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このページは当初自己紹介だけの目的であったのですが、その後の「ようこそ宮崎」の活動の過程で、取材して歩いた感想や新しいページの紹介やその事前準備的な内容を「独り言」という形で載せてきました。
その後再び、このページの内容が「独り言」と言うにも少し違和感を自分自身で感じるようになって、またいつか改訂しなければ、と思うようになりました。
そしてこのたび、「ようこそ宮崎」に関するスクラップブックやメモ帳代わり、または1ページを構成するボリュームに欠けるが是非紹介したい内容などを織り込んだ「雑記帳」というコンセプトに決めて再出発することにしました。
profileはできれば紹介しないで済ませたいのですが、最低限のことはしたほうがよさそうなので、このページの最後尾でさせていただきます。
この雑記帳はバラエティーに富んだ内容にするつもりでいますので、お楽しみいただければと思います。 

                               
                                                                 管理人  hiro




■  八岐大蛇伝承  (雑記帳 file no.60)
古代であそぼというHPがある。
気になる記述があるので転載をさせていただくことにする。
一つは八岐大蛇伝承。
【スサノオの八岐大蛇伝承はこのころの宮崎県日向の耳川上流での事象と推定。
(耳川の東臼杵郡西郷村に上八岐、下八岐の地名あり)
戦った八岐大蛇とは耳川上流の入り組んだ苔むす渓谷に住む山岳縄文の人々。
ウエツフミにはアマテラスが落とした剣をスサノオがみつけて返したという記述があるようで、アマテラス族も初期開拓時代にここで山岳縄文と戦った可能性は十分あるでしょう。
アマテラス族から奪った剣か与えられた剣かは別にして、山岳縄文の人々が持っていたのが草薙剣。

もう一つは降臨の地について。
【BC100ころ九州北岸から萬幡豊秋津師姫と天之忍穂耳の子「天孫」がアマテラス族と海神族の地へ降臨。
瓊々杵は西岸の出水市付近へ、天火明は日向
(国の)延岡付近へ。】

天火明命(アメノホアカリ)は、アメノオシホミミと高木神の娘ヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間に生まれた。
ニニギは弟だが、『日本書紀』の一書では子としている。
『先代旧事本紀』では物部連の祖である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と同一神としている。『
古代のことはどれがが正しいという結論は誰も出せないが、(異なる部分も勿論あるのだが)六峰街道南方古墳群の私のへぼな主張と近いものを見出した。
                                   2008.06.24    雑記帳・profile のTOPへ戻る



■ 祝子川の名前の由来の二回目 (雑記帳 file no.59) 

「宮崎と神話」のページの改訂作業をしている。
日向神話は大変なボリュームだから今回は日曜日の午前中でできる範囲にとどめる。
山幸の名前をどう表記しようかと迷ってWikipeiaを読んだら、副産物がでてきた。
将来「ようこそ宮崎バージョン 宮崎と神話」をまとめるための一つの材料になるから備忘のためにここに記録する

宮崎県北部にある五ヶ瀬川の支流の祝子川(ほおりがわ)は、ホオリが生まれた時に産湯として使った川と伝えられ、ホオリが田の神であることから流域には雀が生息していないのだという。もうひとつ。
Wikipeiaの記事中の祝子川のふりがなは「ほおりがわ」になっている。
建設省が祝子川の堤防に立てた看板のふりがなは「ほおりがわ」となっていた記憶がある。
先日その場所を通る機会があったので確認したら、国土交通省が立てた看板は「ほうりがわ」となっていた。
記憶ちがいなのかも知れない。

南方古墳群の10号墳の北の田んぼの中の4号墳。
草が四の文字のすぐ下まであって見えなかったが、おそらく4号墳だと思う。
「古墳群」の群が郡になっていた。
人間がすることだから間違いを咎めやしないが、少しこだわっている者からしたら悩ましい。
ついで。
銀鏡神楽に祝子というものがいる。
昨年12月の神楽奉納で買った資料には「ほうり」とふっていた。

この銀鏡神楽の祝子と山幸(ヒコホホデミノミコト)とは関係はないと思うが、以前の日本人にとって「ほおり」と「ほうり」の音の違いは、たとえば中国語の四音のように祝子は「ほおり」とはっきりしていたものが、平仮名やカタカナが今のような形になってから、「ほおり」と「ほうり」に音の違いがなくなってしまい、やがて時間の経過とともにうやむやになってきたのではないかと考えた。

そんなこともあるが、今日の収穫は祝子川流域に雀が生息していないという伝承。
これは確かめなくてはすまない。
                                 2008.06.21    雑記帳・profile のTOPへ戻る



■ 25,500,000件のうちの4件目 (雑記帳 file no.58)
とうとう「雑記帳・profileのページ」が、yahooで1ページの4番目に表示された。
なんだかよく分からない。
ひょとして「いの一番」とかいう椿事があるのか?
それはともかく、最近高千穂鉄道のことがまったく報道されなくなった。
こうして高千穂鉄道は消えていくのか。
宮崎は新しいなにかを作ることも大事だが、古いものを残すことで価値を高める道が最善なのに。

                                           2008.06.01 雑記帳・profile のTOPへ戻る



■ (雑記帳 file no.○○)を、no.6からno.56まで符番 (雑記帳 file no.57)
                                           2008.05.07 雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 19,700,000件のうちの14件目 (雑記帳 file no.56)

雑記帳・profileのページを何とはなしにYahooで「雑記帳」で検索してみたら、何と19,700,000件という数字の中で14番目に出ている。
まったく上位表示を意識していなかったページだけに、驚いた。
アクセス数もカウントしていないので、まったく分らないが、少しこの「雑記帳・profile」のページを分析してみる価値がある。
                                              2008.05.07 
  

■ ブログを開設 (雑記帳 file no.55)
2月24日にブログを開設しました。
「雑記帳とプロフィール」のページのボリュームが大きくなり過ぎて追加の記事を書くのも躊躇気味でしたから、雑記帳のその2を作るべきなのかとも考えましたが、SEO対策も兼ねてブログを始めることにしました。

取り敢えず第一号の記事を投稿したものの表紙のデザインもしていない常態で、まるで引越しはしたが荷物はダンボール箱に入ったままで生活を始めたような感じです。
仕事に行かなくてはならないからおいおいダンボール箱を潰していくとしましょう。

ブログでトラックバックという機能を使いたいと思って昨日の夜に少し取り組んでみたのですが上手くいきませんでした。
誰かに教えてもらう方が早いのかも知れません。

因みにブログのタイトルを示しておきます。
タイトル名はアンカーテキストになっています。
片付いていませんがお寄りください。
お待ちしています。

        
宮崎讃歌 ■ 「ようこそ宮崎」のブログ
 
                                    2008.02.26  雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 今年一番の日の出の写真 (雑記帳 file no.54)
6時40分頃に海の彼方の空が赤く染まっているのが見えた。
よく見れば珍しく水平線の上に雲がない。
ここ2ヶ月以上の間、毎朝日の出の頃に海を見ながら通う日が続いているが、今日は今までで最高に美しい日の出になるに違いないと思いながら車を走らせた。
あそこまで行こう。
あそこで写真を撮ろう。
どうにか間に合った。
今年一番の日の出を見てその写真を撮った。

日の出の後の尾鈴山は柔らかい朝日を浴びて深みのある青色で、いかにも尾鈴山らしい優しい姿を見せていた。
太陽が美しいと山まで美しい。
牧水が今朝の尾鈴山をみたらもう一つ素晴らしい歌がきっとできた。

帰途、18時30分頃に今度は白く丸い月が一ツ葉海岸沖の広い日向灘から登ってきた。
満月は多分明日だと思うが殆ど満月と見紛うような丸い月が雲一つない夜空に冴えて浮かんでいた。
今日は朝に今年一番の日の出を見て夕にも見事な月を見た。
今日は1日を通して雲がなかったのかも知れないが、日中は春霞なのか遠くの山々がぼんやりと見えた。

                              2008.02.20       雑記帳・profile のTOPへ戻る


■企画一周年 (雑記帳 file no.53)
昨年の末から今年の一月にかけてよく呑んだ。
正月だから清酒が我が家にいつものように集まってきて、だからいつものように今年の正月も清酒を呑んだ。
私が飲兵衛であることは皆が知り尽くしているので清酒だけでなくビールも焼酎も年末には集まってくる。
だから正月に清酒が多いとはいえビールも焼酎も呑む。
ワイン好きの義弟が年始にきたらワインも呑む。
狭い家の台所の端に焼酎や清酒の空瓶が置いてある状態が暫く続く。

本日焼酎のページに5銘柄追加した。
正月に呑んだ清酒五本の中の二本は掲載したいと思う個性のものだったが焼酎ではないから掲載はしない。

昨年の2月11日に自分で宮崎焼酎を飲みながら焼酎のページに掲載していこうと計画して丸一年が経過する。
時に掲載しているのを忘れて同じ銘柄の焼酎を買ってきたのも3~4本はあった。
一年続けて掲載した数は55になった。
面倒な作業だと思うが「ようこそ宮崎」をやり始めたのだから続けてみよう。

焼酎は味わい深い。
「ようこそ宮崎」がなくても焼酎は毎晩呑む。
ただしその場合は手っ取り早く手に入るポピュラーな焼酎になる。
でもそれが宮崎地元で暮らす人間の生活に密着した焼酎、地酒ならぬ地焼酎ということか。
今夜も焼酎が待っている。

                              2008.02.10       雑記帳・profile のTOPへ戻る


■京町の二日市 (雑記帳 file no.52)
日曜日に宮崎市に行く約束があって朝早く出掛けた。
どんよりと重たく垂れ込めた雨雲が次第に薄くなって最後には日がさしてきた。
車を運転しながら劇的に天候が回復する有様を見ていて、人の暗く沈んだ気持ちもこのように晴れたらどんなに良いかと思った。
空を見ながら、せっかく宮崎市に仕事で行くのだからついでに京町二日市に行こうという気持ちになってきた。
京町の二日市は100年近くの歴史をもつ南九州最大の市で二日間に25万人以上の人が訪れるそうだ。
あんな鄙びた狭い温泉町に25万人も集まる市と聞けばそれはどんな市なのかだれでも興味を持つ。

京町には一つ思い出がある。
17歳のある日女性から本をもらった。
彼女は聖バレンタインがどうのこうのと言って本を差し出した。

それから2~3年くらいだろうか、チョコレートを想いの告白に添えてプレゼントする風習が全国に広がった。
私が本をもらった当時は聖バレンタインがどういう人か、2月14日がどういう日なのかを大方の日本人がまだ知らないときだった。
だからお返しにクッキーをあげる風習もなく、いまだに本をもらいっぱなしで何のお返しもしていない。

二日市は沢山の人出だった。
なんとか紹介ページを作りたい。
風情のある京町の温泉を絡めて紹介することにしよう。

                              2008.02.04       雑記帳・profile のTOPへ戻る


■師走から初日の出 (雑記帳 file no.51)
2008年の12月は夜神楽を三度観に行った。
高千穂に二晩、銀鏡に一晩。
高千穂神楽のページも銀鏡神楽のページも少なくともあと一年通わないとある程度のものにはならない。
椎葉神楽と祓川神楽は100%来年に課題を残した。
宮崎の神楽だけでも相当ビッグなテーマであるのだけれど、ある程度までは「ようこそ宮崎」で取り扱うつもりでいる。
その後はそのときの考えに任そう。

去川の大イチョウは昨年(2006年)はタッチの差で落葉のあとで、寒さに耐えてバイクで駆けつけたのが無駄に終わって落胆したが、今年(2007年)はどうやら間に合った。
昨年より知名度が上がったみたいで、平日にもかかわらず大勢の見物人がいた。
大イチョウの株の周りは落ちたばかりの黄色い葉っぱが一面に敷き詰められた状態で、プロの写真家のような人が木の真下に腰を据えて、大樹からヒラヒラと舞い落ちてくるイチョウの葉を撮ろうとしているようだった。

今年は初日の出をサンメッセ日南のモアイ像を入れて撮りたいと思い、初参り(霞神社)を済ませて都城経由で日南に向かった。
一ツ葉有料道路での初日の出は以前から知っていたが、相互リンク先のサンメッセ日南のページを見ていたら元旦は6時30分に開園するという案内が目にとまった。
初日の出を有料で見る。
これまで生きてきて初めての経験になる。
3時過ぎに日南海岸を北上したが、海沿いの駐車スペースにはすでに場所を確保している人たちがいる。
サンメッセ日南のすぐ下の国道沿いの駐車場は満杯状態だった。
大型バスも狭いスペースに割り込んできた。
国道にはみ出すこともできないから止むを得ないと考えていたら、施設のスタッフが入口を開放して園内の料金ゲートまで車を入れてくれた。
モアイ像と初日の出を年賀メールで送った。
宮崎にモアイ像があるとは知らない人が殆どのようだった。
幻想的な写真をありがとう、または、美しい写真をありがとうと返信があった。

                              2008.02.02       雑記帳・profile のTOPへ戻る


豊後水道の彼方に見える四国
■ 豊後水道 (雑記帳 file no.50)

「宮崎の海岸」のページの冒頭の写真は、大分県のほぼ県境に近い展望所から大分県の佐伯市蒲江方面を撮ったものを掲載していた。
それは、日豊海岸国定公園が宮崎(日向)大分(豊後)にまたがるリアス式海岸であることを少しでも感じ取ってもらうためだったが、残念なことに空気が少し霞んでいて、それをいつも気にしていた。
07.11.23は空気が澄んでいて前回に比べるとかなりクリアに撮れた。

延岡市北浦町の北部は日向灘というより豊後水道に面している。
その豊後水道を隔てて約70キロの対岸に四国がある。
この日は沖の島や四国本土が間近に鮮明に肉眼で見えた。
07.10.20(upは10.22)の霧島の峰から撮った桜島が約40キロの距離であるから比較するためにも「雑記帳」に掲載することにした。

                                2007.11.23       雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 門川尾末神社の秋の大祭の「だんじり」 (雑記帳 file no.49)
だんじりが通って行った跡の道路には、緒の擦り切れた草鞋が、バラバラになった藁屑とともに散乱する。
朝、昼、夕と、擦り切れ草鞋はだんじりが通るたびに男達の奮闘の痕跡を残す。
夕方のクライマックスのあとの道路には草鞋と藁屑が多く散乱して、そこに晩秋の風が吹いて舞う。
それはまさに、激しいだんじりと、それに触発された観衆の熱気が生み出す坩堝(るつぼ)が、祭りの後の寂
寥感と入れ替わる一瞬。

男達の勇壮な「だんじり」は、約1.5トンの太鼓台の重さを跳ね除けようと、仲間を鼓舞する囃子言葉を掛
け合いながら進んでいく。
この囃子言葉の掛け合いは現場においてはその一語一句はよくは聞き取れないのであるが、とにかくテン
ポが軽快で、なにやらカッコイ~。

文字にすればいささか快く思わないむきはあるにしても、場に臨んで男達が苦痛に耐えてこの囃子言葉を
唱えながら太鼓台を担いでいるのを目の当たりにすると、確かにこの囃子言葉はこの「だんじり」にとって
は他に代え得るものはない。

♪ 一かけ二かけ三かけて ♪ 尾末神社のお祭りに ♪ 橋の欄干腰掛て ♪ 尾末青年の勢いを 
♪ 今日の良き日を勇ましく ♪ 乙島、竹島、ビロガ島 ♪ 乙島巡りのくろはげは 
♪ いっさん畑のまめさやは ♪ おおかかまめなかたっしゃかな ♪ あの山越えれば芋畑…

                       2007.11.16       雑記帳・profile のTOPへ戻る


クルスの海の展望台と鐘

■ 日向岬と妙国寺の予告編 (雑記帳 file no.48)
クルスの海の上にあるこの展望台にある鐘は
人間がいたわりあい、想い支え合う姿を表現したものという。
二つの曲線の重なるラインは、お互いの足りない部分や弱いところを補い合い、相手を思いやる姿を表現し、上に向かい細くなる形は
願いが天に向かうことを表している。
愛し合う男女が向き合って、二人の希望をこの鐘に託していままさに撞こうとする。
左のオブジェは宮崎中どこでもいそうなコロコロッとしていて愛らしい日向カボチャ。
右はロングトールで優しいイモガラボクト。
ここに来ると、密かに心に念じているものがあれば、必ず鐘を撞きたくなる。
美しい海と山の間で撞く鐘の音は、想像するよりもずっと清らかに空と心に響いて、願いは叶えられる、という期待が芽吹く。

                         2007.11.08       雑記帳・profile のTOPへ戻る

■ 日本武尊と行縢山 (雑記帳 file no.47)
2007.11.03は朝から空が真っ青でとても美しく、あちこちの「気掛かり」が誘った。
それでも誘惑に耐えて仕事に専念するつもりでいた。が、あまりの空の美しさにとうとう我慢できずに行縢山に向かった。
行縢山周辺に残る日本武尊(やまとたけるのみこと)に因む地名についての伝承を「宮崎の民話」として載せたいとかねてより考えていて、それについては是非行縢山の滝の美しい写真が欲しかった。

行縢山の滝は矢筈が弓の弦にかかる部分から落下する。
つまり矢(滝)が地面に垂直に放たれる形を成す。
その矢筈は行縢山のほとんど頂上近くにあるので滝の上は空ばっかりとなる。
そんな訳で真っ青な空をバックにしてこそこの滝の美しさが冴えると考える。

まだ紅顔であったころ、「舞野」に父親に連れられていった時に、土地の老人に地名の由来を聞いたことがあった。
その老人から「舞野」という地名はスサノオノミコトが土地に住むヤマタノオロチを成敗して、そのあとに剣を持って舞を舞ったからついた名前だと聞いた。
と、ずっと(誤)記憶していた。
老人は聡明そうな人で、土地に伝わる貴重な話を間違って話すような人には見えなかった。
一方、私は若かったとはいえ、スサノウもヤマトタケルもヤマタノオロチもほんの少しくらいの知識はあった。
長じて、それはスサノウノミコトではなくてヤマトタケルノミコトであることを、ヤマタノオロチではなくて川上タケルであることを知る。

景行天皇の皇子、ヤマトタケルノミコトは、熊襲討伐のため、船を東海(延岡市)の港に乗り入れて上陸した。そして川上タケルがいるという山を目指したがすでに日が暮れかけていた。ミコトはその日のうちに山の近くまで到着したいと願っていたが、その意思が通じ、陽はしばらく西の山の端にとどまって沈まなかった。
ミコトは山の麓の村まで来て、そこに7日間滞在して、川上タケルを討つ策を練った。
ミコトはこの麓の村から眺める山の形が馬に乗るときにつける防具の向縢(むかばき)の形に似ていることから、これを行縢山と名付けた。
そして滝を矢筈の滝と呼んだという。

『布引の矢筈の滝を射て見れば川上タケル落ちて流るる』
ミコトが詠んだ歌とされていて、今もこの地の神楽歌として歌われる。
「布引の滝」とも呼ばれる「行縢の滝」の瀑布を、歌は「矢」と「川上タケル」の両方に見立てている。
ミコトは美少女に変装して、川上タケルの館に入り込み、酒宴の席でタケルを討ちとる。
人々はミコトが居を置いたところを「武宮」と呼び、ミコトをもてなして舞を舞った麓の村を「舞野」と呼ぶようになった。

麓の行縢神社の鳥居の前の案内板にはこんなことが書いてある。
大和朝廷の初期の頃にに日本武尊(やまとたけるのみこと)は熊襲族征討の折、この地の山の形が行縢(毛皮製の乗馬用下半身コート)に似ていると仰せられ、それよりこの山に行縢山の名がついたと伝えられている。
秀麗な山と荘厳な瀧は、古代の山岳信仰を起こし、これらを御神体として、社殿建立が行われた。
養老二年(西暦718年)紀州(今の和歌山県)熊野大社の御分霊が奉祀された。
祭神はイザナギノミコトほか二神で行縢嶽三所大権現と称し、日向国内の著名な神社で、代々の藩主の崇敬が篤かった。
長寛二年(西暦1164年)鎮西八郎為朝が当社に参籠して、武運長久を祈願した。

         2007.11.06       雑記帳・profile のTOPへ戻る 


■ 日向市駅が 『鉄道建築協会賞』 の国土交通省鉄道局長賞を受賞
 (雑記帳 file no.46)
優れたデザインの鉄道建築物や技術向上に貢献した作品に贈られるもので、2006年12月に高架に伴ってできた新駅舎は地元の耳川流域で生産した杉の集成材を使用して、アーチ状の屋根がホームを覆っている。
建築家の内藤廣氏らのデザインによる。          

  2007.10.31   雑記帳・profile のTOPへ戻る



「御鉢」に登りついた地点からの眺望で、紫に棚引く霞の中の、写真のほぼ中央が桜島で、左は大隈半島、右は薩摩半島。

■ 高千穂の峰 (雑記帳 file no.45)
2007年は霧島に三度登った。
5月のミツバツツジの時期に新燃岳の麓から新燃岳、中岳、高千穂河原のコース。
9月の下旬に民話のテーマの「大浪池」の撮影を兼ねて、えびの高原から韓国岳。
10月は高千穂河原から高千穂の峰。

久しぶりにズルズルと滑る御鉢の斜面を這うように登りながら考えた。
日本で最初に新婚旅行をしたのは坂本竜馬とその妻お竜だった。そして新婚旅行で高千穂の峰に二人で登った。と、かって司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で読んだが、竜馬夫妻はこの山を草鞋(わらじ)で登ったのだろうか。それとも、里人が山に登るための履物を用意してあげただろうか。
下るときには三度も四度も滑って転んで、そのたびに思わず自分で自分を笑ったが、竜馬もお竜も自分みたいに転んだのではないか。
転んだお竜をみて竜馬が笑い、お互い顔を見合わせて子供みたいに無邪気に笑いあったのではないか。

「御鉢」まで登ると眼下に狭い国分(市)の平地が見えてその先に錦江湾が広がりそこに桜島が浮かぶように立つ。
空は抜けるような青空なのに、地上から桜島の頂上よりすこし上のところにかけて紫の霞がたなびいている。
肉眼では桜島はよく見えるのだが、写真のために、吹き始めた北よりの風が霞を掻き消してくれないものかと期待して先へ進む。

桜島はその裾が東に延びて大隈半島につながり、そこから北に曲線を描いて錦江湾の西の薩摩半島に至っているのがよく見える。
薩摩と大隈の二国が、日本が国として始まった当時は日向の一部であったことがここに立つと地理的によく納得できる。
つまり霧島連峰のぐるっと周辺が「日向」であった、と、判りやすい。
天気がいいと、さらにその先の屋久島の宮之浦岳(1936m)まで見渡せて、北は市房山(1721m)からさらに、途中に遮る高い山がない雲仙の普賢岳(1359m)までも見えるという。

なぜか突然、百人一首の権中納言敦忠の歌の下の句が頭をよぎった。
比べたのは恋心の今昔ではない。
かって学生の時分にはこのような御鉢から高千穂の峰などは楽々登って、高千穂河原に下りてすぐに中岳、新燃岳、獅子戸岳、さらに韓国岳からえびの高原へと縦走していたものだが、そんなの当時の自分を思い出していた。
理屈は一人前に言ってはいたが、ほとんど(ものを)「思わざりけり」であったのだろうな…。
などと、たまに大自然の中に孤独でいると意外なフラッシュバックがある。

10月は、まだ真っ暗な朝に起きて出発したが、空には煌々と星が輝いていて快晴であった。
さかのぼって5月のときは、朝は同じように快晴であった。
目的はミツバツツジと新燃岳と高千穂の峰の写真撮影。
だが、途中の林道のミツバツツジの花のトンネルを撮って、そして新燃岳に登りついて韓国岳を撮るまでは空は十分に澄んでいたが、新燃岳を降りて中岳に向かうころから少し空気が霞んできた。

高千穂の峰とその向こうの二子石と手前の御鉢が斜めに並んだ姿を、至近から撮りたいと思っていたのだが、残念なことに撮った写真には紗がかかってしまった。
それよりくだって9月のときは、同じく朝のうちは快晴であったので、このチャンスに韓国岳から大浪池と新燃岳さらに高千穂の峰を撮影しようと、昼を過ぎて出発した。
ところが、それまでは快晴であったのが、えびの高原やその周辺を上から見た写真を撮りながら登っていった結果時間がかかってしまい、韓国岳の頂上付近では雲が次第に多くなった。
そして、頂上について火口の底を2~3枚撮ったと思ったら、北西の方角からまるで孫悟空が乗っているような猛烈に速い觔斗雲(きんとうん)のでかいやつが、瞬く間に辺りを包んでしまった。
それまでは暑くて汗を流しながらの登山だったが、すぐに体が冷えて寒くなり、流れてくる雲から身をかばうために岩陰に隠れた。
この雲が過ぎ去ったらクリアな新燃岳や高千穂の峰を見ることができるかもしれないと考えて、しばし独り頂上で待った。
40分ほど経過したら、獅子戸岳から新燃岳の北西の斜面が徐々に見えてきた。
全容が見えているときよりも、雲の着物の裾をめくるように現れてくる新燃岳のボリュームがかなり大きいことに気がついた。
二つの山の左の遥か先に見える高千穂の峰は新燃、獅子戸とは反対の斜面から姿を現しはじめたが、二子石から徐々に現れてくる高千穂の峰は、これもなかなか雲のブラインドから現れてこないほどに遠くで見ていても大きいものであった。

そういった経験もあって、10月の登山は、空気が澄んでいて遠くまで見えることがなにより希望であったので、はやる気持ちを抑えながら、夜が次第に明けて空があかるくなるのを、雲の有無や位置そして空気の澄み具合などを気にしながら見つつ、霧島に近づいていった。
秋の空はその期待にほぼ応えてくれた。
御鉢の火口を歩くとき、何からも遮られることない大陸直接の風に帽子も体も吹き飛ばされそうになった。
昨日までは下界では半袖で過せたものを、手と耳が千切れるほど冷たくて、もう一気に真冬になったような風が吹いた。
それでも桜島にかかったパープルの霞は最後まで吹き飛ぶことはなかった。

                   2007.10.22       雑記帳・profile のTOPへ戻る 


■ 宮崎の民話 9 (雑記帳 file no.44)
柞(ゆす)ヶ谷の太郎ゼ その2      石川恒太郎「日向ものしり帳」より

 ある日、恒富の本村の百姓の青年がカンショを掘りに畑に行きますと、一匹の大きなキツネガいて、カンショのつるをしきりに頭にかぶっていました。
 これを見た青年は「ハハア、太郎ゼだな。太郎ゼのやつは、今化ける最中とみえる」と思いました。すると好奇心が動きましたので「こりゃおもしろい。どうやって人間を化かすのか見てやろう」とじっと見ていました。キツネは青年が見ているのを知っているのかいないのか、盛んにカンショのつるを頭からかぶっていましたが、やがてキツネの姿は盲僧となりました。そして、肩から琵琶をかけています。
 この地方で”ヂジン経”と呼んでいる盲僧があります。琵琶法師でありますが、村々を回ってお経を読んだり、あるいは新しく家を建てる所へ行ってお経を読んだりします。
 よく地鎮祭などの招かれてお経を読むのでヂジン経と呼ぶのであろうと思います。”ヂジン経どん”とか、”ヂジン経さん”などと言います。
 元来、琵琶法師には二種類あって、一つは当道といって琵琶を弾じ、平家物語などを読んで芸道を主としました。これには座頭だとか勾当、別当などいろいろの位がありました。盲目のことを座頭とかザッドンなどというのは、これから起こったのであります。
 一方は地神経読みの一派で、これは京都の粟田口清蓮院に属し、これにも種々の位があったのですが、一方が琵琶という楽器に合わせて歌う、一種の芸道を主としたのに対し、一方は僧という宗教的な儀礼を行い、地神経を読んで地神をしずめ、あるいはお竈(かまど)をおはらいしたのであります。
 このような地神経を読む盲僧は、時々農家を回ってお経を読み、なにがしかの喜捨を受けたのであります。太郎ゼが化けたのは、このような盲僧でありました。

 やがて、化け終わって琵琶をもって立ち上がった太郎ゼは、青年の方を見て、「おい、おもしろいものを見せてやろう、ついて来い」と言いました。青年がついて行くと、太郎ゼは琵琶を抱いて村の方へ歩いて行きました。
 そして、一軒の百姓家にはいって行きました。青年は「いよいよ始まったぞ」と思って、ソッとその百姓家に近づきました。やがて、家の中からビリン。ビリンと琵琶の音が聞こえてきました。
 「太郎ゼの野郎、うまく化けたわい、ドレドレ見てやろう」と青年は雨戸の節穴に目を当てて家の中をのぞいて見ました。太郎ゼは床の間にすわってビリン、ビリンと琵琶をひきながら地神経を読んでいました。
 「ハハア、やってる」とのぞいていると、突然、青年の耳もとで「コラコラ、あぶねえが、なにしよるか」とどなる声に驚いて目をはなすと、雨戸の節穴と思ったのは馬のしりで、青年は馬のしりをしきりにのぞき込んでいたのであります。

                                     2007.09.29       雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 宮崎の民話 8 (雑記帳 file no.43)
柞(ゆす)ヶ谷の太郎ゼ その1      石川恒太郎「日向ものしり帳」より

 柞(ゆす)ヶ谷の太郎ゼというのはキツネの名であります。柞ヶ谷というのは延岡の愛宕山にある谷で愛宕山というのは南延岡駅の前、つまり西側に横たわっている山で、この山の北側の東の方にある谷が柞ヶ谷であります。今は市営住宅やいろいろの家が立ち並んで、あのあたりも昔の様子はありませんが、昔はまったく寂しい、昼でも恐ろしい所であったのです。

 太郎ゼはここに住んでいた、年を経たキツネでありました。太郎ゼというので川の瀬のように思っている人がありますが、これは太郎左衛門という名であります。日向(宮崎)の方言では左衛門という名はゼと申します。大久保彦左衛門を彦左とというのと同じで、日向(宮崎)では彦ゼと申します。それで、太郎ゼは太郎左衛門であります。

 なにしろ、キツネに名があるくらいですからたいへんなキツネで、これに化かされない者はないほどでした。

 ある時、延岡の城主内藤の殿様が参勤交代から帰って来られて、東海の港に船から上がり、供ぞろえをして延岡のお城の方へ帰って来られました。昔は殿様の行列と申しますと、前には足軽がヤリなどを立てたり、かついだりして、「下に-、下に-」といって通ります。そのうしろに騎馬の武士や徒侍(かちざむらい)が殿様のかごを中心にズラリと列をなして通行したので、百姓や町人などはこの行列に行き合いますと、土下座といって道のかたわらにすわって頭を下げていなければなりませんでした。

 今から思うとばかばかしい話ですが、昔はそれがあたりまえのことであったのです。それで、お城の近くでは殿様に行き合う機会が多く、そのたびに土の上にすわるのはたいへんですから、本小路あたりでは道のかたわらに平たい石がところどころに置いてありました。この上にすわるわけであります。このように、上下の差が激しいところに封建制度というものが成り立っていたのです。

 さて、内藤の殿様が「下に-、下に-」といって行列を進めて来られましたが、もう、とっぷり夜となりました。

 すると、反対側の方から同じ道を、同じようなもう一列の大名の行列が「下に-、下に-」といってやって来ました。内藤の殿様の行列では「やや、これは不思議、何者だろう」と家来を見にやりますと、先頭のものが掲げているチョウチンには三葉葵の紋がついていました。これは徳川家の大名だというので、あわてて内藤の殿様の行列は道のかたわらに避けて、その行列を通しました。やがて行列が行き過ぎると、コンコンとキツネの鳴き声がして行列も消えてしまいましたので、「さては太郎ゼにだまされたか」とくやしがったということであります。

愛宕山の山裾にある記念碑には「柞ヶ谷 太郎兵衛狐記念碑」と書かれている。
石川恒太郎氏は太郎左衛門といって、名前に少し違いがある。
比江島重孝著、「ふるさと民話考」では「柞ヶ谷」は「柚子ヶ谷」。「太郎ゼ」は「太郎左(たろぜ)」としていて、キツネの呼び方はほぼ同じ、ただし「柞」は「柚子」となっている。
ちなみに、柞は 「いすのき」と読み、葉に丸い虫瘤(むしこぶ)ができやすい。 虫瘤とはアブラムシやハチなどの昆虫が 植物体に産卵、寄生することによって 植物組織が異常に肥大したこぶ状のものをいう、らしい。

「いす」が「ゆす」に訛って「柞」が「柚子」になったのかな…
                                     2007.09.27       雑記帳・profile のTOPへ戻る 



■ 宮崎の民話 7 (雑記帳 file no.42)
   瀬戸石川(溝)と瀬戸橋  (狐の記念碑)

愛宕山の直下の北に位置するところに延岡警察署がある。
延岡警察署の建物から道路を挟んだ真ん前の愛宕山の山裾に太郎兵衛狐ヶ岩があり、少し離れたところに太郎兵衛狐の記念碑がある。
延岡地方の人々にはこの太郎兵衛狐は相当に悩ましい存在であったらしいことは太郎兵衛狐に関する民話が多いこと、そしてその内容が辛辣であること、そして名前付きの記念碑まであることなどでも想像に難くない。
以下その記念碑の碑文を紹介する。


延岡市には昔から伝わっている「柞(ゆす)ヶ谷の太郎兵衛狐」という民話があります。
この民話に出てくる「瀬戸石川」は愛宕山の北側から東側に向けて流れています。
昔は今より川水がきれいで豊富であったので鮎をはじめ多くの魚類が取れていました。
この川は春日神社の付近を通るので、この神社が昔「荒瀬の宮」とも呼ばれ、また愛宕神社の前では「どわんどわん」と呼ばれていた淵があったそうです。
延岡市に残る数少ない民話とともに「瀬戸石川」に架けてあった「瀬戸橋」の名も後世に伝えていきたいものです。

以上この碑文にあるようなことは今日の延岡市の愛宕山近辺では到底想像が及ばないことで、 瀬戸石川も瀬戸橋も、春日神社の付近を流れる荒瀬のこともまして「どわんどわん」と呼ばれた淵のことも。
さて太郎兵衛狐はどんな狐でどんな悪さをしてどんなふうに恐れられた存在だったのか。
               2007.09.26    雑記帳・profile のTOPへ戻る


■神話・伝説・民話 (雑記帳 file no.41)
神話とは

Wikipediaには「現在日本神話と呼ばれる伝承は、そのほとんどが『古事記』『日本書紀』及び地方各国の「風土記」に見られる記述を元にしている。即ち高天原の神々を中心とする神話がその大半を占め、一方ではその出典となる文献は決して多くはない」とある。

伝説とは
①古来から、人から人へと言い伝えられてきた話や噂。
②伝説は実在した人物にまつわる出来事が伝わったもの。
③「伝説は具体的な事物に直接結びついて語られるところに特徴がある。特定の山・川・滝・沼・淵・木・石・家などが登場し、語り手自身そのいい伝えが真実であるのを信じ、またきき手にもそれを要求する。
などの諸説。

民話とは
①民衆の中で生まれ、民衆によって口述されてきた昔話や伝説、説話などの事を民話と言う。
②民話とは,森羅万象を語ると同時に,生死に代表される不条理や人智を超えた事象を民族固有の思考様式によって再現前させる装置。
③戦後の児童文学作家たちが昔話を積極的に童話に取り入れた文芸運動の時期に「民話ブーム」が広まった。「民話」は「昔話」より広い概念があってその分あいまいで、民俗学ではあまり使われていない。
などの諸説。

やはり「昔話」を含めてその違いを明確にするのは難しい。
しかし日本人の多くが大雑把にその違いは認識している。

故石川恒太郎氏の「日向(宮崎)ものしり帳」においては「狐の民話」と「狐の伝説」という狐にまつわる話を民話と伝説に分けて紹介している。

狐の民話
 日向(宮崎)の国のキツネに関する民話、つまり民話に語り伝えられているお話でありますが、日向(宮崎)の国は山が多いので、昔はキツネやタヌキがたくさん住んでいたのであります。それでキツネに化かされた話や、タヌキに関する伝説などがたくさん語り伝えられています。そのうちのいくつかをお話したいと思いますが、キツネの民話でいちばんおもしろいのは延岡の柞(ゆす)ヶ谷の太郎ゼの話であります。(後略)
狐の伝説
 キツネに関する日向(宮崎)の伝説についてですが、日向(宮崎)の伝承によりますとキツネやタヌキは人を化かすと信じられています。しかし、単におもしろい作り話だけではなく、実際に化かされた人がいるのですから不思議であります。この話は、私が直接に化かされた人から聞いたものですから確かです。
 その人は太平洋戦争の前までは満州へ行って馬賊をしていた人で、名前は申せませんが、後に引き揚げて来て、戦争中は延岡市役所に勤めていました。そんな経歴の人ですから、なかなかしっかりした、シンのある人物でした。その人が申しますに、「キツネに化かされるなんて男はよっぽどまぬけ野郎であろうと思っていたが、この自分が化かされたんだから驚いたもんだ」といって次のような話をしてくれました。(後略)
さらに「日向(宮崎)ものしり帳」には「海にちなむ民話」という目次があり、その中で日向市細島のビロケ島の話、宮崎市の魚籃観音(ぎょらんかんのん)の話、日南市に伝わる鬼ヶ島へ行った一太郎の話に次いで、『海幸彦と山幸彦の物語は、今日では童話に、あるいは映画に作られて広く知られていますが、日向(宮崎)では宮崎市の名勝青島や日南市の鵜戸神宮にちなむ民話として、古くから伝えられているのであります。しかし、この話はたいへん古い時代から日本民族の間に語り伝えられたものでありまして、奈良時代に編纂された古事記や日本書紀に書かれているのであります』さらに『兄の海幸彦は日本の皇室のご先祖であられる瓊々杵尊の皇子の火酢芹命(ほのすせりのみこと)であり弟の山幸彦は火明命(ほのあかりのみこと)であるというこになり、この弟の火明命が父の瓊々杵尊のあとをついで彦火火出見尊と申されたということになって、日本の建国の神話の中に取り入れられているのであります』として、海幸山幸の物語を宮崎の民話として故石川恒太郎氏は紹介する。

宮崎の「海幸、山幸」の民話が記紀になったのか、記紀の「火照命、彦火火出見尊」が宮崎の民話となったのか。
日本神話が記紀と風土記であるとすれば、それらはいずれ民話の寄せ集め。
それにしても逸文ではなく日向風土記が現存していたらと思うと極めて残念。

今宮崎の民話を「ようこそ宮崎」に掲載するについて、その概念は極めて曖昧であるとしよう。
否、むしろ曖昧のままがいい。
そして民話をより広義にして「宮崎の民話」を楽しもう。

                               2007.09.25       雑記帳・profile のTOPへ戻る



 宮崎の民話 6 (雑記帳 file no.40)
まま子滝

「ままこ滝」は旧須木村を流れる綾南川の綾南ダムがつくる湖の奥にあって、今はスキムランドや温泉施設の脇役をひっそりとこなしている感じが否めないが大きくて美しく堂々とした滝。
綾南川は旧須木村から東に向かい、その下流にある綾町の照葉樹林の間を流れ、照葉大吊橋を潜って綾北川と合流して本庄川となり、宮崎市で大淀川に合流する。
まま子滝は霧島溶岩の柱状節理にそって五条に分かれた滝がとうとうと流れ落ちておりかっては高さ40.6メートル滝壺の深さ22メートルの滝であったが、昭和三十三年綾南ダムの建設によって水位が上がり現在の姿に変容したという。
綾の照葉樹林帯の綾南川の美しい流れに比べてここのダム湖のバクテリアの繁殖した異常に緑濃い水の色は、改めて人造の構築物が自然に犠牲を払わせている現実を実感させて、併せて著しく景観も損ねている実態も思い知る。
まま子滝下流の霧島溶岩が造形した断崖はスケールが大きく、このダム湖が無い景観はさぞかし美しいものであったと想像させる。
昭和48年に当時の須木村の商工会が設置した「まま子滝」の名前の由来についての案内文をこの地の民話として紹介する。

はじまり はじまり~

この滝の近くに若いきこりの夫婦が住んでいて、彼等には一人のかわいい女の子があった。
訪う人とてなきこの淋しい山の中の一軒家で親子水いらずの三人の生活はとても楽しいものであった。
四季にうつりかわる周囲の景色を眺め、日ごとに成長していくわが子の行末を夢見つつ元気で働けることは彼等にとって何よりの幸福と思われた。
しかし、その幸福も永くつづかなかった。
美しい妻はふとした病がもとでまだあどけない娘を残してついに帰らぬひととなってしまったからである。
平和で楽しかった彼等の生活は一瞬にしてこわされてしまった。
足手まといの子をつれて深山のきこりの仕事はあまりにも無理であった。
されのみか毎日の生活さえ男一人の手では思うままにならない。
そこでやむなく第二の妻が迎え入れられた。
子供はやがて五、六才となったが後入りの妻はこの子がじゃまで仕方がないので何かにつけていじめていた。
たよりの父は毎日朝早く家を出て夕方はおそく帰るので子供にしてはまま母と終日暮らすよりほかなかった。
「実の母が生きていてくれたら」と子供心にも今は帰らぬ母を慕って幾度泣いたことであろうか。
さて、ある夏の昼さがりのことであった。
野良仕事を終えた母と子は滝の上の岩にならんで滝を見下ろした。
いつもは子を憎むまま母も今日だけは言葉もやさしく「しらみをとってやろう」と例の子に言いながらその子を膝にひきよせその髪を分けはじめた。
すぐ真下には幾十尋とも知れぬ断崖を水は白竜のおどり狂うが如く地響きをたてて落ちていた。
このまま母に恐ろしいたくらみがあろうなどとはつゆほども知らぬこの子はうれしさに無心になって自分の帯と母の帯の端と端をしっかり結んでした。
そのときであった、ころを見計らった母はわが膝に寄りそう娘を万身の力でつき落とした。
しかし千尋の滝つぼへもんどりうって落ちていったのは、いたいけな、まま子とそれをこよなく憎んでいたまま母との二つの塊りであったのである。
                  2007.09.24       雑記帳・profile のTOPへ戻る 



■ 宮崎の民話 5 (雑記帳 file no.39)
黒田の家臣

文久二年(1862)に起こった京都伏見の船宿での世に言う寺田屋騒動はいわば薩摩藩の内紛でしたが、激しい戦闘の後で説得によって投降した薩摩藩士以外の尊王派の志士は諸藩に引き渡され、引き取り手がない志士は薩摩藩が引き取りました。
筑前秋月の黒田藩士の海賀宮門、肥前高原の中村主計、但馬気多郡の千葉郁太郎の三士は薩摩に送られる途中にこの島で惨殺されました。
細島の人々は勤皇の志が高かった三人の死を心から悼み、墓碑を建ててその霊を弔いました。
この島は神武天皇伝説の御鉾ケ浦の入口付近に位置していて周囲は100m弱の小さな古島です。
骸の発見者の黒木庄八翁とその子孫は、120年以上にわたって墓守りを続けています。
今は干潮時には歩いて行けるようになったのですが、道がない時代には船で月に二回墓参したといいます。
この島は細島の人々からだけではなく、広く日向市一帯に住む人々からも「黒田の家臣」と親しみを込めて呼ばれています。

なつのよの みしかきとこの  ゆめたにも  くにやすかれと  むすひこそすれ
島には黒田家臣海賀直求の時世を刻んだ石碑があります。
              2007.09.21       雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 椎野あじさいロード (雑記帳 file no.38)
美郷町北郷区の椎野あじさい組合(真田政徳代表)の「椎野あじさいロード」が今年度の「花の観光地づくり大賞」に決まった。
「花の観光地づくり大賞」は花の名所や花の景観を整備する花の観光地づくり事業を推進して地域の観光振興に寄与している団体等を表彰するもので、日本観光協会が主催している。
何もないところからスタートして小さな集落に沢山の観光客を集客できるまでになったことや、棚田にあじさいを植えることで土地の魅力が活かされていること、そして「おもてなし」の心で観光客を迎えていることなどが評価された。
88年に数人の住民によって植栽を始めて、現在は約3万本のあじさいが7kmにわたって咲く道となった。
宮崎にまたひとつ花の名所が加わった。

                  2007.09.20       雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 宮崎の民話 4 (雑記帳 file no.37)
おゆき伝説

都城市庄内町の「関之尾の滝」は幅40m、高さ18mの大滝と、男滝、女滝の三つの滝を有する日本の滝100選に選ばれた名瀑です。
関之尾の滝はその正面に架けられた吊橋から鑑賞することができますが、大量の水が轟音を轟かせて落下する様は壮観です。

今から600年も昔のこと、時の城主本郷資忠公が重臣たちを伴って関之尾の滝の近くで月見の宴を催していました。
見事な満月が山を超えて登ってきて天空に煌々と輝いて、主従ともに月にも酒にも酔いがまわり宴もたけなわになった頃、宴遊のざわめきが一瞬途絶えたそのとき、腰元のだれかが放屁をしたのでした。
殿様の不興をかったことを案じた家来は、音を聞いた場所の近くにいた腰元を何人か別の場所に連れて行って詮議をしました。
腰元たちはの中からは誰も名乗り出る者はなく、そうこうしているうちに、どういうわけかおゆきに疑いがかけられたのでした。
一旦疑いがかけられると、とうとうおゆきが放屁をしたということになってしまい、おゆきには抵抗できないようになってしまったのでした。
月見の宴は終わりましたが、身に覚えのないおゆきは気を病んで滝壺に身を投げて死んでしまいました。
それからというものは、おゆきの命日には滝壺の底から朱塗りの盃が浮いてくると伝わっています。
おゆきには経孝という相愛の人がいました。
滝壺の上の岩に経孝が槍で刻んだというおゆきの時世、「書きおくも 形見となれや 筆の跡 また逢う時の しるしなるらん」はその経孝が悲しみに耐えて刻んだと伝わっています。

おゆきと経孝のご両人が黄泉で現世で仲睦まじく暮らしていることを心から祈りたい。
                  2007.09.18       雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 下水流臼太鼓踊り (雑記帳 file no.36)
南方神社は(100年続いているという)宮崎で美味いので有名な鰻屋の前にあった。
数年前に鰻を食べに来たときにはこんな縁があるとは全く想像できなかった。
境内にある樹齢1000年の楠は見事。
帰りに都萬神社で見た樹齢1200年の楠も見事だったが、一体こんな巨樹がこの宮崎の地にどれだけあるのかと思ってしまう。

西都市上穂北の下水流の臼太鼓踊りは勇壮だ。
踊り手は16人。
それに鉦方が4人に歌い手が4人。
合計24人全てが男。
衣装は白の襦袢に青い山袴に脚半と草鞋。
そして豆絞りの鉢巻を前で結ぶ。
15キロぐらいの重さだというのぼりは、和紙を折って作った白い花房を三本の竹竿の一番下に大の大きさのを一つ、その上に小の大きさのを二つ、その上には真ん中の竹竿に赤い布で作った輪、その上には両端の竹竿に青い布で作った輪を二つ、その上の真ん中の竹竿に中の大きさの花房をとめて、先端には紅白の布がつく。
鉦方と歌い手は陣笠を被っていて、見るからに戦国時代の雑兵のいでたち。
鉦方はそれに紅白のたすきをたすき掛けにして、歌い手は陣羽織を羽織る。
鉦方は鉦を強く勇壮にたたきながら激しいステップで踊る。
のぼりを担いだ踊り手も掛け声をかけながら激しく体を回転しながら踊る。
踊ると花房が開いてさらに躍動感を強調する。
前知識がないのなら、いったい何故このような踊りが始まったのか、と考えてしまうに違いない。
発祥の由来は、江戸幕府の時代に島津氏が表向きは憚られた武道の稽古のために発案したとの説があり、踊りの陣形や集散、または激しい動きなどは確かにそれを裏付けるようにも見える。
しかし、豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに従軍した日向の武士が敵地で踊って敵も味方も見事な踊りに見とれた隙に竿に隠した刀を抜いて大勝を得たという故事は、江戸幕府の時代より前からあったということであり、前者の踊りの発祥の由来の説とは矛盾してしまう。
1929年には全国舞踊大会で一位を収めた穂北の下水流の臼太鼓踊りは、同年ロンドンでも一般に公開されて好評を博したなどの輝かしい実績もあり、宮崎地方の広い地域にかけて残る臼太鼓踊りの代表格といえる。
下水流の臼太鼓踊りは旧暦八月一日に五穀豊穣、水難、火よけを祈願して南方神社で奉納される。
南方神社での奉納の後は、神社近くの一ツ瀬川の川原と下水流公民館と続いて公開される。
都井の火祭りで見た串間の臼太鼓踊りは同じ臼太鼓踊りでも下水流の臼太鼓踊りとは趣を異にする。
串間は鉦を女が撞いてテンポも緩やかで踊りのしなも柔らかかった。
なにより哀愁を帯びていて夜の闇の中に見る串間の臼太鼓踊りは心を捉えた。

宮崎に伝わっちょるほかん臼太鼓(うすでこ)踊りも見らんといかん…
串間んとは必ずも一回見らんといかん…

               2007.09.16       雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 宮崎の民話 3 (雑記帳 file no.35)
名貫川のひょうすんぼとカッパ塚伝説

川太郎(河童)は西国九州の渓間池川に多くこれあり…とその昔は言われた。
子供の頃は川は大いに生活に密着していたもので、それ故に水難事故もたびたびあって珍しいものではなく、不幸にも人が川で溺れて死ぬと肛門が開くらしいと聞きいていた。
それが河童の仕業だとは信じてはいなかったものの、肛門が開くことについては不思議に思っていた。
昔むかし、徳泉寺に洞益和尚がいました。
ある夏の日の、檀家の葬式の帰りのことで、乗ってきた馬を川原につないで休ませて、自分も寺に戻って休んでいました。
馬が川の水を飲んでいると、河童がいきなり馬の背に乗ってきて水の中に引きずり込もうとしました。
驚いた馬は河童を背中に乗せたまま寺まで逃げ帰ってきたのでした。
それを見た和尚は河童を懲らしめるためにお堂の柱に河童を括りつけました。
河童が「もうしません、和尚さん許してください」と許しを乞うので和尚は縄を解いて許してやりました。
ところがその河童はその仕返しに仲間を集めて毎夜毎夜お寺にやってきては悪さをするようになりました。
困った和尚は川から石を千個拾ってきて、その石にお経を書いて川に投げ入れたのです。
すると河童は動けなくなってしまい、河童は和尚に許しを乞いました。
和尚は川から石を拾い上げ、その後河童は二度と悪さをすることはなくなりました。
カッパ塚は徳泉寺に登る階段の脇にあった。
カッパ塚に立つ石碑には、そのときお経を書いた千個の石が埋めてある、そして享保二年九月八日に和尚の業績を後世に顕すために建立すると記されている。
新暦旧暦の違いはあるものの、偶然にも塚にお参りしたのはその九月八日だった。
名貫川は尾鈴山連山に源を発し、矢研の滝をはじめとする瀑布群を流れ落ちて都農町から日向灘に注ぐ美しい川。
この川には他にも河童伝説があるが、今もそれらしき雰囲気が漂う。
                  2007.09.10       雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 宮崎の民話 2 (雑記帳 file no.34)
おせりの滝の竜神伝説

昔むかしのあるとき、「おんださん」の祭りに、それはそれは美しい三人の姉妹がどこからともなくやってきて祭りの手伝いをするようになりました。
あまりに美しい三人の姉妹は村中の若者の心を虜にしました。
不思議なことに三人の姉妹が祭りに来るようになってからというものは、どんなに日照りの日が続いていてもおんださんが近づくと雨に恵まれたのでした。
ある年のおんださんの後、村の若者はどうしても三人の姉妹がどこから来るのか知りたくて、姉妹が帰っていくあとをひそかにつけていきました。
すると三人の姉妹は「おせりの滝」までいくと若者を振り返り、悲しい顔をして滝の中に消えていきました。
それからは、おんださんの祭りに三人の姉妹がくることは決してありませんでした。

昔から「おせり様」と崇められ、伝説の竜神を祭って、雨乞いをすこともあったという「おせりの滝」は高さが70メートルで三段構造になっている。
かって、滝に沿う道を登って滝の頂上近くまでいったとき、高い木からバサバサと音をたてて何かが落下するのを見た。
その何かは地面に落ちる直前に羽みたいなものを広げて僅かに二次曲線を描いて叢に、やはりバサバサと音をたてて降り、また木に登っていった。
モモンガみたいだった。
夜行性だから昼間活動することはないはずだけど、私たちの騒々しさに慌てて飛び降りたのかと思っている。
       【御田際のページ】  2007.09.09    雑記帳・profile のTOPへ戻る



■ コブトリソウ (雑記帳 file no.33)
仕事で訪問したお宅の前の畑に真っ黄色のコブトリソウが満開だった。
思わずカメラを取り出して車を降りたら農家の女性がコブトリソウの根元で除草の最中だった。
挨拶をして写真を撮る了解をとった。
無農薬栽培や有機栽培での土壌つくりの堆肥として使うために植えられるようになったコブトリソウは、「根こぶ線虫」という土壌の中に住む害虫の駆除にも有用なため、野菜や果物を作付けする間の時期に植えられる。
本来、土壌つくりのためには花がつく前に青田刈りをするのがいいらしいが、この畑は満開だった。
コブトリソウは「こぶとりじいさん」の瘤取り草?
このあと大根を植えるのかな…

            2007.09.07     雑記帳・profile のTOPへ戻る


ゴーヤに似て青く長い実が成るヘチマの花。
椎葉の地で綺麗に咲いていました。
ゴーヤにもこんなに綺麗な花が咲くのかな…


■ ゴーヤとニガウリ(苦瓜) (雑記帳 file no.32)
ゴーヤーとは、沖縄の方言で「ニガウリ」の事です。
ゴーヤはウリ科の1年生ツル草で、正式和名は「ツルレイシ」。本州などでは「ニガウリ」とも呼ばれています。
ゴーヤーとは、キュウリなどと同じウリ科の植物で、苦味があるため、にがうりとも言われています。
やはりゴーヤとニガウリは同じものだった。
ある食事の店のオーナーが「ゴーヤは宮崎県の生産高が全国一なのでゴーヤのオリジナル料理を開発したい」という。
生産量は1位かも知れない。しかしゴーヤとニガウリが疑問だった。
宮崎においてはかってニガウリと言っていたものがいつのまにかゴーヤと呼び名が変わってしまった、と思っていたからこの際いくつかHPを覗いて確かめてみたら、ゴーヤは沖縄の方言で、全国的にはニガウリが本当のようだ。
ただし、「ちゅらさん」の影響なのかどうかはよく分からないが、今は全国的にゴーヤのほうが通りがいいように思う。
ふるさとの幸をいただきま~すは『宮崎県のゴーヤの平成16年の生産量は全国2位』
沖縄タイムスは『2005年度の収穫量は8660トンで全国1位。東京中央卸売市場での2005年度の取り扱い実績によると、沖縄は数量では1位だが、占有率は宮崎県とほぼ並ぶ25%にすぎない』
『最近宮崎県に押されて、いつの間にか、ゴーヤーの本場のはずが、チャンピオンの座を奪われかねない情勢のようだ。
何しろ向こうは東国原知事のアピール度がすごい。元もと宮崎産はゴーヤーではなくて、ニガウリのはずだが・・・』と、あるブログ。
みやざきブランド推進本部:ブランド情報室は『ゴーヤは、健康野菜として近年需要が伸びており、今年の宮崎県の作付面積は125ha、販売量3,400tを予定しており、前年の30%増となっている』
生産量はすでに宮崎が全国1位なのかも知れない。
それはそれとして、このゴーヤの性能には驚くものがある。
列挙してみると。
①ゴーヤの苦味は、果皮に含まれるモモルデシンとい成分で、血糖値や血圧を下げる効果のあることがわかってきた。
②食欲増進作用や整腸作用のあることが認められている。
③ゴーヤ100g中には、ビタミンCがレモンの2~3倍、キャベツの約4倍に相当する120mgが含まれている。
④通常ビタミンCは加熱すると壊れてしまうが、ゴーヤのビタミンCは、加熱してもほとんど壊れず残っているので、夏に汗で体外に出され不足しがちなビタミンCの補給には適していて、紫外線によるシミ・ソバカスなどの予防にもなる。
⑤β-カロチンやビタミンB1、またカリウム、リン、鉄分などミネラル類も豊富。
⑥体のむくみをとり、疲労を回復してくれるため、夏バテ防止に大いに役立つ。
ニガウリチャンプルは宮崎の郷土料理だと言っていい。
宮崎の生産量が全国1位だと聞いたゴーヤについて一寸考えてみた。
                                 2007.09.06
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■ 「北川の鮎掛け」 その5 (雑記帳 file no.31)
Oさんの話の続きに戻ろう。

竿は二つに分かれていて先の竿は長さが1メートルくらいで1~2年密封した水に浸けて鮎が騙されるようにアクを抜く。
手元の竿は川の深さによって使い分けをするらしく2mとか3mで、これは鮎には近寄らないからアク抜きはしない。
その二本の竿を鍛冶屋で特注して作ってもらった鉄の棒で繋ぐ。
鉄の棒は70センチくらいの長さで両端が細くなっていて両方の竿に刺して繋ぐ。
鉄の棒は単にジョイント金具の目的のためではなくて、鮎を狙うときに竿の先を水中に沈める錘の役目もある。
「アユカケ」に使うハリは「鮎かけハリ15~16号」。
それを元細りの竹楊枝にテグスで固定して、元が細った竹楊枝は竿の先に刺す。
鮎を掛けたら「ハリと竹楊枝」が竿の先から抜けて鮎に追随することになるが、「ハリと竹楊枝」を竿に繋ぎとめておく仕掛けをする。
アユカケは川の中に立ってする場合と船からする場合がある。
県立博物館に船でアユカケをしている実物大の模型が展示されていて、たまたまその写真を撮っていたのでそれを見てもらった。
艫(船尾)に川石を入れて沈め、顔が水面すれすれになるようにする。
そこで自作の箱メガネで水中を見て鮎とのやりとりの後、首尾よく仕留めた鮎は箱メガネを取り敢えずの魚籠(びく)の代用として使いながら次なる動作に続いていく。

碇を繋いでいるロープは足に括りつける。
そして水中を覗きながらロープを引っ張ったり緩めたりして操船する。
ロープを引っ張ると艫は右に動く。緩めると船はその反対の動きをする。
活発に泳ぎ回る鮎を碇に繋ぐロープを使って追う。
そんな高等技術もあるとか。
この模型はOさんの言うように艫が沈んでいないからアユカケが窮屈そうに 見える。

Oさんの都合のいいときにアユカケに連れていってもらうことにした。
この模型の写真が本物の人間の写真になるのはいつかなあ…
                 2007.09.05
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宮崎の小さい秋を見つけた… 

■ 木花開耶姫が生還した  (雑記帳 file no.30)
2007.07.10に高千穂町にあった木花開耶姫の銅像が盗難にあったことを書いた。
銅像があった場所は昔井戸があったところで、銅像は盗難にあったのではなくて井戸の中に落ちたというのが真実だったらしい。
大雨の日に銅像は井戸の底に落ちたらしい。
銅像を建てるのだから、井戸の跡だからとくに土を入れて締め固めていたに違いないが、銅像の下の土砂が大雨で流されて落ちた。
そういえば銅像は大きな石の上に乗っていた。
大雨の最中に大きな音が聞こえたらしいがまさか石もろとも井戸の中に落ちたとは誰も考えなかったようだ。
ともあれ盗難ではなくて良かった。
またあの麗しい木花開耶姫の姿が見られる。
思い込みのままに人様を中傷したあとで誤解であったことがわかったときのような軽い罪悪感を覚えた。

               2007.09.04  

■ 祝子川小中学校閉校  (雑記帳 file no.29)
祝子川小中学校は平成15年3月31日に閉校となっていた。
学校の玄関の前には「思い出の碑」が立っていた。
明治10年に創立したこの学校の長い歴史が平成の時代になって閉じた。
地域の人々や卒業生の思いは如何ばかりか。
祝子川は鹿狩瀬辺りから視界が狭まりはじめて、桑平に至ると急に両脇に山が迫る。行縢山と可愛岳の山裾の間は僅か50メートル程度しかなく、そこを祝子川が流れている。二つの山の尾根は頂からなだらかに祝子川に降り付いているが、はやりここは同じ行縢山脈に属する比叡山と矢筈岳の合間の綱ノ瀬川と同じ構造になっていて、そういう意味においてここでも川の流れの成立について漠然と考える。
「ここしか川の水の流れる道はない」というような山間(あい)が上流の大崩山まで続いて、諸塚ー椎葉間と同じような、車の離合が面倒な道が祝子川に沿っている。
中流域になると、山から切り出したばかりのような巨大な石が川幅いっぱい埋め尽くしている光景に出遭う。それはまるで巨石が流れる川の様相になっている。
上祝子に近年「祝子川温泉美人の湯」ができたが、その少し手前に閉校になった祝子川小中学校がある。
校舎の前は祝子川渓谷になっている。
中流域の川の(底とは言い難いくらいに石が川から突出しているから川底とは言わない)石はゴツゴツ尖ったものが多いが、ここは長い年月をかけた水の流れで丸く柔らかい形状となった巨岩が居並ぶ美しい渓谷で、流失した遊歩道沿いに渓谷の岩を登ったり降りたりしながらカメラを構えるが、美しい被写体を前に果たしてどう撮ったらいいものかと躊躇してしまう。
美人の湯の誘惑を振り切ってさらに上流を目指す。
道は大崩山の登山道の案内看板の辺りで通行止めになっていた。
下車して歩いてみると祝子川を左岸から右岸に渡る橋が無惨に流されていた。
流された橋のすご近くにはさらに美しい岩石と滝があった。
祝子川はここでも標高1643mの大崩山と1401mの木山内岳の頂の間の僅か2kmの間を流路としている。
大崩山は、木山内岳をはじめとする周囲の山々が涼しい顔でいるなか独りムクムクと水蒸気を巻き上げていて意気盛んで、とうとう最後までその頂を見せてはくれなかった。

写真は綺麗に撮れているようだが、さて祝子川(渓谷)をどう掲載すればいいやら…

                        (2007.09.03)  雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 椎葉の巨樹  (雑記帳 file no.28)
8月29日は巨樹を見に椎葉に行った。
「ようこそ宮崎」のためとしては二度目の訪問だった。
暑い日が続いていたから日が昇るとすぐ気温が上昇して、バイクであっても半袖で大丈夫と高を括って出発したが、諸塚辺りで寒さに耐え切れなくなって長袖を重ねた。
八村(やむら)スギは二度目だったが、前回は物見遊山そのものであったから、今回は丁寧に観察した。
大久保のヒノキは初めて観た。
大久保のヒノキは人の手を掛けずに自然のままに成長していつしか国の天然記念物になっていた、というような、枝(枝幹)が野放図に伸びて広がって威厳がある。
推定樹齢は800年。幹周り9.3m、樹高32m、南北に30mの広がりを持つ。
ヒノキの場所まで辿る小道の下は深い谷底になっていたが、山の斜面のイロハモミジと思われる木がもう紅葉をはじめていた。
椎葉は日向市から国道327号線をつかって約2時間を要する。
延岡市から高千穂が約1時間だから2倍も時間がかかる。
とくに諸塚を過ぎると離合も儘ならない狭い道が続き、その点では今なお秘境と言っていい。
九州大学の演習林を見たかったが帰りの時間を気にして次回に譲った。

        (2007.09.02) 雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 「北川の鮎掛け」 その4  (雑記帳 file no.27)
Oさんの話に戻るまえに、五ヶ瀬川の名前の由来についての独り言を言おう。
五ヶ瀬川の名前の由来は、吐ノ瀬・窓ノ瀬・あららぎノ瀬・網ノ瀬・大瀬の五つの瀬があるから付いた名前だという説の方が認知されているのかも知れないがこの「五つの瀬」の説には与したくない。
何故なら、「瀬」とは、川の流れのなかで水深が浅くなっていて歩いて渡ることが出来るようなところをいうが、五ヶ瀬川にはそのような瀬は六も七つもそれ以上もあるはずで、五つに限定するのはいかにも後付け由来にみえて根拠が薄い。
それよりホオリ(祝子)川と同じように五瀬命(イツセノミコト)と関連した伝承の方が説得力があるし、何より「ようこそ宮崎」的であると思う。
五ヶ瀬川の由来は、五瀬命が命名したか五瀬命に因んで命名したかのどちらかであると考えたい。
高千穂地方には、長男の五瀬命から四男の神武天皇までの四人の皇子が生誕した場所である四皇子峰(しおうじがみね)の伝承地や、五瀬命が五ヶ瀬川に自ら臣下を遣わした五大水神の伝承や、そもそもこの地方では神武天皇が東征に出発するまでは高千穂にその宮居があったと伝えらているし、東征に参加した三男の三毛入野命(ミケイリヌノミコト)は途中で高千穂に帰ってきて鬼八という妖怪を退治してその子孫が代々後の高千穂地方を治めたという伝承があり、垂仁天皇の時代に創建されたと伝えられる高千穂神社はその三毛入野命を主祭神として祀っている神社である等々、五瀬命をはじめとする四皇子に関する伝承は他にもあって、この地方は四皇子とは繋がりが深い。
高天原と日向三代から神武にかけての天と地に及ぶ神話の舞台としての伝承が数多く残るこの神々の里高千穂地方から流れ出る神聖な川五ヶ瀬川は、五瀬命が命名したか五瀬命に因んで命名したかのどちらかであるという説の方が肯ける。


                                      (2007.09.01) 雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 「北川の鮎掛け」 その3  (雑記帳 file no.26)
祝子川の中流域を少し下ったところの「浜砂」集落から直線で約3kmのところに標高728mの可愛岳(えのだけ)がある。
「鹿川渓谷のページ」でも紹介したように、祖母傾国定公園の中の行縢山脈の東の端の山になる。
大崩山と同じ時期にできたこの山脈の可愛岳と行縢山の間を通り抜けて下るこの祝子川は、同じ祖母傾国定公園の中にある(鹿川渓谷を有する)綱ノ瀬川と同様に水は極めて澄んでいて、祝子川渓谷の景色もまた素晴らしい。
可愛岳はそれほどポピュラーな山ではないと思うがただ一点注目すべき点は、ホオリ(火折命)の父親である天孫瓊々杵尊(ニニギノミコト)の埋葬地であること。
明治政府は
学者や宮内庁の調査をもとに明治29年に宮崎県東臼杵郡北川町の可愛岳(えのだけ)山麓の古墳を「可愛山陵伝承地」と定めている。
つまり、瓊々杵尊の埋葬地は可愛岳(えのだけ)にある古墳であるという結論をだしている。
さらには、可愛岳そのものが瓊々杵尊の神陵であるという伝承もある。

                             (2007.08.30) 雑記帳・profile のTOPへ戻る

■ 「北川の鮎掛け」 その2  (雑記帳 file no.25)
五ヶ瀬川は延岡市の吉野町で大瀬川と分かれ、そして方財の手前で合流して、その間に小さな二つの山を取り込んで三角州を形成し、そこが延岡市の中心地となる。
方財は昔は孤立した島であったものが五ヶ瀬川が運ぶ土砂を周囲に集めて陸続きになったし、陸に囲まれた島みたいになった。
とくに北の対岸は北川と祝子川と五ヶ瀬川が運ぶ土砂で埋め尽くされた広大な三角州になっている。
遡ると、北川は河口から大分県に向かって北上して国道10号線と日豊本線がそれに沿うように走る。
そして旧北川町の役場の近くで小川が北川に合流する。
本流の北川の大分県に入った所に「北川ダム」があり、支流の小川にはダムがない。
Oさんはダムがある方の本流は水が濁っていて「アユカケ」がし辛いと言う。
一方の小川に潜ると「気持ちいい」と言って、ダムは魚を守るためにはあってはならないと言う。
台風の後に川底の石が土に蔽われると餌のコケが死ぬ。それでも自然の川の回復力でまた土が再び洗い流されてコケが生える。
ところが、ダムがあるところは回復力が弱いと言う。
五ヶ瀬川水系のもう一つの川、祝子川は大崩山(1643m)の北に発し可愛岳(728m)直下西側を通って流れて、河口までは25km程度の短い川。
初めてホオリガワが祝子川と書くことを知ったときに首を捻ったが、それは日月を隔ててある日自分なりに腑に落ちる。
旧北方町の速日の峰と邇藝速日命(ニギハヤヒノミコト)の伝承のように、祝子(ホオリ)川とホオリ(火折命)は、何か関連する伝承があるのではないか。
探してみたら、小中合わせて生徒数が2名の祝子川小中学校のHPに期待したものがあった。
ホオリ(火折命)は別名が多すぎて混乱してしまうが山幸彦のことで、天孫瓊々杵尊(ニニギノミコト)と木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)の間に生まれた三男。
瓊々杵尊は結婚した翌日に木花開耶姫から「あなたの子供が生まれるからすぐに産屋を用意してください」と言われて、自分の子ではないの
じゃないかと妻を疑う。
木花開耶姫は怒って、自分の身の潔白を証明するために産屋の入口を塞いで火をつけて出産する。
二人の間にできた三男の名前は、ホデリ(火照命)、ホスセリ(火須勢理命)の次に産屋の火が収まりかけたときに生まれたのでホオリ(火折命)となった。
祝子川小中学校のHPは、祝子川の名前の由来の一つとして、そのホオリをこの川の水を産湯にしてその誕生を祝ったという伝説があることを紹介している。
                                      (2007.08.29)   雑記帳・profile のTOPへ戻る


 「北川の鮎掛け」 その1  (雑記帳 file no.24)
Oさんという知人がいる。
1950年辺りの生まれだと思う。
数年前営業で私のところに見えたときに、四方山話の中で彼が鮎の伝統的な漁法をしていて、この地方では彼と彼の父親だけしかやっていない、と話したのを記憶していた。

一月ほど前に彼の弟さんがひょっこりやってきた。
一年ほど前からOさんの鮎の漁法を見たくて機会を待っていたので、これ幸いと、弟さんに頼み込んだ。
それから何の音沙汰もないので、面倒だから関わりたくないのかも知れないと、半ば諦めていたら昨日の夕方に来てくれた。
その仕掛けから鮎の生態まで約90分、機関銃のように話してくれた。
鮎に対する愛情と知識がいっぱいのようだった。

私の目的が「五ヶ瀬川と鮎漁」であることを聞くと「私は北川ですけどいいですか」と言うので、「北川は五ヶ瀬川水系になっていますから大丈夫です。是非聞かせてくれませんか」とお願いをして話を始めて貰った。
最近の鮎は鯵やら鰯んごつ群れで泳いじょって縄張りを持たんとですよ」
「じゃから「友釣り」も掛からんですわ」
「海かい遡上して川で珪藻を食べて育った鮎は匂いを嗅いでん鮎独特の香りがすっとですが、そうじゃない鮎は匂いもせんし縄張りも作らん」
「三月ん河口に近い海で獲って県の水産試験場でしばらく太らせたのを各漁協が買うて川に放流すっとですけんどん、ほんとはその間に川を昇って珪藻を喰って縄張りなんかも作りながら鮎らしくなるっちゃけど、その大事な間に人間がやる餌を喰って育つもんじゃから鮎の性格が育たんとですわ」
「川を昇って育った鮎は全体の1割以下でしょうかね」
「そん鮎は「キンキン」と言うっちゃけど、自分の縄張りに他ん奴が入ってきたら背ビレをピーンと立てて凄っいスピードで追っ払いますよ。
それが綺麗な黄色をしちょって、追っ払って行くときは筋肉が張っているんでしょうかね、針が掛からんで体を滑るんですわ」
「狙いは追って行っての帰りのときの気が緩んだときがいいんですわ」
「それも一回は見逃してやっとですわ」
「竿を流竹ぐらいに見せておいてさらに気が緩んだ瞬間を狙うんですわ」
「僕は右からくる奴は苦手で左からくる奴が確立が高いですね」
「右利きじゃかい右かいくる奴は竿が邪魔して見えにくいかいでしょうね」
「竿は先の竿と手元の竿とあってですよ、それを鍛冶屋で作って貰った鉄の棒で繋ぐんですわ」
「先の竿は1メートルくらいで先を少し曲げるんですわ」
「そしてビニールの筒を用意して片方にネジを切ってキャップが出来るようするんですわ」
「ビニールパイプに水と竿を入れてキャップをして密閉して1年から2年置きますね」
「密閉すると空気が入らんから水が腐らんとですよ」
「水に長く浸けるすぎると逆に竹が脆くなるんですわ」
「そんげして作った竿なら鮎は流竹ぐらいにしか思わんで、それが青竹なんかじゃったらびっくりして警戒しますもんね」
Oさんが仕掛けの絵を描いてくれた。
耳川でやっている「チョンガケ」に近い仕掛けだと思い口に出した。
「うん、チョンガケと言うんですよ」
「じゃけんどん本当は「アユカケ」ですわ。親父なんかもそう言いよったです」
ただ、耳川で見て実際に自分でもやってみた、そして1尾だけ引っ掛けたあの仕掛けとは違う。
Oさんは、「最近は北川でもいるんですわ」
「針が二股に分かれちょって、短い竿の先に引っ掛けて、潜っちょってやたらめったら引っ掻き回しちょる」
「鮎とは遣り取りを楽しまないかん。網で獲る奴もおるけんどん、一網打尽はいかんですわ」
「鮎は獲っても育てないかんとですよ」
「北川もダムがある方の川はダム底からヘドロが流れてくるから水が濁っっちょるですもんね」
「ダムがない方の川は澄んじょって、潜ると気持ちいいして何もかも忘れらるっですもんね」
「北川ん鮎はあんまり大きくないってすよ」
「そのてん五ヶ瀬川ん鮎はおっきいですよ。僕は北川で28センチが最高じゃけど五ヶ瀬川のはおっきいですよ」
「八戸の鮎は特に大きい」
「やっぱ、五ヶ瀬川は餌があるってしょうね。コケがいいってしょう」

                           (2007.08.28)   雑記帳・profile のTOPへ戻る


「全国一斉マイホームグラウンド(HG)勝手にゴミ拾い」
’07年9月30日(日曜日)に決定しました。
当日参加できない方の為に'07年9月22日(土)~10月7日(日)まで期間を設けます。
尚「勝手にゴミ拾い」ですから上記以外で皆さんの都合の良い日でも構いません。

ゴミのせいで折角の景観も気分も台無しになった経験が有ると思います。
一部の心無い人達に依り残された渓流のゴミ、何もしなければこのゴミが自然に消滅する事は有りません。
行政や漁協と交渉するのは大変ですし面倒ですが自分の好きな渓のゴミを勝手に拾う事は誰にでも出来ます。
しかしはなかなか拾えそうで拾えないのも現実です。
そこでNetを通じて皆で全国一斉に同じ日に拾おうと言う企画をしました。
人が捨てたゴミと言わず例え一つでも拾って何時も遊ばせてもらっている渓に恩返しをしてみませんか?
場所は問いません、あなたのお好きな渓で一人でも良しお仲間を誘っても良し。


「源流親爺の釣り日記」クラ親爺(群馬)さんの企画に賛同します。
                                (2007.08.27) 雑記帳・profile のTOPへ戻る



■ 宮崎の民話 1  (雑記帳 file no.23)

中村地平が著した「日向民話集」がある。
中に「和泉式部物語」があって、平安時代に紫式部、赤染衛門、清少納言、伊勢大輔、とならんで五賢女とうたわれた歌人の泉式部の説話をとりあげている。

あらすじはこうなっている。
和泉式部は人が嫌がる業病にかかり、色々な治療をしたが治らなかった。
ある夜、夢で仏のお告げがあって、日本三薬師にお参りをすれば治るという。
これから先は二節あるがその一節。

式部は二薬師のお参りを済ませて最後に日向の(現在の国富町)法華嶽寺に篭って病平癒の祈願をした。
しかし病気は治らずとうとう式部は崖から身を投げる。
すると異形の人が現れて呪文を唱えると病気は跡形もなく消え去って、もとの美しい姿になった式部は京に上ったという。
式部の死地は明らかではないが、墓は京都の誓願寺にあって、他に東北と宮崎県西都市の鹿野田の式部塚がある。
式部は西都市の鹿野田で急病のため43才で死んだと伝えられている。
というものである。

朝日新聞がシリーズで書いている「子供たちに残したい 私のふるさと」があって、その(87)「鹿野田神社の井戸」が中村地平の「日向民話集」の「和泉式部物語」を補完する上で、さらに宮崎の神話との関連で興味深く読んだ。

鹿野田神社は飫肥藩主伊東家ゆかりの都於郡城址との中間地点にあった。
またここは熊襲を征伐するために、景行天皇が6年の間滞在した(日本書紀)という日向高屋宮にも近く、その点においても興味を惹いた。

以下、記事から紹介する。

井戸は、海につながっているー。
そんなイメージを抱かせる民話が、いくつも残る。
《村人が馬に乗ってこの井戸を渡ろうとしたら、突然落ち込んだ。慌てた村人たちが探しても見つけられない。もしやと思い浜辺を探したら、人馬が出てきた》
《井戸に落ちた牛が、鬼の洗濯岩がある宮崎市の青島近くの海で見つかった》
祭神は神話「海幸山幸」に登場するヒコホホデミノミコト(山幸彦)。
山幸彦が海神から二つの宝玉を授かり。兄、海幸彦を懲らしめたとの神話だ。
「潮満玉(しおみつたま)・潮涸玉(しおひるたま)」がご神体としてまつられているという。
井戸の名前も「潮満玉の泉」。
そして井戸には《山幸彦と結婚した海神の娘、豊玉姫が会うために、陸と海とを行き来した道》との言い伝えが残る。
以上

井戸は狭い境内の、道路に面した小さな建屋の中にあり、建屋の周辺の地盤と同じ高さから、短いひしゃくで腕を伸ばさないで汲むことができる高さにあった。
飲んでみた。
海の水より少し塩度は低いように感じたが、海水の濃度にかなり近い。

5mほど隔てた所に立つ、推定樹齢450年、目通り幹周り7.5mの御神木のクスノキの根はこの塩の水を毎日汲み上げて、幹や枝や葉に送り続けているのかいないのか。
和泉式部については、鹿野田神社の「鹿野田神社と潮満の泉について」で、こう書いている。
平安時代の女流歌人和泉式部は八代(現在の国富町)の法華嶽薬師に参籠した後、帰京の途中再び病となり鹿野田氷室の里までたどりつきこの潮満の泉での湯治をと思ったのか、近くの薬師堂に籠もり読経三昧の日を送り、遂にこの地で四十三才の生涯を終わったと伝えられています。
「日隠れや氷室の里を眺むれば藻潮の烟(けむり)いつも絶えせぬ」 。
これは和泉式部の歌といわれ、近くに籠もった薬師堂と式部の墓(写真)があり、里人によって祀られといます。

日向(宮崎)の民話は大きなテーマ…

                   (2007.08.27) 雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 夢見橋  (雑記帳 file no.22)
日南市の堀川運河に架かる「夢見橋」が完成して5000人が渡り初めをした。
樹齢1200年の飫肥杉30本を用い、金具を一切使わないで組み上げた、屋根付き木橋。
木橋は長さ45.8m、幅3.6mの人道橋。

                  (2007.08.27)


■ 都井の火祭り  (雑記帳 file no.21)
2007.08.25
 15:00
大雨洪水注意報が出ている中、バイクで都井の火祭りに行った。
高気圧に蔽われているけど大気が不安定なため一時的に大雨が降るかも知れない、そんな感じの予報で、しばらく考えて、「これは大丈夫」と踏んで片道180km先の都井岬に向かった。
宮崎地方の上空はそれほどでもなかったが、都城方面は入道雲が高く昇っていた。
途中、県道28号線の北郷町の山の中では通過の直前に夕立が降ったと見られ、道路が十分に濡れていた。
しかし今回は運良く「自分予報」が当たって雨に遭わず目的地に着いた。
都井岬は太平洋側に位置しているのに夕日が海に沈みそうな光景を見た。
海の正体は西岸までの距離が30kmある志布志湾だった。

都井の火祭りを見た。
土地に残る臼太鼓踊りも見た。
臼太鼓踊りは「ようこそ宮崎」の次のテーマの一つとして考えているので興味深く観た。
串間の臼太鼓踊りは心を捉えた。

                      (2007.08.26)   雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 無題  (雑記帳 file no.20)
赤道に近くて暑い国に辛い香辛料を多く使う料理の文化がある。
日本の夏に辛い食べ物を食べる習慣はあまりなさそうだが、暑い夏に熱い火を使う習慣はあるように思う。
お盆の迎え火、送り火。
家庭でする花火や大規模な花火大会は圧倒的に夏の歳時。
火照った体で夜になればキャンプファイヤーもする。
加えて、宮崎の夏は日向市のひょっとこ(火男)祭りに、都井のその名もそのもの「火まつり」があって二つの祭りは火に因む。
一方で高千穂峡は特に夏場に観光客が涼を求めて多い。
滝の飛沫を浴びてボートを漕げば涼味は満点。
鹿川渓谷の天然のウォータースライダーは今年も子供たちの歓声があがったことだろう。
猪八重渓谷に棲む狐は今頃は巣に戻って家族で団欒か。
達者で暮らして欲しい。
「猪八重渓谷」を本日UPする。
来年の春に宮崎で三番目の「森林セラピー基地」に認定されることを祈る。
宮崎の夏は海洋性気候のせいで比較的過ごし安いがそれでも今年の夏は暑かった。
御田際にはじまった宮崎の夏を都井岬の「火まつり」で終わるとしよう…。
                                        (2007.08.21)        雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 猪八重渓谷  (雑記帳 file no.19)
8月19日の7時前に高岡から田野に向かう道(県道24号?)で5~6頭の野生猿に遭遇した。
やはりここでも里山が廃れているのかと思いながら通過した。
道々、花が綺麗に咲いていた。
今年最初のパンパスグラスも見た。
お盆過ぎになると、それまでは周辺の雑草の中で地味に息を潜めていたものがいきなり存在を誇示するパンパスグラス。
春の桜とは比較できないにしても、確実に秋の到来を知らせてくれて、妙に「一年」を感じさせる。
田野IC入口を通過すると広く快適な山道(県道28号線)が北郷まで続いている。
バイクも軽やかに山道を登って行く。
そして飫肥杉が綺麗に植林されたなだらかな山並みを見ながら北郷へと降りて行く。
猪八重渓谷を訪れた。
目指しているという「森林セラピー基地」なるものを見聞したいと前々から考えていた。
五重の滝まで往復約5kmの森林浴を3時間かけて楽しんだ。
コケの宝庫だと入口の石碑が語る。
コケに注目することなど、この猪八重渓谷を歩くとき以外にはないと思い、できるだけコケを見て歩くことにした。
勿論、過去に渓谷の類を歩いたときにコケに注意をしたことがないので、ここのコケが多いとか少ないとかの感想も持ちにくいながら、でも、とにかく見て歩いた。
そして率直に美しいコケが多いと感じた。
五重の滝は美しい。
しかし残念なことには写真映りが良くない。
人間の場合は、眼が捉えたいくつかの画像を脳が便利に修正して、そのものが持つ本来の姿を焼き付ける作業を一瞬にしてやってしまうが、カメラはその点は素っ気無い。
自然はありのままに鑑賞するのが良いに決まっている。
しかし、五重の滝は写真映りが良くない。
化粧ではなく髪をカットするくらいは許されないのか。
帰り道の中ほどで渓谷に架かる橋を男性が渡るのが遠目に見えた。
橋を右岸から左岸に渡っていたのでちょっと歩けば擦れ違う。
ところが、もうその橋の近くまで歩いて行って迫っているというのにその男性とすれ違わない。
最近宮崎の民話で狐の話を何遍か読んだ。
今この時期にあらためてその類の民話に接してみると、結構身近な所にリアルな狐や狸の人間との関わりがあって面白い。
そんな予備的な意識があって、鬱蒼とした森林の渓谷を歩く中で「とうとう俺も狐の化かしを体験するのか、どれどれ…」とわくわくしながら橋の傍までくると、その男性は橋を渡りきった窪地で木を見上げていた。
男性の横を通るとき彼が見上げている木を横目で見やったが、特別立ち止まって鑑賞するほどの木には見えなかった。
『本日の独り言』
な~んだ、やはり狐の化かしは民話の世界か…
いやいや、実は男性は狐がすでに化けていて、遭遇したら騙そうとしたけど近づいて観察したら騙しても面白くなさそうだったからやめた。
騙してくれていたら新しい狐の民話「猪八重の狐話」になったものを…
                (2007.08.20   雑記帳・profile のTOPへ戻る




■ 宮崎県庁  (雑記帳 file no.18)
8月13日の人出は5080人、14日は5550人、15日は5278人。
夏休み前は1日約500人だったのが7月末ごろから1千人前後に増え、その後さらに加速したらしい。
警備員は「こんなに多くの人が訪れるなんて」と驚いているとか。
敷地内にできたカフェには行列ができているらしい。
物産館は毎日1千人を越す客が訪れて13日の売り上げは530万円だったそうだ。
東国原知事の誕生以来県庁が観光スポットになって、そのお陰で宮崎の物産がよく売れていると聞く。
喜ばしいこと。
だが人気に肖るだけの商品が横行しないように祈りたい。

『本日の独り言』
一時の騒ぎにとどまらず、落ち着いた息の長い、あくまで「宮崎」の人気であってほしいな…

        (2007.08.16)     雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 無題  (雑記帳 file no.17)
宮崎県南の北郷町に「森林セラピー基地」を目指す「猪八重(いのはえ)渓谷」がある。
約300ヘクタールの常緑広葉樹を中心にした天然林があって、中に20を越す滝があり、かつ、苔類の宝庫という。
宮崎県内では「森林セラピー基地」には2006年4月に日之影町が選ばれ、ついで綾町が選ばれた。
この三町の森林基地は「ようこそ宮崎」の中で優先順位の高い課題と位置づけている。
ごく最近の文明が自然の森林を破壊してきたつけが溜まった結果か、または、地球温暖化の影響か、これまでも宮崎ではいつも何がしかの災害は発生していたが、近年の台風の災害は今までとは違う激しいものがある。
今年もすでに4号、5号と相次いで上陸して早い時期から災害をもたらしている。
一昨年に高千穂鉄道に壊滅的な損害を与えたばかりなのに今回の5号はまたしても同じ地区の日之影町の森林セラピー基地に損害を与えた。
少しでも災害の状況を見聞できないものかと出掛けた。
今年の6月10日行ったばかりの「鹿川渓谷」の入口が槇峰駅の手前で土砂崩れによって通行止めになっていた。
さらに西に進んで、「日向八戸駅」の少し東にある「八戸観音滝」が見えた。
高千穂鉄道の鉄橋?から一瞬だが全貌が見える。
雨の後で水量が多く、「観音様」のように美しく神秘的に見えた。
「日向八戸駅」は注意して通らないと駅を確認できないくらいに地味にあるが、その眼前は「星山ダム」がつくる湖水が満々としていて豊かな気持ちにさせてくれる。
次の駅は「吾味駅」。
「ゴミ」と発音するが、同じダム湖がさらに美しいロケーションの駅。
「吾味駅」から夏草が生い茂る線路を歩いて行って、その先にある満々と水を溜めたダム湖の上に架かる鉄橋を渡った。
やはり高千穂鉄道の沿線は美しい。
日之影町の「森林セラピー基地」入口の災害の程度を見ようと出掛けたのに星山ダム周辺の美しさが先に目にとまって目的が替わってしまったが、それもよし。
『トロッコ五ヶ瀬川下り』
川下りを船でするのは当たり前だが、鉄道トロッコで川下りができるのが高千穂鉄道だ。
そんな思いが頭をよぎった。
8月4日に日向市で開催された「日向ひょっとこ夏まつり」を本日UP。
日向のひょっとこ祭りは年々盛んになって全国各地からの参加者が増えている。
トロッコで川下りができるのが高千穂鉄道だ…(2007.08.14)        雑記帳・profile のTOPへ戻る




■ 黒川紀章  (雑記帳 file no.16)
高名な建築家。
「神話高千穂トロッコ鉄道」に対して『地元の希望する金額を全額出資する。地元が立てた再建計画に協力したい』と話したという。
参議院議員の選挙期間中に来県して「高千穂鉄道と青島の再生のために私財を投入する」と公約をしていたという。
さらに、高千穂鉄道の経営に参画する意思はないという。
黒川氏は一個人として宮崎に深く関わりがあるとは思えないが、氏の意思を有難く感謝する思い。
本日  「青島」のページ  をUPする。
黒川氏は青島をどう描くのかな…  (2007.08.01)    雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 青島  (雑記帳 file no.15)
青島に行った。
2006.05.20以来になった。
まず、青島に訪れる人の大方がそうであるように島に架かる橋の手前から島やその周辺の波状岩を眺める。
そして、左に広がる「青島海水浴場」とその先に曲線を描く砂浜と緑の松林を見る。
橋を渡りながら右手の波状岩を見て、そして、橋の左側に寄って反対側の波状願を見る。
橋を渡り終えるとすぐ右側に奇岩が見える。
地震を引き起こすメカニズムによって隆起させられた岩盤にイレギュラーに付属していて、層を成して連なる本体の岩盤にくっついたままで海上に姿を現したような突起した岩。
まるで化学薬品を垂らして溶解したのかと思うような、そう、アーノルドシュワルツネッガーの映画の、何度撃ち砕いても、その度に水銀が表面張力によって丸く寄せ集まってきて復元するような、あの異星人に似て、不気味な形状をしている。
突起した岩の本体にあたる一列の波状岩(泥岩)は、その付属の岩を含めて周辺の波状岩とは違い、異彩を放つ。
これら、青島の「奇型波蝕痕」は国の天然記念物に指定されている。

青島神社の社殿の前から右へジャングルの中へ入って行く道がある。
その奥まったところに「元宮」があり、青島の中央部にあたるという。
そこは古代において祭祀が行われていた場所とかで、勾玉とか土器とかが出土するらしい。
今回は青島の自然が目的なので、その点は別に譲るとして、その「元宮」への30m程度の細い道は鬱蒼と茂るビロウの林の中にあって、外周からしか観ることができない青島の中では唯一ジャングルの中を見ることができる道になっている。
4,500本とか5,000本とか言われる青島のビロウを含めた亜熱帯性植物群は国の特別天然記念物に指定されている。
「元宮」の参道を歩くと、また島の周りを歩くと、ビロウの幼樹がどこそこに見られる。
毒を持つ「クワズイモ」などを含めて、自然を守りながらこの亜熱帯性植物群を多くの観光客に見せるようには出来ないものか。
青島の波状岩は壮大である。
日向灘との接線まで行って間近に見る「鬼の洗濯岩」は壮大である。
自然を守りながらこの「鬼の洗濯岩」をもっと多くの観光客に見せるようには出来ないものか。
貝類は泥岩が嫌いで、ゆえに細かな藻しか付着せず極めて滑りやすい。
2kmある青島の波状岩を一周する途中で転倒してジーンズの布を岩と脛の摩擦で引き裂いた。
激痛にしばしその場にうずくまって息を殺して耐えた。
ジーンズの膝の部分を裂いた今流行(はやり)のファッションみたいになったが、まだこの島に名が無いとしたら「足摺島」とでもしようか。

四国高知は足摺岬で九州宮崎は足摺「島」…(2007.07.30) 
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■ 宮崎県庁・楠並木のコリドール  (雑記帳 file no.14)
宮崎県庁に行った。
県庁前の楠並木も改めて鑑賞した。
土曜の早朝のの~んびりした雰囲気を写したかったが、祭り(えれこっちゃ宮崎)の準備で仮設の資材を積んだトラックが数台、県庁舎の前の楠並木の道に駐っていて、仮設の組立て作業もしていて、少し宛てが外れた。
庁舎の前庭では園芸の業者さんが植栽の手入れをしていた。
背の高いフェニックスは高所作業車のブームをかなり伸ばした状態で薬剤みたいなものを上から散布していた。
他にも何人か作業をしていて、県庁ともなればこれほど大掛かりになるのかと思った。
写真を撮る上ではこれも少し宛てが外れた。
新しいカメラで撮った県庁と楠並木の写真を掲載したい。

県庁が観光スポットだなんて…

 (2007.07.28)    雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ ETOランドと速日の峰の名前の由来  (雑記帳 file no.13)
エトランゼというフランス語を調べると「異邦人、見知らぬ人、旅人」とかいうことが書いてある。
ETOランド(エトランド)は延岡市北方町の「速日の峰」にあるアミュズメントパークで、初めて「ETOランド」を知ったときに、「エトランゼ」の音をモチーフにしたネーミングだと感じた。
(旧)北方町は日本で唯一の干支の町。
通常の「宮崎市橘通り」はここでは「北方町午XXXX」となる。
ETOランドがある「速日の峰」は標高868mで、東に20kmで日向灘に達し、北東12kmに標高830mの行縢山があるが東には遮る山はない。
西は六峰街道の山々が連なる。
日向灘に日が昇るときまず初めに日光が達する山が「速日の峰」だと誰しも思い、それ故についた名前と考えそうな山。
宮崎には神話や伝承に由来する土地の名前が沢山ある。
ここ速日の峰からは北西に20kmの西臼杵郡高千穂町は神話の町だから当然のことながら神話や伝承に由来する地名は沢山あるが、高千穂町から東の方面になると、日向市美々津周辺を除けば案外少ない。
少ないながらも、速日の峰から北東から東にかけての半径約12kmの附近に「舞野」「武野」「行縢山」「矢筈の滝」といった「日本武命(やまとたけるのみこと)」の伝承に因む地名が残る。
では「速日の峰」と「速日命」は関連はないのか?
速日の峰の南約25kmに標高1405mの「尾鈴山」があって、そこには天孫瓊々杵尊の兄の邇藝速日命(ニギハヤヒノミコト)が高天原から降りて、そのまま乗り捨てて行ったと伝わる大きな岩石「天の磐船」がある。
尾鈴山とは伝承が重なるが、やはり「速日の峰」と
「速日命は因果関係があった。
しかし、日本書紀などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かって、「天磐船」に乗って邇藝速日命が降臨したところは「河内国」となっているから、どちらがどちらやら…
でも、宮崎人としては高天原は何処か?高千穂か?とか考えはじめると、古代はますます面白い。
神話の時代にエトランゼ(
邇藝速日命)が日向の国の速日の峰に、乗って来た天の磐船から降り立った。
そこは後の世にエトランドと称する庶民が遊ぶ所となった。
そんな「ETOランド」さんのご繁栄を祈る。

ともかく、「日向国」に降臨したと記紀に明記されているのは天孫瓊々杵尊だ…              
                  (2007.07.27)          雑記帳・profile のTOPへ戻る



■ 高千穂線復活支援総決起大会  (雑記帳 file no.12)
高千穂線復活支援総決起大会に行った。
野口記念館が満席になった。
2億円をいかにして集めるか。
これに尽きる。
オープニングに「延岡神楽保存会」がアメノウズメノミコトの舞とトガクレノミコトの舞を紹介した。岩戸神楽(高千穂夜神楽)でいうタジカラオノミコトは延岡神楽ではトガクレノミコトと言うらしい。
岩戸神楽は33番、延岡神楽は37番で、アメノウズメノミコトとトガクレノミコトの二神は岩戸神楽とは装束も少し違った。アメノウズメノミコトは「面白可笑しく踊って八百万の神々を湧かせた」のは伝承としては変わらないが、伝承に反して静かな舞は共通する。
岩戸神楽での二十六番 「戸取」に相当するところでは、トガクレノミコトは岩戸に3回から4回激しく体当たりをした。これは大きく異なるところ。
デジカメの調子が悪くて総決起大会の模様を紹介できない。

よく働いてくれてありがとう…  (2007.07.22)
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■ 青島  (雑記帳 file no.11)
青島をお忘れじゃありませんか?
Googleで「青島」を検索して驚いた。
「青島」は中国のチンタオと故青島幸男氏が一位二位とWikipediaの記事が並ぶが、宮崎の「青島」はない。
かって観光の表舞台であった「青島」は過去の栄光なのか?
そうではない。
「都井岬」や「高千穂峡」と並んで「青島」は宮崎の重要な観光資源である。
「青島」のページを作ろう。
青島をディスカバーしよう…   (2007.07.18)     雑記帳・profile のTOPへ戻る



■ 宮崎と神武天皇 (雑記帳 file no.10)
「宮崎と神武天皇」のページは2006年の夏に初めてUPして、その後内容に不満の日が続いた。
今日は非常に強い大型の台風4号が沖縄に最接近していて、ここ宮崎でも大量の雨が降り、県内各地で道路の不通が起きていたり、避難勧告が出ている中での言わば「どさくさまぎれ」の全面改訂になった。
細かい部分までは手が回らず、変わらず不満はあるものの、ある程度は神武天皇物語りの構想に近い内容になったと思う。
臼杵高千穂での伝説など、神武天皇の兄や孫など、少し加えたいものがあるので、それはするとして、他のページも中途で止まっているものもあるので、そちらも進めていきたい。
今後も宮崎を(バイクや車で)走ったり歩いたりすると、また新しい神武天皇像が浮かんでくると思う。
そのときはまた手直しをしていきたい。
神武天皇はほんとに宮崎におったかって?  そら~おったじゃろ…   (2007.07.13) 



■ 木花開耶姫が盗難 (雑記帳 file no.9)
昨夜友人と食事をしているときに、西都原古墳について訊かれた。
地元の伝承と断ったうえで、話が木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)のことになったときに、「そういえば、高千穂町の木花開耶姫の銅像が盗まれたらしいね」とその友人が言う。
その銅像は以前より私が気にしていた銅像で、見るたびに古代の宮崎美人を想像していたものだった。
「ようこそ宮崎」の「宮崎と神話」のページに載せたい銅像だったが、カメラの腕が悪いために周囲と木花開耶姫がミスマッチで、自分としては使えない写真だった。
本日「高千穂峡」をUPする。
オクラ入りしていた写真を載せよう。
 (2007.07.10)   雑記帳・profile のTOPへ戻る




■ 御田際 (雑記帳 file no.8)
970年の伝統を持つという美郷町西郷区(旧西郷村)の御田祭(おんださい)に行った。
07時45分には現地に着いたけどすでに観客が田圃の周囲に陣取っている。「カメラの三脚や撮影用の脚立は遠慮して欲しい」という旨の札も、司会のアナウンスも無視して三脚や脚立を撤去することもない。高千穂線の存続も危ういけど日本人の公共精神の存続も危うい。
田圃に目をやれば、ゲンゴロウやアメンボウがいて、 産卵中のトンボとツバメが水面を飛ぶ。馬が田圃に入ってきた。馬は勿論農耕馬だけどサラブレッドとも都井岬の野生場とも違って胸も腰もずっしりと重量感があって、それは正しく肉体美に他ならない。
暑いのに隣に座った人は合羽らしきものを着ていた。祭りが始まって、牛馬から田圃の泥水を何度もかけられて合羽の意味が分かった。この祭りのリピーターは、回を重ねると装いのバージョンがアップしていくらしい。
そういえば、沢山並んだカメラの多くがビニールでカバーされていた。これもバージョンアップの一つだった。牛馬のクライマックスが終って気をゆるしたアマチアカメラマンの立派なカメラが、最後のサービス?とばかりに疾走してくれた馬が跳ね上げた泥水をまともに被って泥だらけになった。
脚立も三脚も使っていない人のカメラだったのが残念。
宮崎(日向国)は興味が尽きない…(2007.07.01) 



■ 「神話高千穂鉄道」が危ない (雑記帳 file no.7)
05年の台風災害で経営を断念した第三セクターの高千穂鉄道に代わって運行再開を目指している神話高千穂トロッコ鉄道に対して高千穂鉄道の取締役会は「(国土交通省からの神話高千穂トロッコ鉄道に対する)認可のメドが立っているとは思えない。現時点では資産の無償貸与の決議は見送らざるを得ない」
と決議を見送ることを申し合わせた。  宮崎のローカル線

「神話高千穂トロッコ鉄道」が危ない…(2007.06.21) 







■ 鹿川渓谷 (雑記帳 file no.6)
2007.06.10は鹿川渓谷に行った。
子供の頃、「学校の帰りに道草をしてはいけません」とよく先生に言われた。

昨今、道草は子供にとって命取りにもなる物騒な時代。
私はといえば、鹿川への道の途中のどこそこで路傍の、名も知らぬ花々を見つけては、そのたびに何度も道草をした。

そして写真を撮った。花を見逃さないためにゆっくりバイクを走らせた。終いには、「道草を止めないと目的地に着くのが遅くなる」と考え直した。

国道218号線のバイパスを使わず、川沿いの道を走って槇峰へ右折。
しばらく走ると右に比叡山(標高918m)、左に矢筈岳(同736m)がいきなり頭上に見える。

二つの近接した山はほとんど垂直にそそり立っていて、二つの山がつくる千尋の谷の底には日之影町と北方町(延岡市)の境となる綱ノ瀬川が流れる。

鋭角のV字の造形は、網ノ瀬川があたかも神がかりで二つの山を切り裂いたかのように見える。

行縢山脈に属する比叡、矢筈は石英斑岩からできているために風化されにくく、ゴツゴツと尖りながら重なり合って、それは奇景であって美しい。二つの山の景観はぜひ、後日、このサイトで見ていただきたい。

登山愛好家がロッククライミングをしているのを仰ぎながら一路鹿川渓谷を目指す。


                         (2007.06.10)
           雑記帳・profile のTOPへ戻る


■ 市民の森の花菖蒲  (雑記帳 file no.5)
「市民の森」の花菖蒲と睡蓮のスライドショーをUPした。
御池には伝説があって、無闇に人は立ち入らないのだろう、鯉と亀の楽園のように見受けられた。
花菖蒲の美しさや豪華さは言うには及ばないが、御池の睡蓮もまた素晴らしい。
睡蓮が視界に入るや思わず「ファンタスティック」を連発した。
そして亀の愛嬌に心が和んだ。



                       (2007.06.06)     雑記帳・profile のTOPへ戻る

■ あじさい公園  (雑記帳 file no.4)
2007.06.03は「あじさい公園」に行った。
雨だったので車にしたが、紫陽花は雨の日に撮りたかったのでOKの雨だった。
今年は2月の座論梅にはじまって、精力的に「花」をテーマにして走りまわって、今回の「あじさい公園」が最終ラウンドと決めていた。
紫陽花を満喫した。

「しゃくなげの森」「椎八重公園」「あじさい公園」は同じエリアにあって、この地域周辺の人々は、知恵とか実行力とか、なにかそんなものが豊かな証拠じゃないかと、比較してはいけないと思いながらも、県北の「花」に留まらない物足りなさを感じてしまう始末。

「母智丘桜」「観音池のさくら」など、他にも見甲斐のある花の名所がこの地域には沢山ある。

ところで、「あじさい公園」は素晴らしい紫陽花の公園だった。
写真は今回ズームアップを多くした結果、紫陽花の瑞々しさが撮れたと思っている。
スライドショーではもし写真を気に入っていただいても取り込めないのでサムネイルにしてみようか…と考えてる。


                                                   (2007.06.03)

■ 高千穂峡・高千穂鉄道  (雑記帳 file no.3)
2007.05.13に高千穂峡に行った。
高千穂峡は私にとっては珍しい場所ではないけども、今回は新たに高千穂峡のページを作るために行った。
ゴールデンウィークが終ったばかりの日曜日にもかかわらず、県外からの観光客でいっぱいだった。
貸しボート屋さんも、商売は大いに繁盛しているようで「よかったよかった」。
土産物屋さんも狭い店の中にお客さんが沢山で「よかったよかった」。
ゴールデンウィークの人出ランキンキングでは宮崎県でNO.1の高千穂峡はさすがに貫禄の集客力。
高千穂は「宮崎のローカル線」で扱っている「高千穂鉄道」の終着駅がある。開業への支援金の募集も始まったが、それが順調にいっても運行の再開はまだ先のことで、それならば、久しく観ていない高千穂鉄道沿線を歩いて風景を楽しもうと思い、先ずは高千穂駅から天岩戸駅までを歩いてみた。
国道218号線は五ヶ瀬川に沿った道で、延岡市から高千穂町までは、五ヶ瀬川を楽しみながら車を(バイクを)走らせることができる。国道218号線は近年バイパスが抜けて所要時間は短くなったものの、以前の離合もままならずに大いに不便であった218号線のほうが風景は格段に優れたものだった。その風景も高千穂鉄道から、つまり218号線とは反対の方向から眺める五ヶ瀬川はさらに秀逸。
そんな高千穂鉄道の列車からの景色をなんとかHPで見せられないものかと思うが、高千穂鉄道は運行できないので仕方なく、ではなく、喜んで歩いてみようと思い立たった。
高千穂駅にシャドーを置いてテクテクテク…。
モータリゼーションのこの時代にテクテクテク自分の足で歩きながらただ風景を眺める行為はなかなか精神的に贅沢な感じがする。
ただ、高千穂駅まで歩いて戻るときは、「これも含んでテクテクテクテク…なんだ」と言い聞かせるのだけど、喉がカラカラに渇いてきて、駅の近くのスーパーに着いたら一目散に冷たいお茶の売り場に行って、レジでお金を払うや、ガブガブガブガブ…だった。

                    (2007.06.02) 雑記帳・profile のTOPへ戻る
 


■ 「みやざきフラワーフェスタ」・「宮崎の民謡」  (雑記帳 file no.2)
「みやざきフラワーフェスタ」は「ようこそ宮崎」としては避けては通れず、まずメイン会場のこどもの国とフローランテ宮崎に行ってみたが、その結果たくさんある他の会場にも行ってみないと自分の気持ちが納まらなくなってしまった。
花は、「こどもの国」などのように人為的に花のピークをコントロールできる会場は例外で、花の開花や満開は基本的には人力は及ばずもっぱら気候に左右されるので、県内各地に点在する会場の花の満開の時期を注意しながら訪れたが、タイミングを誤って複数回足を運ぶこともしばしばあった。
また、一回目に訪れたときの花に満足できず、時期を誤ったのだろうと、その後に何回か足を運んで、さらに好意的に見てはみても、最後まで紹介するのを躊躇ってしまう会場もあった。
今年はあと2ヶ所行って見るつもりでいる。
それで2007年の「みやざきフラワーフェスタ」詣では完了。
来年は、今年行くことができなかった会場を、良く見てみたい。

「宮崎の民謡」のページを大幅に改定した。
内容を豊富にしてビジュアル的にもすこし改善できた。

まだまだ手直しやら付け足しやら新しいのやら忙しい…
  
                                    (2007.05.08)


■ みやざきフラワーフェスタ  (雑記帳 file no.1)
みやざき(宮崎)フラワーフェスタのページをUPした。
宮崎の花をすべてスライドショーに仕立てて余計な説明をしないつもり。
2007.03.21の05:30に起きてシャドーに乗った。
座論梅(2007.02.10)以来のことで、エンジンの始動が少し悪かった。
目的地は西都原古墳群。
ここは「ようこそ宮崎」に取り組むようになってしばしば訪れている。
公共の場所での撮影は天気が良くて、そして、人が少ない早朝がいい。

西都原の菜の花は綺麗だった。
2日経った今日になっても、菜の花の花々の精が脳裏に溢れて波のように押し寄せてくる。
一日前でも一日後でもいけなかったように思う。
最高の菜の花をたっぷりと時間をかけてゆっくりと遊歩した。
あの菜の花の1本いっぽんにたっぷりと落ちた朝露をすべて集めることができたなら一体どれだけになることだろう… 
                    (2007.03.22)



■ profile

生まれも育ちも宮崎です。
子供の頃の遊び場は五ヶ瀬川下流域とその周辺。
夏はパンツに水中メガネに金突(カナツキ)といったいでたちで川遊び三昧の生活で背中の皮を三度剥き、冬は冬で釣竿を持って一日中五ヶ瀬川、もしくは周辺の田圃や畑で青洟(あおばな)を垂らしながら遊び呆けていました。

良くも悪くも伝統的、古典的な宮崎人だと思います。

ボヤーとしていて、父親に「夢の久作」と揶揄されていました。

小学生の頃は熱心な音楽のN先生が指導する「器楽合奏部」でコントラバスを弾いていました。当時演奏していたビゼーの「アルルの女」には今尚特別の思いがあります。

中学校はただ泳ぐのが楽しくて通いました。
冬は風呂で体を温めながら泳いでいました。夏は台風のさなかでも、とにかく何が何でも泳いでいました(笑)。三年生になったばかりのある日、まだ若く元気で熱心で優秀な指導者であったK先生を失いました。


何とはなしに高専に進学して、四年から五年に進級する学年末試験を、ある事件に対して抗議のボイコットをして留年してしまいました。今に思えば些細なことですが、これが若気の至りの序章でした(笑)。このときに「俺のノートを貸してやる。頼むから試験を受けてくれ」と言ってくれた友をいまだに有難く思っています。打ち切られた奨学金を補うためコックのアルバイトをして洋食料理を少しだけ垣間見ました。そこはレストラン(画廊)喫茶でオーナーは藤田嗣治がお気に入りのようでした。

そういえば当時のhiro少年はビートルズが好きでしたね~。
とくに「ホワイトアルバム」に納められた楽曲の数々が大好きでしたよ。

それからはずっと「たまにはビートルズの社会人」です。

今乗っているバイクはホンダのシャドーです。

「ようこそ宮崎」の取材には原則シャドーで行きます。

飲み屋には誘われればだいたい断らずに行きます。
カラオケは上手くはありませんが、たとえば美空ひばりなら「みだれ髪」など、5年に一度くらい「悲しい酒」、都はるみなら「あんこ椿は恋のはな」、裕次郎なら「昭和たずね人」、加山雄三なら「君といつまでも」、山口百恵なら「曼珠沙華」、テレサテンなら「香港」、陽水なら「上海」…。つまり歌うのは好きなんでしょう。

スポーツは、強いて言えば、すこし以前にオフィシャルハンデが13だったゴルフ。今は飲み屋と一緒で、仲間に誘われたら行く程度ですが、白い玉を追っかけて一日中歩き回るのは、子供の頃に無心に遊んだ感覚に似ていて好きです。ラウンドは最近は年に5~6回でしょうか。練習はまったくしません。「クラブにその機能に応じた仕事をさせる」のがモットーで、練習不足をカバーするためにシンプルなスウィングすることに専念しています。

そして有酸素運動をするために早朝にウォーキングを少々。
夜は焼酎を飲むので早朝の条件がつきます。

その人生の友ともいうべき焼酎は(主に)宮崎産をほぼ365日飲んでいます。
肝臓の検査はいまのところ無事に通過しています。
10代(未成年ですからほんの少々)は鹿児島が近くて鹿児島の芋焼酎を飲みました。

20代は縁あって球磨焼酎をよく飲みました。

「ようこそ宮崎」を運営するようになって、それまで宮崎のことを知っていたつもりでいたのが、実はほとんど知らなかったと思うようになりました。

生涯を通して宮崎を愛し続けた先人達の足跡がほんの少し見えるようになったかな…という感じです。

いまだに「はなたれ小僧」です。
うん?やはり夢の久作(きゅうさく)かな?

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