【安井息軒】

安井息軒は飫肥藩士安井滄洲の次男として、現在の宮崎県清武町に生まれました。
子供の頃に天然痘にかかり、片目が潰れた容貌になりましたが、学者であった父の影響を受けて学問を志しました。
文政10年(1827年)、森鴎外の小説「安井夫人」に登場する川添佐代と結婚します。
外見は、背が低く、ブ男と、近所からあからさまにからかわれていた様子など、息軒の生い立ちや、大阪での勉励の様子や江戸に出て学んだ時期の様子は、その「安井夫人」に描かれていて、清武町の資料館では女優の竹下景子の朗読で、その婦人を通して息軒の人物像を紹介しています。
清武の郷校「明教堂」、そして飫肥の藩校の「振徳堂」で父と共に助教授として教鞭をとりました。
1837年、再度昌平坂学問所に学び、翌天保9年、家族と共に江戸に移住し、私塾「三計塾」を開きます。
「一日の計は朝にあり。 一年の計は春にあり。 一生の計は少壮の時にあり。」という言葉が有名ですがこれは三計塾の設立主旨でした。
黒船の来航による混乱の中、息軒は当時幕府攘夷派の中心的な存在であった水戸斉昭に意見を求められ、「海防私議」「靖海問答」などを書きますが、斉昭は安政の大獄のさなかに亡くなり、この書に書かれた意見が用いられる事はありませんでした。
1862年に幕府儒官を拝命し「文久三博士」と称されるようになります。
1864年には奥州塙代官に任命されるのです、が高齢のため周囲の反対により免官し、戊辰戦争の際には、領家村(現埼玉県川口市領家)に疎開して埼玉県指定有形文化財の「北潜日抄」を書きます。
1868年、幕府崩壊により身分は飫肥藩籍に戻り、飫肥藩江戸屋敷で塾生の教育に尽力しますが、1873年の学制発布により塾生は激減し、自らも高齢により視力が衰え、体も不自由となります。
そして1877年9月23日、後の外務大臣陸奥宗光谷干城など、幾多の優秀な人材をその門下より排出し、77年の生涯を東京で終えるのです。
藩主伊東祐相に建議して施行された「間引き禁止令」、他藩の稲の二期作や養蚕の技術の教授、天然痘の予防としての種痘の奨励等々、郷里の飫肥藩に、遠く江戸にいながら息軒はいつも心をくだいていたようです。
        
                
                  安井息軒の生家(清武町)

【泰平踊歌詞】

千代の始めのひと踊り 松阪こえてサアヤアー 旅衣きつつなれにし船人も ちらち恋風帆に受けて 思ふ港にこがれてぞ よるべ定めぬ一夜妻 なさけかり寝の床の海 我が外浦(とのうら)と契りしも 早出潮の浮別れしばし袂に下り松 やがて下りて大堂(おほだう)と あきら目井よと引寄せて しめて大島はだかばへ 黒髪なでて七つのはへ島田伽羅の油津匂はせて 花の名に負ふ梅ケ浜 色に出でしを平山やうはの空吹く風田さへ 松に音するなら磯と 大浦み言ふもいとしさの
胸に思ひをたたみ岩かたい妹背を神かけて 祈る誓ひを高千穂の井恵みをくむや母も川 待ちかねて小夜も吹毛井のうら千鳥 鳴いて明けせし浪枕 うつつうき寝の夢にさへ 君が面影宮の浦 心小目井の恋衣 富土なれそめし嬉しさの とふ伊比井やら岩田帯 結び鶯巣の関もこえ 小内海ならどうしよえ 末は野島の浦島が 箱の内海ひらくまで 恋故にぱっとうき名の立つ浪に おもひうかるる浦島や 折生迫寝が実になる にくやあだ花えらみ川 顔もりんきの赤江川灘 それ忘れてか忍ぶ夜 二世とかためて大渡り 


        
                      泰平踊

【泰平踊】

泰平踊は藩主伊東祐実が町屋で踊るのを許してからは、盛んなものとなり、武士、町人などみんなで楽しんだといわれます。
踊り手は朱紐で飾った折編笠を深くかぶって羽二重熨斗目の着流し、おとざし、腰に印籠といったいでたちです。
舞の手は、武芸十八番に型どっているので 優雅な中に武士らしい所作が折り込まれています。

この泰平踊は県の無形民族文化財に指定されていて踊る姿勢の違いによって2つの保存会が継承しています。

        
                      歴史資料館 

        
               小村寿太郎生家前から飫肥城大手門方向 

        
                    松尾の丸(藩主の御殿)

        
                      豫章館

■松尾の丸

松尾の丸は、江戸時代初期の書院造の御殿として昭和54年(1979)飫肥杉のl 00年杉を使用し、慎重な時代考証(当時、城郭研究者の第一人者として東京工業大学教授の藤岡通夫博士(故人)による時代考証、設計、監修のもとに復元されたという。)を重ねて再現されました。


        
                       四半的

■飫肥城下町と油津・堀川運河■「歴史的風土百選」に選定
財団法人「古都保存財団」(平山郁夫会長)が募集した「美しい日本の歴史的風土百選」に、県内から「飫肥城下町」と「油津の町並と堀川運河」、日向市の「美々津地区の町並」が選ばれた。
飫肥城下町は伊東家5万石の城下町として江戸末期の地割りが今も残っており、対象地域は国選定の重要伝統的建造物群保存地区とその周辺。油津の町並みと堀川運河は国の登録有形文化財の赤レンガ館や運河護岸などが集中する港町。美々津地区の町並みは江戸末期から昭和初期に回船問屋が軒を連ねた港町として現在も古い家並みや石畳の路地などが残る。
古都保存財団は、各地の歴史的、文化的資産、歴史的風土の保存や活用を目的に93年に設立された。古都保存法施行40周年の昨年、「美しい日本の歴史的風土百選」を募集。全国から698件の応募があり、歴史的意義や地域住民の保存活動などを基準に選定した。
日南市で全国的な「百選」に選ばれたのは、坂本棚田の「日本の棚田百選」、飫肥城の「日本百名城」などに続いて五つ目。谷口義幸市町は「これらの素晴らしい財産を全国にPRして、活力のある市を作っていきたい」と話している。(2007.02.27 朝日新聞)


        
                     武家屋敷跡

■ 日南市に「飫肥杉課」 ■
特産の飫肥杉の名前を冠したプロジェクトチームが日南市に発足した。通称「飫肥杉課」。飫肥杉を核としたまちづくりを提案して、価格低迷が続く飫肥杉の新たな需要喚起を目指すのが目的で、2年間かけて可能性を探る。
チームは商工観光課の前田芳成課長補佐を「課長」に、生涯学習や農林水産、建設など6課の課長補佐や係長級9人で構成。毎月数回、話し合いながら飫肥杉を再評価・再認識した上で、各課が個別に有している情報を持ち寄り、新たな企画・立案を目指す。
市民とともに実現する「まちづくり班」と、飫肥杉のブランド化を図り、新たな需要を開拓する「利用促進班」に分かれる。今のところ、飫肥杉のクリスマスツリーや杉屋台の製作、飫肥杉の文房具、全世帯に飫肥杉の表札設置などのアイデアが挙がっている。
飫肥杉は江戸時代、飫肥藩が悪化した財政を救おうと造林して広がった。戦前までは「弁甲材」と呼ばれる船材として需要が高かった。しかし、繊維強化プラスチック(FRP)製に押される一方で、外国材の輸入が増えるにつれて、60〜70年代に1立方メートル当たり3万円だった価格は1万3千円ほどに低迷。新たな需要の喚起が急務とまっている。
初会合は5月2日の予定。前田課長は「従来の縦割り組織にはできなかった発想で、飫肥杉を使ったまちづくりを新たに提案できるようにしていきたい」と話している。(2007.04.28朝日新聞)


        
                     旧伊東伝左衛門家


『夢見橋』
樹齢120年の飫肥杉30本を用い、金具を一切使わないで組み上げた、屋根付き木橋が日南市の堀川運河に完成し、2007年8月26日、東国原英夫知事をはじめ市民ら約5千人が渡り初めをして祝った。橋は「夢見橋」と名付けられた。
木橋は長さ45.8メートル、幅3.6メートルの人道橋。木材と木材の接合部には、約2400個の「込み栓」と呼ばれる木製の接合部材を使った。曲線の天井部分は地元の油津に伝わる帆付き木造船「チョロ船」をこしらえた船大工の曲げの技術を採用。屋根は鵜戸神宮と同じ銅板ぶき、採光ガラスのある小屋根もある。


        


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01 ようこそ宮崎
02 宮崎の郷土料理
03 宮崎の焼酎
04 宮崎の民謡
05 宮崎と神話
06 高千穂夜神楽
07 西都原古墳群
08 宮崎と神武天皇

09 宮崎の海岸
10 五ヶ瀬川と鮎漁
11 宮崎のローカル線
12 宮崎の観光地
13 延岡の竜巻ドキュメント
14 飫 肥
15 都井岬
16 高千穂峡
17 鹿川渓谷
18 猪八重渓谷
19 青 島
20 霧島連峰

21 日向岬と妙国寺
22 宮崎の民話(1)
23 宮崎の民話(2)
24 サンメッセ日南(初日)
25 裸まいり(1月)
26 師走まつり(1月)
27 京町二日市(2月)
28 座論梅(2月)
椿山森林公園(2〜3月)

30 綾の雛山まつり(3月)
31 フラワーフェスタ(3〜5月)
青島亜熱帯植物園2008
花立公園2008

アケボノツツジ(4月)
今山大師祭(4月)
34 御田祭(7月)
35 ひょっとこ祭り(8月)

36 都井の火祭り(8月)
37 荒踊・三ヶ所神社(9月)
38 宮崎神宮大祭(10月)
39 門川だんじり(11月)

40 去川の大イチョウ(12月)
41 銀鏡神楽(12月)
42 雑記帳・profile

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