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神話

宮崎と神話

宮崎と神話

「宮崎と神話」のはじめに



日向神話には天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫の瓊々杵尊(ににぎのみこと)が高千穂に降臨することに始まって、海幸、山幸で有名な彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)から鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と続くいわゆる日向三代と、日向四代目で初代の天皇となる神武天皇の物語があります。

(こういう言い方はされませんが)日向四代については、記紀に書かれている、また書かれていない伝承と伝承の地が宮崎各地に多くある神社を中心に沢山あります。

また、日向四代以前の天照大神を中心にした高天原(たかまがはら)の神々の神話や、天照大神の父の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)に関する伝承の地も多くあり、興味がつきません。

「ようこそ宮崎」においては、「裸まいり」、「鵜戸神宮」、「神武天皇と宮崎」、「六峰街道」、「南方古墳群」、「雑記帳・profile」、「五ヶ瀬川と鮎漁」やその他の各ページ、または、「宮崎讃歌・ようこそ宮崎のブログ」において、日向神話や関連する伝承を分担しています。





日向国が記紀にはじめて登場するのは伊邪那岐命と伊邪那美命の物語のエンディングからです。
自ら産んだ火の神の火が燃え移って焼死した妻の伊邪那美命を追ってヨモツクニ(黄泉国)へ行き、妻の変わり果てた姿に驚いて逃げ帰り、日本の歴史上はじめて禊(みそぎ)したのが江田神社がある阿波岐原といわれる所です。

「掛けまくも畏き 
伊邪那岐大神 筑紫の日向の 橘小戸の阿波岐原に 御禊祓へ給ひし時に 生り坐せる 祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪穢有らむをば 祓え給ひ清め給えと 白す事を 聞こし食せと 恐み恐みも白す」

耳に馴染みの全国共通のこの神式のお祓いの祝詞は(のりと)は、この阿波岐原が舞台なのです。




          御池(みそぎがいけ):宮崎市阿
波岐原産母128 「市民の森」の東端



伊邪那岐命、伊邪那美命から天照大神の誕生まで


遠い昔、世界にはまだ天も地もなく、ただ、何かが混沌と渦巻くカオスの状態でした。
時が経つと、次第に軽い部分が天になり、重い部分が地になっていきました。
この天地の中心に最初の神、アメノミナカノヌシノカミが現れて、次にものを生み出す神、タカミムスビノカミとカミムスビノカミが現れます。
大地はまだ固まらず、水に浮いて漂っていましたが、そんな泥海の中からウマシアシカビヒコジノカミが生まれ、そして、天を支える柱として、アメノトコタチノカミが生まれました。

この五神、コトアマツカミ(別天神)は、天と地の仕組みそのものであって、男女の別も、実態もない神です。
こうして天地が創造されると、この天地において夫々の役割を分担するいくつかの男女のカップルの神々が現れます。
これらの神は夫婦となって次の神々を生んでいくのです。

そしてその最後に
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)が生まれます。



コトアマツカミは伊邪那岐命と伊邪那美命に国土を作るように命じます。
伊邪那岐命と伊邪那美命は降りる陸地を作るために、「天の沼矛」(アメノヌボコ)を挿し入れて掻き混ぜます。
すると、落ちた滴が固まって小さなオノゴロ島ができました。
このときまだ伊邪那岐命と伊邪那美命に男女の役割の区別はない状態でしたが、あるときお互いの体の特徴に気がつきます。

でも地上にはこの若い二神しかいないのでどうすればいいか分かりません。
そのとき二羽のセキレイが飛んできてヒントを与えました。

伊邪那美命は沢山の子を産みます。
あるとき「火」を司る神、ホノカグツチノカミを産むのですが、自分が産んだホノカグツチノカミにより大火傷を負い、亡くなるのです。

伊邪那岐命は伊邪那美命を追って黄泉に行き、帰ってくるように説得しますが、結果、夫婦喧嘩の末(日本で初めての)離婚をして戻ってきます。

地上に戻った伊邪那岐命は
阿波岐原で水浴びをして体を清めます。

ここで伊邪那岐命は最後に顔を洗うのですが、このとき左目から
天照大神(あまてらすおおみかみ)、右目から月読命(つくよみのみこと)、鼻から須佐之男命(すさのおのみこと)が産まれました。



     御池(みそぎがいけ)のすぐ近くにあって伊邪那岐命、伊邪那美命を祀る江田神社


江田神社は里俗名称を産母(やぼ)神社といい、伊邪那岐命、伊邪那美命の二神を祀る延喜式神名帳の日向式内四座の一で由緒の最も古い神社です。

日向で「延喜式」に出てくる神社は江田神社のほかは、都萬(つま)神社、都農神社、霧島神社がありますが、江田神社を除く他の三社は現在も多くの参拝者を集める大きな神社です。

伊邪那岐命がミソギをした場所は、古事記では【筑紫(つくし)の日向の橘の小戸の阿波岐原(あわきがはら)、日本書紀では【筑紫の日向の橘の小戸の檍原となっています。

記紀のいずれも天孫降臨の地を日向の高千穂としか書けなかったのと同様に、伊邪那岐命がミソギをした場所は日向の日向の橘の小戸の「あわきがはら」若しくは「あおきがはら」を書くしかなかったのでしょう。

橘の小戸」については、伊邪那岐命のミソギから遥か年月を下って、伊邪那岐命の子孫の山幸彦(ヒコホホデミノミコト)とシオツツジノオジに出会い、そしてワタツミの神の所へ向かった場所としても登場します。

ミソギ、天照大神などの三貴子の誕生、天孫降臨、山幸彦の出発の地などが日向の特定の地域とされている事実はとても興味あることだといえます。

江田神社の近くからは昔から遺物が出土されていましたが1959(昭和34)年にその発掘調査が行われました。

そこ(檍遺跡)からは土器や甕棺(かめかん)などが出土して、弥生中期から後期に多い宮崎県の遺跡の中では突出して古い弥生時代前期半ばのものであることが分りました。

その事実はこの地が日向で最も古い稲作の地だあったことになり、とりもなおさず稲作農耕民族である天孫降臨一族との関係についても繋がりをもってきます。

天照大神がこの地(阿波岐原)で誕生したという記述についての漠然とした疑問については、国学者本居宣長が調査不十分で著した「古事記伝」で「日向の国に見当たらない」とした「橘の小戸の阿波岐原の」にあるこの江田神社にこそ、その疑問を解き明かす何かがあったはずなのです。

ところが1662(寛文2)年に日向灘でおきた地震(トントコロ地震)が引き起こした津波によって江田神社は大きな損害を受けました。

加えて本居宣長によって否定された「橘の小戸の阿波岐原の」によって結果江田神社もその権威を貶められ、
現在のような在り様であると思われるのです。




高天原  天の岩戸の物語


須佐之男命は母の伊邪那美命に会いたくてあの世に行きたいと考えましたが、その前に姉の天照大神に会うために高天原に昇ります。
須佐之男命が高天原に近づくと天地が激しく動き、震え、凄まじいばかりとなります。
天照大神はその様をみてとても驚いて、自ら武器を持って須佐之男命を向かえ討つ支度をします。

須佐之男命は誤解を解くために姉に会いにきた訳を話し、身の潔白の証として子作りを提案します。
天照大神は須佐之男命の提案を受けて、自分の勾玉を須佐之男命に預けて弟の剣を口に含みます。
須佐之男命も姉の天照大神の勾玉を口に含みます。
そして噛んで噴出すと、須佐之男命の言った通りに子供が産まれました。

こうして須佐之男命は姉に許され、高天原に迎え入れられるのですが、姉に会いにきた目的の、母の伊邪那美命に会いに行くことは忘れ去り、いつか凶暴になっていくのです。

天照大神は始めのうちは大目に見ているのですが、あるとき、須佐之男命は皮を剥いだ馬を天照大神の屋敷の上に投げ落とします。
とうとう天照大神は怒り、天の岩戸に隠れます。
世界は暗黒に包まれて太陽が姿を見せなくなります。
困った八百万(やおよろず)の神々は天の安川原に集まって対策会議を開きました。



                           天の安川原


オモイカネの提案により、様々な儀式を行いました。
そしてあれこれ番組を消化したあと、メインイベントに天宇受売命(あめのうずめのみこと)が登場してコミカルでセクシーな踊りを踊りました。
この踊りに八百万の神々は大いに喜んで大喝采でした。
あまりの賑やかで楽しそうな外の様子に、自分がいなくて暗く寂しいはずの高天原が、他の尊い神様が現れて皆が幸せにしているのかと不安になり、岩戸を少し開きます。
そこで素早く天宇受売命は鏡を天照大神に見せますと、天照大神はそれが自分の姿とは思わず、他の尊い神様かと勘違いをして、もっとよく見ようと身を乗り出した瞬間に天手力男命(たじからおのみこと)が渾身の力を振り絞り岩戸を開けて、天照大神を引き出すことに成功しました。

高千穂町の天の岩戸神社東本宮は、天照大御神を祭神とし、天の岩屋戸と伝承するところを神霊の遺跡として祭っています。

また、西本宮はその遥拝(ようはい)所です。
すぐ近くには、八百万(やおよろず)の神々が天岩戸に隠れた天照大神問題の対策会議を開いたという天の安川原(あまのやすかわはら)があります。



                           岩戸神社西本宮



この流れの先の左側の斜面に天岩戸がありますが、神域になっていて誰も近づくことはできません。





天孫降臨


天照大御神と高木神(たかぎのかみ=タカミムスビ)は、天照大御神と須佐之男命の間の誓約でできた5皇子の中の長男である天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、葦原中国平定が終わったので、天降って葦原中国を治めなさい」と言いました。

すると天忍穂耳尊は、「天降りの準備をしている間に、私に瓊々杵尊(ににぎのみこと)が生まれたので、この子を降すべきでしょう」と答えました。
瓊々杵尊は高木神の娘の万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめ)との間にできた子でした。
それで天照大御神と高木神は、瓊々杵尊に葦原中国の統治を委任し、天降りを命じたのです。


瓊々杵尊が天降りをしようとすると、天の八衢(やちまた)に、高天原から葦原中国までを照らす神がいたので、天照大御神と高木神は天宇受売命に、その神の元へ行って誰であるか正体を調べてくるように命じたのでした。
調べた結果、その神は国津神(地に現れた神々の総称)のサルタヒコで、そのサルタヒコは、天津神(高天原にいる、または高天原から天降った神の総称)の御子が天降りすると聞いて先導をしようと迎えに来たと言うのでした。


いよいよ瓊々杵尊はアメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマノオヤの五伴緒(いつとものお)を従えて、天降りをすることになりました。
さらに、三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、草薙剣)と常世のオモイカネ、タヂカラオ、アメノイワトワケを副え、「この鏡を私(アマテラス)の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。
オモイカネは、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言いました。

瓊々杵尊は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、日向国の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りました。



          日向風土記逸聞に書かれた高千穂(町)の二上山


瓊々杵尊は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真っ直ぐに道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにしました。

瓊々杵尊は笠沙の岬で美しい娘に逢いいました。娘は大山祇神(おおやまつみのかみ)の子で名を木花開耶姫(このはなさくやひめ)といいました。

瓊々杵尊が求婚すると父に訊くようにと言われたので、父である大山祇神に尋ねると大変喜んで、姉の磐長姫(いわながひめ)とともに二人の娘を差し出したのです。
しかし、磐長姫はとても醜かったので、瓊々杵尊は磐長姫を送り返し、木花開耶姫だけと結婚しました。

大山祇神は「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、磐長姫を妻にすれば天津神の御子(瓊々杵尊)の命は岩のように永遠のものとなり、木花開耶姫を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約(うけひ)をしたからである。
木花開耶姫だけと結婚したので、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と言いました。それで、現在でも天皇の寿命は長くないというのです。

木花開耶姫はたった一夜を共にしただけで身篭りました。
それを聞いた瓊々杵尊は、「たった一夜で身篭る筈はない。それは国津神の子だろう」と言ったのでした。
木花開耶姫は、「この子がもし疑われているように国津神の子なら、産む時に私は無事ではないでしょう。でも確かに天津神の子なら、無事でしょう」と誓約をし、戸のない御殿を建ててその中に入り、産む時になって御殿に火をつけました。

天津神の子であったので、木花開耶姫は無事に三柱の子を産み終えました。
火が盛んに燃えている時に生んだ子をホデリ(海幸彦)、火が弱くなった時の子をホスセリ、火が消えた時の子をホオリ(山幸彦)といいました。











古代に吾田と呼ばれていた延岡市の、かって笠沙(かささ)山と呼ばれていた愛宕山の「笠沙御碕之碑」です。



可愛岳(えのだけ)には瓊々杵尊のもとだと言われる陵墓があるが、山そのものが陵墓だともいいます。



祝子川(ほおりがわ)は、ホオリが生まれた時に産湯として使った川と伝えられ、ホオリが田の神であることから流域には雀が生息していないのだという伝承もあります。



神武天皇の兄の五瀬命(いつせみのみこと)の名前からつけられたと思われる五ヶ瀬川です。
この上流に高千穂(町)があります。





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