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| 雑記帳 ② | ||
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■2008.10.13 【鵜戸神宮】 旧官幣大社で鵜戸村大字宮ノ浦吹毛井にある。神殿は鵜戸崎の北端にあって、太古この岩窟で降誕したと言われるウガヤフキアエズノミコトを奉祀している。創立は崇神天皇の時であると言い、あるいは景行天皇、あるいは推古天皇の時であるとも言われているが文政年間に古記録焼失したためにつまびらかでない。 桓武天皇の時、延暦元年(782)に天台宗の僧光喜坊快久が勅命を受けて、神殿三宇を再興し、寺院僧堂を再建して、鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺の勅号を贈った。(これより神仏合祭となる) 歴代領主の崇敬厚く、永禄三年(1560)に伊東義祐が神殿を再興し、寛永十八年(1641)に伊東祐久が神殿を修復した。宝永六年(1709)には伊東祐実が二年余の歳月をかけて神殿三社の上屋、拝殿、舞殿、御供所、籠屋を新造した。その後、正徳元年(1711)に神殿を再興し、明和七年(1770)にこれを修復した。 明治元年(1868)に神仏分離の令が発せられ、続いて別当と権現号が廃止され、社は仁王護国寺と分離した。明治二年(1869)に鵜戸神社となり、明治七年(1874)に官幣小社に列せられ鵜戸神宮と改称、明治二十八年(1895)には官幣大社に昇格した。 現在の神殿は正徳元年の建築で、本殿、幣殿、拝殿を結合した権現造であり、柿葺(こけらぶき)、極彩色が施してある。拝殿は向千鳥破風及び軒唐破風を飾り低床であり、四方に廻縁をつけている特色ある神殿である。 古くから縁結びと夫婦和合、安産の神として崇敬を集め、この地方にはむかし、新婚の夫婦がそろってこの鵜戸神宮にお参りする習慣があった。当時、内海から鵜戸までは七浦七峠とよばれた難所であったという。無事お参りをすませた夫婦を、親族のものが途中まで迎えに出、ひいてきた馬に盛装した花嫁をのせ、花婿が手綱をとり、シャンシャンと鈴の音をひびかせながら親族のものと家路をたどったと言う。これが民謡にのこる「シャンシャン馬」である。 (宮崎県文化史大観より) さて鵜戸神宮のページをまとめよう。 ■2008.09.09 【蛇谷伝説】 延岡市夏田町の桜ヶ丘の奥の山あいに、蛇谷というところがあり、雄滝と雌滝がある。 手前に龍泉寺があって、滝の付近は昼でも暗い樹林に囲まれ、不動明王が祀ってあり、災難を払い、平安を招き、安産に霊力があるという。 昔、祝子川にそそぐ谷川の奥の滝には男蛇と女蛇の主がいた。 二つの滝は、底が通じていて、それぞれ仲よく暮らしていた。 そのうち女蛇は子を産むことになった。 出産日が近づいたので、出産場所ときめられている日之影町の山に向かった。 道は遠く、まだ到着しないうちに、日之影の宮水の野原で産気づき、激しい痛みのために動けなくなった。 苦しんでいる女蛇の耳に、「庄屋さんからおふれが出たが、あすは野焼きじゃそうな」という声が聞こえた。 野原を焼いたあとに、ソバやアワ、ヒエなどを作るもので、地区の共同作業である。 女蛇は困ってしまった。 野焼きがあれば腹の中の子どもと一緒に焼け死んでしまう。 夜になって女蛇は、庄屋の夢枕に立って「子どもを産むまで野焼きを待ってください」と頼んだ。 しかし、もう全員に知らせてあるので火をつけることをやめさせることはできず、野焼きは予定通り行われた。 激しく燃える火の中で、女蛇は子蛇を出産した。 子蛇を助けようと口にくわえた女蛇は、もがきなから、高くあがる火柱とともに、中天に逆巻きのぼったが、黒煙の渦巻く野原に落ちた。 野焼きのあとには、大小ニ体の蛇の骨があった。 このあと、近くの家では、囲炉裏に落ちて災難に遭う子が多くなり庄屋の家では火傷の跡のような形のある子が七代も続いて産まれた。 蛇の頼みを聞かなかった祟りだと逆巻きのぼって死んだ女蛇にちなんで「逆巻き山」と名付け、岩穴に12枚の鏡を奉納して女蛇の霊を慰めた。 「逆巻き山」の女蛇のご神体の鏡の大きさは死んだ女蛇の目の玉と同じだという。 蛇谷の雌滝は、主がいなくなったので、雄滝に通じる穴は埋まった。 女蛇が死んだときに、山崩れがあったと伝えられている。 女蛇が死んでからは、夜になると鏡や太鼓や笛の音が響くようになった。女蛇の死を悲しんでの供養の音だといわれた。 雄滝の深い滝壺は底無しだと言われ、約五利も離れた祝子川、北川、五ヶ瀬川の河口の東海地区にある「赤がね岩・黒がね岩」のそばの港神社の前まで、滝壺の穴が通じているといい、雄滝に投げ込んだ樽が、河口の海に浮かんだといわれている。 この蛇谷の伝説は五ヶ瀬川の河口の港神社から、西臼杵郡日之影町までの広い範囲を舞台にした物語りである。 この地理の範囲の共通項は行縢山脈と五ヶ瀬川(水系)となる。 女蛇が産気付いたとされる日之影の宮水は日之影町の中心部を西に過ぎた700~800mのところにある。 「逆巻き山」という山はないが、「逆巻き」という地名で「蛇」を祀っている。 その「逆巻き」は宮水地区の龍天橋の袂から山に少し入ったところにある。 延岡市の桜ヶ丘の蛇谷の伝説の地には「龍泉寺」があり、女蛇が子蛇と死んだ「逆巻き」には「龍天橋」があり、この両者は「龍」で繋がっている。 龍泉寺や龍天橋の名前の由来はどんなものなのか。 蛇の出産の場所が日之影の山と決められていた理由は何なのか。 女蛇は日之影に行くのには日向灘に近い東海地区の港神社まで地下の水道を通って、その後は五ヶ瀬川を遡っていったのか。 それとも祝子川を行縢山の背後まで行って山脈の北側を地上を進み、日之影川を宮水まで下ったのか。 「余計なお世話」と関係各位にあしらわれそうだが、この「蛇谷の伝説」はたんなる蛇の伝説には思えない。 ■ 2008.09.05 夏が行く。 今年の夏は「ゲリラ豪雨」なるものが全国いたるところに出没して甚大な被害をもたらした。 宮崎では高千穂峡で土砂崩れがあったが人命にかかわるような災害には至らなかった。 しかし毎日変な奇妙な雨が降った。 以前なら「夕立」と簡単に済ませたものだろうが今年の雨の降り方は今までとは違った。 テレビの天気予報ではゲリラ豪雨のメカニズムの解説やそれがどこで発生しそうかなどの予報はするが、その内容に物足りなさを感じてしまう。 今年は夏特有の太平洋高気圧の張り出しが弱く、日本列島の南には低気圧があることが多かったように思う。 台風はまだ一度も上陸していないが、そんな状態のときに南から台風がきたならその進路は太平洋高気圧の縁を回るあの独特なカーブを描く進路にはなっていなかったと思う。 「ゲリラ豪雨」のニュースのたびにその原因を二酸化炭素の排出による地球の温暖化と関連付けている人はきっと多い。 発生のメカニズムの解説もいいが、それより根本的な気象的な原因について一歩踏み込んだ議論をしないといけないのではないだろうか。 天気で飯喰う人たちは地球の異状をよく知る人たち。 やがて季節は秋から冬と変わっていく。 冬の典型的な気圧配置の「西高東低」もはたしていつまでのことであろうか、などと思ってしまう。 はじめて「宮崎」に直接関係のない雑記になった。 雑記帳だから許していただきたい。 ■ 2008.09.03 尾鈴山は和歌山牧水の生まれ育った日向市東郷町坪谷からや、東の都農町からや、南の川南町からなどが一般的な姿として親しまれていますが、太古火山として壮年期だった頃は荒々しい山だったようです。現在は標高1405mで決して低い山ではありませんが、その緩やかで穏やかな稜線が描くシルエットが尾鈴山を優しいイメージに仕立て上げます。尾鈴山は過去に大規模な二回の火砕流噴火がありました。 この火砕流噴火は多量の溶結凝灰岩を北東から南東方向に向かって流出させました。 日豊海岸国定公園南部のうちの門川町から日向市美々津にかけての海岸の大部分はこのとき噴出した酸性岩体で、その酸性岩体が露出した結果、日向岬に代表される見事な柱状節理を形成しています。本日「尾鈴山」のページをアップ(新設)しました。 ■ 2008.08.30 ここ数日は「花のシリーズ」の改訂をすすめてきたが、今日は「銀鏡神楽」の改訂作業をした。新しいページの開設を中断してでも今はこれまでのコンテンツの改定をしたい思いが強い。改定作業を進めていくとこれまで使っていなかった新しい技術の習得の必用も感じて、現に新しい技術も一部取り入れながら改訂をしているのだが、一番基本的に重要なことはそれぞれの素材に対する細やかな愛情であるように思えてくる。例えば「銀鏡神楽」という国の重要民俗文化財に指定されている素材がある。銀鏡神楽をページにしようとするなら神楽のある日に現場に行って寒さに耐えながらではあるが、ある程度の写真を撮って、「銀鏡神楽」が何たるかを少し調べれば取り敢えずページを起こすこすことはできる。ところが素材に対する愛情みたいな気持ちがない場合には、後で読み返しても自分でも面白くないし、他人(訪問者)も読んでくれないし、だから他のページへの興味も湧かない。世間ではアクセスアップのための手法(SEO)が盛んに取り入れられているが、それよりも何よりも最も大事なことはページの内容であると思う。恥ずかしいことながら、改定作業を進めていくと最初のうちにできたページの中には(今では)ただの下書きのような稚拙なものと感じるものもあるが、分ってはいてもその修正のためにははじめにページを作ったとき以上に労力を要するので中々フラストレーションは解消されない。とまれ、今後も暫くコンテンツの改定を進めていく。「ローマは一日にして成らず」と言うが、全てのページそれぞれに愛情を込めて、何度もその過程を重ねていくことによってローマとまではいかないにしても、最上のSEOが完成するのではないだろうか。 ■ 2008.08.25 ランドセルを卒業して中学校に通うようになると、教科書などが入った鞄と水泳の道具が入ったナップザックをいつも左の手で持って学校を往復した。長じて気がつくと普通にしているつもりの姿勢でも左肩がいつも上がっていると指摘されるようになっていた。特に日常の生活に不便を感じたことはない。ただ成長期の2~3年の姿勢のせいで体の骨格の左右が不対象になっていることは薄々気がついていた。カメラを頻繁に扱うようになってその後遺症を突如再び自覚することになった。特に水平線が入る写真で後遺症は顕著だった。元来広々とした開放的な景色が好きで、事あるごとにそんな写真を撮りたがる。ところがその写真はいつも右肩上がりなのである。経済の右肩上がりは喜ばれるのは疑いないが、撮った写真が右肩上がりなのには吾ながらいつも落胆させられる。その癖に気がついてからは意識して左を上げて撮ろうとするのだが、パソコンに取り込んでみると相変わらず右肩上がりの写真が圧倒的に多い。一月前に「木喰と五智如来」のページをアップした。2008.08.25から日が替わろうとする23時40分頃、何気なく開いた「木喰と五智如来」を見て水平線がない写真であるにもかかわらず右肩上がりになっているのを知った。何ということだ…。ということで…さて、2008.08.25のもう一つの記事に導きたい。 「母智丘公園の桜」は明治になって地頭として赴任してきた三島通庸が植栽をはじめたもので、その後も地元の有志たちによって受け継がれ、今ではソメイヨシノ、ヤエザクラ、ヤマザクラなど合わせて2,600本の桜が見られます。春ともなれば母智丘神社の参道には見事な桜のトンネルが出現します。「母智丘の桜」の撮影の日は早朝でしたが、これ以上は空中に保つことはできないだろうと思うほどの水蒸気が厚い雲となってすぐ手の届くような上空にまで漂っていて、夜が明けても一向に明るくなりませんでした。桜の花はもうぱんぱんの満開で申し分が無い状態でしたが、そういう条件があって撮れた写真はモノトーンになりました。「母智丘の桜」はスライドショー仕立てで一度アップしましたが、今回、写真集風に変えて再アップすることにしました。「日本のさくら百選」に選定されている素晴らしい桜群です。 ■ 2008.08.12 「高千穂峡」のページを改訂しました。9万年前の阿蘇の大噴火のときに九州の約半分を覆うほどに大量に流れ出した火砕流が、五ヶ瀬町の津花峠のある枡形山にぶつかって二つに分れ、一方は三ヶ所から飯干峠の麓でまで行って止まり、もう一方は高千穂を通って五ヶ瀬川が流れる山あいを延々と流れ下りました。高千穂峡は20kmの長さがあるのですが、現在の阿蘇の中心からは約40kmにも及ぶものです。高千穂峡ができる原因となった阿蘇の大噴火のときの火砕流を想像してみることで、高千穂峡の生い立ちが少し身近に感じることができるのではないかと思います。 ■ 2008.08.11 「宮崎のローカル線」のページを改訂しました。文章を含めて大掛かりの改定作業になりました。相互リンク先の「Kai-chanの鉄道旅情写真館」様から昔懐かしい高千穂線の写真をお借りして充実した内容になりました。運行を停止したあとの高千穂線の写真は、再開に向けた活動の軌跡も含めて、後日1ページにまとめる計画です。 ■ 2008.08.10 「宮崎の観光地」のページを改訂しました。「今度の週末どこ行こうかな…」「宮崎に行ってみたいけどどんなとこがあるのかな…」のときにパラパラ雑誌をめくるような感覚のページを目指しています。 ■ 2008.08.09 「五ヶ瀬川と鮎漁」のページを改訂しました。写真の数を欲張らず、サイズも見やすくしました。末尾に「雑記帳・profile」で連載したO氏の「北川のアユカケ」を転載しました。 ■ 2008.08.08 「宮崎の郷土料理」のページを短期間に再び改訂しました。宮崎に生まれ育った私には狭いスペースをコンパクトに有効に使うというセンスが育っていないのかも知れません。料理の写真も不必要に大きく、文章の隙間も間延びするくらい広くて、美的で機能的なレイアウトからは程遠いと自省して再び改善に取り組みました。「雑記帳・profile」のページも同様の有様でしたので、一気にやり変えを敢行しました。「高千穂夜神楽」のページと「宮崎と神武天皇」のページも見やすく読みやすくしましたのでどうぞご覧ください。 ■ 2008.08.04 「祝子川渓谷」のページの背景に大崩山(おおおくえやま)の写真を大きく入れました。「祝子川渓谷」は大崩山の麓の上祝子(かみほおり)という小さな集落をとりあげた内容となっていますので、そうすることによってより「祝子川渓谷」がリアルに伝わることを願いました。同様に、「六峰街道」のページの背景に六峰街道の写真を大きく入れて臨場感を味わえるようにしました。 ■ 2008.07.31 トップページの大改装をしました。開設時に最低限の体裁を整えただけのトップページからスタートして、その後幾度かオリジナリティーを出そうと改装をしてきました。それでもなお野暮ったいデザインをシャープにするのにはスタイルシートを使うことだと本に教えられ、その最小限の機能を使ってみました。「宮崎のページ・ようこそ宮崎」にとってはこれまでにない画期的なデザイン変更となりました。 ■ 2008.07.24 木喰と五智如来をアップ 木喰(もくじき)は、江戸時代後期の仏教行者で仏像彫刻家として知られた人物である。特定の寺院や宗派に属さず、全国を遍歴して修業した遊行僧(ゆぎょうそう)の典型であり、日本全国を旅し、訪れた先に「木喰仏」(もくじきぶつ)を刻んで奉納したので日本全国におびただしい数の遺品が残る。 木喰が住職となった西都市の日向国分寺の跡地にある「木喰五智館」に安置されている五体の如来像は五智如来という。五智如来はいずれも高さ三メートルほどで、日本中の木喰の作品の中では最大のもので、木喰のこの如来像を刻んだときの気概の強さを物語る。 如来の顔の特徴はといえば、眉は太く、鼻は胡坐をかいて低くて大きく、顎のえらが張って唇は厚い。庶民のなかのどこにでもいるような人物でかつ徳が高くて穏やかな顔相の如来である。 その顔には慈愛が溢れ出ていて、何の前知識を持たずに前に立ってもその優しさを感じることができるほどである。 ■ 2008.07.21 ランナーに注意 全国でも極めて珍しい看板がある。「動物に注意」ではなく「ランナーに注意」の看板がある。看板があるのは「オリンピアロード」と呼ばれている道で、これまでにこの道を走ってトレーニングした多くのアスリートがオリンピックや世界選手権という世界のヒノキ舞台で活躍した。双子のランナーの宋兄弟や「こけちゃった」の谷口浩美、バルセロナ五輪の銀メダリスト森下広一など旭化成陸上部の選手だけでなく、出稽古に来た増田明美など、実に多くの有名選手がこのオリンピアロードを走ってトレーニングをした。このオリンピアロードは祝子川に沿って上祝子に通じている。多くのアスリート達はこの美しく険しい川沿いの道を、輝く未来を夢見て(苦しさを超えて)来る日も来る日も走ったのだろう。『祝子川渓谷』のページをアップした。 ■ 2008.07.19 モウソウキンメイチク (国の天然記念物) 藤原光政の銘の入った鏡がでてきたという池を探しに祝子川(ほおりがわ)の上流まで行った。「美人の湯」温泉まで行くと地元の一組のご夫婦が待っていてくれた。興味ある話をいくつか聞いたがその一つが、この金色に輝く「モウソウキンメイチク」だった。今にも「かぐや姫」がでてくるのではないかと思うこの竹はモウソウチクの突然変異で突如発生するという。昭和45年に全国で初めて国の天然記念物に指定を受けたが、その後は一件の追加指定があったのみで全国に2ヶ所しかない天然記念物の一つである。モウソウチクと同じで生命力が強いため栽培が容易で、近年公園などで植栽されているのを見るようになったが、天然の竹林で全国での指定第一号という価値あるモウソウキンメイチク林が、誰にもちやほやされることなくひっそりとある。そのモウソウキンメイチク林のすぐ近くに小さな渓流があった。 ご夫婦は「この渓で昨日アブラメを5匹釣った」と言った。餌を訊ねると「ソーセジ」だと答えてくれた。 ■ 2008.07.17 祝子川(上祝子) 鏡は今私達が日常使っているガラス製の鏡の以前には金属の鏡であり,その前は水をつかった鑑 (かん)があった。 かって鏡は極めて高価な品物で、人は日常的には自分の姿を何かに写して見ることはほとんどなかった。 木花開耶姫(このはなさくやひめ)の姉の磐長姫(いわながひめ)が鏡に映った自分の顔が醜いのに驚いて鏡を投げ飛ばし、銀鏡村まで届いたという伝承は、姫が初めて鏡で見る自分の顔に驚いて取り乱したということではなかろうか。 鏡に映った自分の姿を冷静に見ることができるようになったのはかなり最近のことであり、冷静に見ることができなかったから鏡に蓋を被せたり、布をかけたりする習慣がついこの前まであったと思われる。 さて、藤原光政という銘の入った鏡と天下一の銘の入った鏡が祝子川の上流(上祝子)の古い屋敷の池の底から2枚出た。 鏡は考古学的価値の高いものではないが、祝子川の上流の古い屋敷の池の底から出てきたということがとても興味深い。 ■ 2008.07.16 鰤の煮汁の煮込みうどん 二日続けて料理の記事が続くと「ようこそ宮崎」は郷土料理に特化したと誤解されるかも知れないが、長い?歴史の中ではこんなこともある。今日は「鰤の煮汁の煮込みうどん」を取り上げるが、その前に… TOPページをどんなデザインにするのかは以前から課題であって、いまだに試行錯誤の中にある。メニューリストの下に「更新の履歴」を設けているがど、訪問者には一見しにくく、更新がされていないページに見えるらしい。友人のアドバイスを容れて独創的TOPページにチャレンジすることにした。どこにもあるようなTOPページより独創的TOPページにチャレンジしてみよう。…で、「鰤の煮汁の煮込みうどん」のことになるが、実は熊本県天草地方の郷土料理で、鰤のあら煮をするときの煮汁を利用した、実に賢く節約的で、なおかつグルメな料理である。一昨日友人がチヌが釣れたと持ってきてくれたので三枚におろした残りを煮付けにした。今夜その煮汁をつかって「鰤の煮汁の煮込みうどん」ならぬ「チヌの煮汁の煮込みうどん」をつくった。鰤ではなかったが、焼酎を持つ手をしばし忘れて一気に完食した。 「宮崎の郷土料理」のページに掲載する。 ■ 2008.07.15 つきいれ餅 耳の横にチョンマゲを結んだ異様な姿のおじさんは神武天皇とかいって、その人が何だか知らないが宮崎とかかわりがあって、大人達はそれを何やら誇りにしているらしいということを、宮崎に生まれ育つものは誰でも、いつか漠然と知るときがくる。ことのほか美々津においては、神武天皇の伝承は町の基盤とも言えるもので、住民がその故事を大事にしているのが分かってくる。私の場合、神武天皇と美々津の関係に「つきいれ餅」が加わったのは、おそらくコマーシャルによるインプットによるもので、それは「おきよ祭り」や「立ち縫いの里」などよりずっと早かった。ただこのつきいれ餅はその伝承を知ってから実際に口に入るまでに相当の時間を要した。 太古の団子崩しである「つきいれ餅」は米粉と小豆を材料に使う団子としてはベーシックなものであるが、何よりの特徴は、これ以上は無いウルトラ緊急時に、通常の団子つくりの工程を、咄嗟に省略した奇想天外の調理法で団子ではなく餅を作ったことである。 一級のVIPに献上する団子であるからいつも自分達が普段に食している団子に較べてはるかに材料を惜しまず、つまり甘く美味しくできる材料を準備したに違いない。「つきいれ餅」は現代の食品衛生の防衛の嵐には抗することはできず、哀れにも真空パックでギュウギュウ詰めで売られていた。せめてつきいれ餅への配慮として、開封して皿に載せて電子レンジで加熱してパックの影響を和らげて食した。「つきいれも餅」は餡子(あんこ)に米粉を混ぜた控えめな味がした。「宮崎の郷土料理」に掲載する。 ■ 2008.07.14 都城弁 「宮崎讃歌・ようこそ宮崎のブログ」に「都城弁」というタイトルで投稿した。7月12日に一度同じタイトルで投稿して、その後の二日間、その内容が気になって少し悶々とした。今日一部に手を入れて再び投稿した。なお気になっているが、私の技量では取り敢えず良しとしよう。少年の頃に都城に暮らしたとき、都城地方の人たちが「かごんま弁」を使うのに驚いた。実は都城地方の人々が使っている言葉は諸県(もろかた)弁であってかごんま弁とは違うのであるが、地域の歴史にも疎かったから、そのときは「鹿児島が近いから」で片付けた。歴史が少し分ると「薩摩に支配された時代が長かったから」でまた簡単に片付けた。NHKの大河ドラマ「篤姫」は、鹿児島に多大な恩恵をもたらしているのかも知れない。一方、篤姫の出身の島津氏発祥の地である都城市は、「篤姫」以前から地道に島津氏の残した建築物や歴史資料を購入、整備、調査を続けてきた。その矢先にドラマで島津氏発祥の地は鹿児島出水市と放送されて一時大騒ぎになった。島津氏発祥の地は間違いなく都城市である。それを当サイトの「おかげ祭り・六月灯」と「宮崎讃歌・ようこそ宮崎のブログ」を通して伝えたいと考えた。島津氏が都城で発祥したことと、島津氏が諸県郡島津の出ではないかということも、「かごんま弁」は「みやこんじょ(都城)弁=諸県弁をルーツとしているのではないかということも(ようこそ宮崎的)推理をしてみた。 鎌倉時代初期に丹後内侍(たんごのないし)という重要人物(女性)がいた。源頼朝の乳母である比企禅尼(ひきのぜんに)の長女で鎌倉幕府の御家人、安達盛長の妻であった人物である。安達盛長は頼朝の流人時代からの側近であるが、実は妻の丹後内侍の縁で頼朝に仕えたと見られている。丹後内侍は『吉見系図』によれば、安達盛長の妻になる前は京の二条院に女房として仕えており、京で惟宗広言に嫁いで島津忠久を生み、離縁したのち関東へ下って安達盛長に嫁いだとある。また新井白石が著した『藩翰譜(はんかんふ)』によれば、「島津庄は日向守惟宗基言、その荘務を司り、その子広言・荘司となり、かつて京にありて、丹後内侍に通じ、一男を設く。忠久これなり。母の所禄をもって地頭職より守護となり、子孫世襲して島津氏を称したり」とある。吉見系図、藩翰譜とも初代島津忠久は丹後内侍と惟宗広言との間に出来た子であるとしている。源頼朝が蛭ヶ小島に流されていた間の約20年の間、乳母であった比企禅尼(ひきのぜんに)は食料や衣服を送り頼朝を支え続けた。頼朝は鎌倉に幕府を開くと、その恩に答えるため、比企禅尼の甥(後に養子)にあたる比企能員を重用する。頼朝の嫡男(2代将軍)頼家の誕生すると、能員の妻は乳母になり、能員は乳母夫となる。さらに頼家の妾が能員の娘の若狭局であり、頼家の嫡男一幡を産む。というように比企氏が鎌倉幕府の将軍の外戚ともなり、能員はさらに頼家に信任されて権勢を振るうようになった。この比企氏の台頭に危機感を持ったのが、頼家の母北条政子(尼御台)とその父時政である。政子と時政は、比企氏が北条氏に取って代わり政権を掌握することを恐れ、比企氏の排除を謀った。後に言う比企能員の変である。頼家が病により危篤に陥ったとき、北条氏は仏像の供養を口実に能員を誘い出し殺害し、その嫡男一幡も討たれてしてしまう。数日後、頼家が病から回復したが、母政子の命で頼家は将軍職を剥奪された上、伊豆修善寺へ幽閉され、実朝が将軍職を継いだ。丹後内侍は頼朝にかなり近しい女性であった事から、後年子の景盛が頼朝の子であるとする風説が出たり(『保暦間記』)、島津氏が祖の忠久が彼女と頼朝の子であると自称するなど、彼女を母とした二つの頼朝落胤説が見られるが、『吾妻鏡』をはじめとする当時の史料に丹後内侍が頼朝の子を産んだとする記録はないようである。さらに藩翰譜は、忠久が頼朝と丹後内侍(の局)の子であれば北条政子が忠久を日向、大隅、薩摩に跨る島津庄の地頭のままにしておくはないことから、忠久が頼朝の子でない証拠であるとしている。島津氏の初代忠久の父惟宗広言は一般的に惟宗忠久の父としての知名度の方が高い人物であるが、忠久との関係については通字の問題などから実子ではなく養子であるとする説が(近年では)有力のようである。島津氏の発祥の地は諸県郡島津、つまり都城であることはほぼ間違いはないが、島津氏の始祖忠久の出自については平氏であることも含めて語られていて、必ずしも特定した説があるとは言えない。平氏から源氏、源氏から北条氏と権力が激変した時代に発祥した島津氏の出自については謎が多いが、もともと諸県(もろかた)の豪族であったと考える方が正しいのかも知れない。島津という土地は、かって今の都城市の東北部にあって、諸県の一部であった。諸県にはかって牛諸君牛諸井(モロカタノキミウシモロ)という豪族がいた。絶世の美女であるとの噂を聞いて応神天皇が呼び寄せ、姫を見た皇太子(後の仁徳天皇)はその美しさに感動して、自分に賜わるよう天皇に願い出て妃にしてしまったという髪長姫(かみながひめ)の父親である人物で、古代の日向で相当の権力を有していたと見られ、西都原古墳群の男狭穂塚はこの人物の陵墓という説もある。島津荘には国富や綾は含まれていなかったが、古来より諸県は国富や綾地方を含めて広大で、大きな勢力が育つに適した土地であった。島津氏は後に九州の南端の薩摩に本拠を移していくことになるが、諸県出身だった島津氏とその家臣団は諸県弁を薩摩に持ち込んで「かごんまべん」と「みやこんじょべん」が殆ど同じものになったと考えてみたい。つまり「都城弁=諸県弁」が鹿児島弁のルーツではないかと推理する。都城地方の人々は自分達が日常使う方言を「みやこんじょべん」と呼ぶのであろうか、それとも「もろかたべん」と呼ぶのであろうか。それとも「かごんまべん」だと思っているのであろうか。諸県弁とは… 諸県弁が使われているのは宮崎県では都城市、小林市、えびの市、北諸県郡、西諸県郡、鹿児島県では曽於市の一部、志布志市の一部である。 旧日向国のうち薩摩藩であった地域とほぼ一致するが鹿児島弁とは区別されていている。小林市のうち、旧須木村では宮崎弁(豊日方言)の影響を受けている。現在は鹿児島県である旧日向国域だった曽於市や志布志市でも、「諸県弁」を話しているという意識は薄いものの実質的に話されている。また東諸県郡は宮崎弁である。 |
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