おかげ祭り・六月灯

 
   おかげ祭り・六月灯  
3百年昔の(旧暦)六月、薩摩藩主島津光久が上山寺新照院に観音堂を建立して、そのときに供養のためにたくさんの灯籠を奉納した。

それを見た家臣や領民たちは、藩主にならって各地の神社や観音堂に灯籠を奉納したことが始まりといわれる六月灯(ろっがっどー)。後に、六月灯は夏場の病気や農作物の災厄を払う祈りを捧げる祭りに変じて庶民の間に定着した。

鹿児島から都城にかけての旧薩摩領内では、約一月の間、どこそこの鎮守の森や観音堂では「六月灯」の灯篭が奉納される。

都城市内においても毎晩のように花火が打ち上げられて、「今日はどこの六月灯(ろっがつどー)?」と空を見上げる。

おかげ祭りは神柱宮(都城市)の六月灯に合わせて催されるお祭りである。
毎年7月8日の宵祭りと9日の本祭りの2日間の日程で斉行される。

 
 
 


















 
 














 
 
  神柱神社(かんばしら)は、天照皇大神と豊受姫大神を主祭神とし、五柱の神を相殿に祀る。
島津荘の開拓のために大宰府より移住した平季基が、万寿3年(1026年)、天照大神の神託を受けて伊勢神宮より勧請したのに始まると伝えられる。
以来、神柱神社は島津荘総鎮守として崇敬されてきた。


太宰大監の平季基は、万寿年間(1024~27)に日向国諸県郡(もろかたぐん)の島津の地に来て、荒野を切り拓き、時の関白に進上した。
これが島津荘の始まりで、季基はその後三俣院を領し、神柱神社を創建した。
そして、三俣院、島津院、北郷、中郷、南中郷などを領する勢力となった。
季基のあとを継いだ兼貞は肝付郡の殆どを領有し、また島津荘の荘司として勢力を振った。

やがて、平氏を滅ぼした源頼朝が鎌倉幕府を開くと、諸国の武士たちは頼朝に自己の所領の安堵を求めた。
頼朝はこれら武士たちの嘆願を受け入れ、代わりにかれらを御家人として奉公させる義務を負わせた。
一方、平氏やそれに従っていた者らの領地を没収し、平氏討伐に功のあった武士たちに没収した土地を恩賞として与えた。

島津家の発祥の地につてNHKの大河ドラマで鹿児島県出水市と放映した。
これに対して、もともと「島津家発祥の地」を観光スポットにするために熱心に活動を続けていた都城市が異議を唱えた。

都城市では大河ドラマが始まるずっと前から、島津発祥の地としての売り出しのための足固めを進めてきた。
市内の島津家私邸を歴史観光施設として整備する目的で約6億円で買い取っていた。
島津家に伝わる1万点に及ぶ武具や甲冑、古文書などの史料は重要文化財として登録を申請中である。

都城市によると、島津家発祥の由来は、源頼朝と側室、丹後局(たんごのつぼね)の子、惟宗忠久(これむねただひさ)が鎌倉から「島津庄」(現在の都城市)に役人として派遣され、地名にちなんで島津と名乗ったのが始まりで、この忠久が島津家の初代となったという。

都城市が都城島津家第28代の久厚氏から買い取ったのは、市内早鈴町にある敷地と建物、土蔵、石倉、門に家臣を祀った社、幕末の剣道場まで、名家の往時をしのばせる歴史ファン垂涎の宝の山だ。

「都城市としては史実に基づいてこれまで島津家発祥の地として積み重ねてきたものを冒涜(ぼうとく)されたようなもの。(大河ドラマのたった)1回の放送で全国に(都城市が資料の開示に向けて作業を進めている歴史証拠が)“偽(にせ)”だという印象を与えかねない」と、NHKには、歴史事実への正しい理解を求め、都城を島津家発祥の地として紹介して欲しいと求めた。


神柱神社は明治6年(1873年)に現在地に遷座し、県社に列した。
周辺は神柱公園として整備された。
旧鎮座地は市内梅北町で、その跡には黒尾神社が遷座している。

神柱宮に併設されている神柱公園には日本一と言われる鳥居があり、以前はヤンキー達の溜まり場だった。
いつしか夜間の進入が禁止されて今ではもとの静けさにもどった。
池に貸しボートがあって、恋人たちのデートスポットでもあったが、今はそれもなく、神社の隣の整備の行き届いた美しい公園になっている。

平季基(たいらのすえもと)は神柱神社本殿の東側の基柱(もとばしら)神社に菅原道真とともに大切に祀られている。


   
 
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