宮崎には六峰街道を舞台にした「諸塚駄賃つけ唄」という民謡があります。
ひとりこの山 淋しゅて越すが 鳴いて聞かせよ ほととぎす ホーイ ホイ
登りゃ中小屋 下れば家代 登りかけたぞ この坂を ホーイ ホイ
肥後に行こうか 延岡に越そか どちら向いても 山ばかり ホーイ ホイ
六峰街道は西から二上山(989m)、赤土岸山(1169m)、諸塚山(1342m)、真弓岳(1073m)、九左衛門峠、速日峰(868m)と六つの山を越えていく、全長57kmのスカイラインです。
五ヶ瀬町、高千穂町、日之影町、諸塚村、(旧)北郷村、(旧)北方町の6町村を連絡する林道で、東西に走る全線を通じて、その北側と南側に、九州の中央の山々の壮大なランドスケープが続きます。
高い山の峰々を通っていく六峰街道は、現代に生きる人々には理解し難い街道といえますが、昔は深い山間の広い地域の物流を支える動脈でした。
その物流の担い手が「駄賃つけ」と言われた人たちで、それは文字通り「駄賃」という言葉本来の意味の職業であって、彼らはこの六峰街道を利用してその生計をたてていました。

延岡市を流れる五ヶ瀬川の右岸を西に向かうと、六峰街道の起点にさしかかります。
五ヶ瀬川の右岸とはいっても、川からは少し距離のあるところにこの起点はありますが、ここから急激で長い約8kmの坂を、一気に駆け上がります。

坂の途中で東の方角が開けてきて、延岡市の全域や、その先の日向灘まで見渡すことができるようになります。

起点から最初の峰は速日峰(868m)です。
この速日峰は、天孫とも天孫でないとも言われる饒速日命(にぎはやひのみこと)の名前から付けられたのか?
饒速日命は初代神武天皇の祖祖父になる天津彦火瓊瓊杵(あまつひこほのににぎ)尊と同じように天磐船(あめのいわふね)に乗って天降ってきます。
天津彦火瓊瓊杵尊は日向の高千穂へ、饒速日命は河内国(大阪府)降り立って、その後大和へ移ったといわれています。
饒速日命は物部氏の始祖とされる人物(神)で、また天津彦火瓊瓊杵の兄という説もあるのですが、大和一帯に勢力を張っていた長髄彦(ながすねひこ)を服従させて、大和地方の統治権を掌握しました。
その後、神武天皇が日向国より大和へ進軍して、それが天照大神の子孫であることを知ると、饒速日命は神武天皇に抵抗した長髄彦を切って帰順したといいいます。
この速日の峰にはETOランドがあります。

これはETOランドから見ることのできる山々ですが、比叡山(918m)、矢筈岳(736m)の向こうに見えるのは九州本土における最高峰クラスの祖母山(1756m)です。
少し左に視線を向ければ諸塚山(1342m)が見えます。

民謡「諸塚駄賃つけ唄」の歌詞にある「中小屋」は旧6町村からの道が集まるところで、駄賃つけが荷物を馬に積み替えたり、一服したりする場所でした。
中小屋にはそのなごりの民家が何軒かあり、その近くに「中小屋天文台『昴』ドーム」があります。

中小屋から南の方角の景色です。
一番高い山は尾鈴山でしょうか。

起点から30kmほど走ると、行縢山脈で遮られている背後の山々が見えてきます。
矢筈岳(736m)、釣鐘山(1396m)、日隠山(1544m)、五葉岳(1570m)そして傾山(1602m)のラインナップでしょうか、雄大な眺めです。

同じ地点で阿蘇山も姿を現します。

起点から約41kmの地点でアケボノツツジをはじめて発見しました。
ここは諸塚神社元宮の手前4kmのところで、六峰街道のアケボノツツジはこの辺りから西の方面に多く見られるようになります。

諸塚山の中腹の写真です。
青い葉が繁る松と、枯木と、真っ青な空のコントラストがとても綺麗でした。

起点から約45kmで諸塚山登山口に到達します。
アケボノツツジの名所と書かれた看板のある駐車場があり、そこから登りはじめると、アケボノツツジの大木の隙間から、さらに大きくなった阿蘇山を見ることができます。
約1時間で登りつく頂上からは、はるか日向灘が望めます。
諸塚山の縁起について、現地の案内板には次のように書かれています。
諸塚山は諸冊二尊(イザナギノミコト・イザナミノミコト)の御神陵であるという古い言い伝えを残し、山頂付近には多くの塚があります。
古くから英彦山系・阿蘇山系の修験場として知られるとともに、近郷の人々から紙の山として崇拝されてきました。
八合目の南西には諸冊二尊他の神々を祀る諸塚神社元宮があり、昔は山頂をはさんで東西に神前と呼ばれる遥拝所もありました。
諸塚山にはいくつかの別称があります。
諸塚山 : 山頂付近にいくつかの塚があることから生まれたものと言われています。文献によれば、江戸時代の弘化二年(1845年)にはこう呼ばれていたようです。
大白山 : 冬に山頂がまっ白におおわれることから呼ばれたという説と、高千穂町の方から諸塚村の山頂付近に輝く宵の明星(金星)によるという説があります。
太伯山 : 一説に日本の皇室の祖が呉(中国)太伯であるとされ、諸塚山はその太伯を祀ったことからその名がついたといわれています。
諸羽の山 : 諸塚の神楽歌にこの名が見られます。「剣立つ諸羽の山にわけ登る。あじろが浜に立つは白波」

諸塚山を過ぎると二上山の手前の「杉の越」にさしかかります。
そして間もなく六峰街道の最終の峰、天孫降臨伝説の地、二上山(ふたかみやま)につきます。
二上山男嶽にある三ヶ所神社奥宮の鳥居をくぐると、杉の越が戦国時代に大分、熊本、宮崎各県の交通の要路であったことを説明する合成樹脂板の簡単な立て札があります。
標高1000メートルに近いこの二上山の辺りが交通の要路であったと書いてあります。
日向の風土記に曰く、臼杵の郡の内、智鋪(高千穂)の里。
天津彦火瓊瓊杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて威稜の道別きに道別きて、日向の高千穂の二上山の峰に天降りましき。
天皇家の先祖が降臨した土地としての日向の高千穂の地名が、天武天皇が自ら稗田阿礼に古い伝承を語って編纂された古事記の場合においても、またそのすぐ後の日本書紀の場合においても、さらに日向風土記逸聞や、その他の文献にまでも書かれている事実は、天皇家やそれを支えてきた諸豪族に、それが国土の最果ての地であって、天皇家にとっては何の利益にも自慢にもならない日向の高千穂を、出雲や大和に(書き)換えることはとても出来ない、動かし難い伝承があったことに起因していると言えます。
天孫降臨以前の高天原についての伝承の地も多くかかえる高千穂ですが、伝承地によっては前記速日の峰と同様の自制も必要であるというスタンスに立ち、しかしながら、高天原は高千穂であることの最有力候補地として、天津彦火瓊瓊杵尊はこの二上山に天孫降臨ではなく天孫昇臨したという仮説に拘ってみたらどうでしょうか。
二上山は高千穂町市街地の南西約5キロにあります。
二上の峯に昇った天津彦火瓊瓊杵尊は、後に六峰街道と呼ばれるようになった山道を東の海の方に向かいました。
峰々を超えて最後に辿りつく峰が速日の峰で、そこから20キロ弱のところに延岡の平野に浮かぶような愛宕山が見えて、その先は日向灘になります。
速日の峰に着いた天津彦火瓊瓊杵尊は美しく輝く日向灘を眺め、「あの岬まで行けばさらに良く海が見えるであろう」などと言ったのでしょうか。
愛宕山は古くは笠沙(かささ)山と呼ばれていました。
愛宕山が愛宕山と呼ばれるようになったのは戦国時代末期に高橋元種が城山に延岡に城を築いたときで、それまで城山にあった愛宕神社を笠沙山に移したことによります。
笠沙は記紀の「吾田(あがた)の長屋の笠沙崎に…」の笠沙で、笠沙は後に訛って愛宕山の南の麓の地名「片田」になったとの地元の説があります。
また現在、愛宕山の北には安賀多(あがた)の地名がありますが、延岡地方は「延岡」と呼ばれるようになる今から約300年前より昔はずっと「縣(あがた)」と呼ばれた土地でありました。
つまり現在地名として残っている安賀多(あがた)は縣(あがた)にさかのぼり、さらに古代には吾田(あがた)と呼ばれていた土地なのです。
今のところ、笠沙の岬については鹿児島県南さつま市の野間岬説が有力のようですが、天津彦火瓊瓊杵尊の埋葬地について、薩摩(鹿児島県)の力が強かった明治初期の一時期は、鹿児島県薩摩川内市の新田神社が可愛山陵であると治定されたのを、後に明治政府は学者や宮内庁の調査をもとに(明治29年に)延岡市北川町の可愛岳(えのだけ)山麓の古墳を「可愛山陵伝承地」と定め直した経緯があります。
天津彦火瓊瓊杵尊の一行は吾田の長屋の笠狭崎(愛宕山)に着きました。
そこには事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)という神がいました。
天津彦火瓊瓊杵尊が、「ここに国があるのか」と聞くと、「あります。どうぞお住まい下さい」というので天津彦火瓊瓊杵尊は宮を建ててこの地に住みました。
あるとき天津彦火瓊瓊杵尊は浜辺で一人の美しい娘を見かけて声をかけました。 「あなたは誰の娘ですか」 「私は大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で、名を木花開耶姫(このはなさくやひめ)と申します」 「あなたを妃として迎えたいのだが私のところへ来てくれませんか」 「そのことはどうか私の父にお尋ね下さい」
瓊瓊杵尊は、さっそく大山祇神に会いに行きました。 「私はあなたの娘を妃にしたいのだがお許し頂けませんか」 「この国はすべてあなたの国ですのであなたの思うようになさって下さい。」

延岡市の愛宕山の展望所にある「笠沙御碕之碑」

二上山から阿蘇山までは直線で約25km。
阿蘇を含めた古代の高千穂地方のロマンに惹き付けられる光景です。
後記
日本書紀などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(現在の大阪府)に天下ったとされる饒速日命(にぎはやひのみこと)が、河内国から遠く距離を隔てた日向の国の速日の峰に降臨したという伝承は唐突だと決め付けましたが、はたしてそれでいいのだろうかという疑問がわいてきました。
饒速日命は天照大神から十種の神宝を授かって高天原を出発したのです。
ここでもう一度、伝承地によっては自制も必要であるというスタンスに立ち、しかしながら、高千穂が高天原であるとすれば、天津彦火瓊瓊杵尊は(平地の高千穂から)二上山に天孫昇臨して、饒速日命が速日の峰から(平地に)降臨してもいいのかもしれません。
素盞嗚尊(すさのうのみこと)は姉の天照大神に会いに来るのには、どこを通ってきたのでしょうか。そして、追放されて高天原を出て行くときはどこを通って行ったのでしょうか。
また、大国主命のもとに国を譲るようにと天照大神が出した使いの神々は、どこを通って出雲に向かったのでしょうか。
日向の国から大和地方に向けての海路は神武と同じルートで行ったのかもしれません。
その場合には、美々津からの出航ではなく、吾田(延岡)からだったのかもしれません。
その場合でも、高千穂から吾田(延岡)までは六峰街道ではなかったのでしょうか。
天津彦火瓊瓊杵尊の兄だという説もある饒速日命は、二上山に登って六峰街道を東に向かい、天津彦火瓊瓊杵尊と同じように速日の峰から平地に下りていったのです。
天津彦火瓊瓊杵尊は初代神武天皇の祖祖父ですから「天孫降臨」となり、同じく天孫である饒速日命は、後に天皇家の家臣である物部氏の祖になったことから「河内国への降臨」となったのでしょう。
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