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師走まつり |
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古代の朝鮮半島南西部にあった百済(346年 - 660年)と日本(倭国)は密接な関係がありました。『日本書紀』の中には、領土を奪われた百済に任那(みまな)の一部を割譲した記録や援軍を供出した記録、さらには百済から倭朝廷に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く残っています。 660年の百済の滅亡により、百済王と王族・貴族を含む数千の百済人が倭国に亡命し、また王族・貴族をはじめ技能を持った民も多く登用されて朝廷に仕えました。 ●貞嘉王と福智王 「神門神社縁起」によれば、百済の貞嘉王はその子福智王に譲位して三年目にあたる年に国内に大乱がおき、その難を逃れて福智王とともに日本へわたり、756(天平勝宝8)年に安芸国の厳島あたりにつきました。 しばらくの間そこに滞在しましたが、朝鮮半島からの反乱軍の追撃を警戒して、その2年の後に筑紫(九州)にむけて再び船を出しました。しかし天候が急に荒れて風波が激しくなって、船は日向国の臼杵郡金ケ浜(現在の日向市)に漂着しました。 金ケ浜に上陸して、宮居の地をどこに定めたらいいかを占ったところ、そこから西に山奥7〜8里の神門(みかど)がよいと出たのでそこを宮居を定めることにしました。 |
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いっぽう福智王の船は児湯郡蚊口浦(現在の高鍋町)に漂着しました。そこで球をなげて宮居の地を占ったところ、球は18里先の火弃(現在の児湯郡木城町比木)の地まで飛んでそこにとまったので、王は火弃(ひき)に宮居をさだめました。 親子がそれぞれに宮居を構えて住むようになってしばらくは平和の日々が続きましたが、朝鮮半島からついに追討の軍がやってきて、貞嘉王の軍は神門近くの伊佐賀坂でこれを迎撃し、福智王もまた兵をひきいて戦いました。 そしてようやく撃退することができましたが、貞嘉王はこのときに戦死をして、その霊をこの地の産土神(うぶすながみ)としての神門大明神としてまつることにしました。 福智王もその後火弃(比木)で歿し、火弃大明神としてまつられることになりました。 |
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●師走まつり 師走まつりが行われる神門神社はかって貞嘉王が日本へ渡来のおりに持ってきたという(神門神社縁起の)壺をいまも宝物としてつたえています。 現在もなお旧暦12月(師走)18日の神門神社の例祭には、福智王をまつる火弃神社(現在の比木神社)から貞嘉王をまつる神門神社までの約90キロに及ぶ遠路を神官や氏子などに守られた御神幸が続いています。 かっては比木神社出発から神門神社までの御神幸に5日を要し、貞嘉王が上陸した日向市の金ケ浜では禊や神楽奉納をはじめ、貞嘉王ゆかりの地でかずかずの神事を行いながら、18日に神門神社に到着していました。 貞嘉王、福智王の親子がそろっての祭りは神門の地で三日間にわたり、厳かに賑やかにおこなわれていました。 この「師走まつり」は氏子総代にあたる当元とよぶ人がえらばれ、祭り全体をすべてとりしきる仕来りになっていますが、当元にえらばれた人は精魂こめてこの神事にあたります。 |
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●神門神社の宝物 神門神社の境内の宝物庫には縁起のなかにある百済伝来の壺という須恵器の甕のほか、長さ81.6センチ幅34.8センチのスギの一枚板にえががれた応永8(1401)年の墨書銘のある県内最古の板絵着色観音菩薩御正体一面(県文化)、海獣葡萄鏡など三三面の伝世鏡(代々にわたって権力者などに伝わってきた鏡で、古墳などから発掘されたものではなく、この場合は古くから神社などで代々保存されている鏡)などを所蔵しています。 伝世鏡については、33面中17面が奈良時代の唐式鏡で、その中には東大寺大仏殿下出工鏡-正倉院伝世鏡-岡山県笠岡市大飛島出土鏡と同文様、千葉県香取神社客伝来鏡-三重県鳥羽市八代神社伝世鏡-その他各地の11面と同文様鏡の伯牙弾琴鏡など7種13面が日本各地の寺社伝世鏡や出土鏡と同文様で、その関連地は全国25ヶ所に及ぶといいます。 とくに三重県八代神社とは4種7面、千葉県香取神社とは2種4面の同文様鏡を有していて、これらとの間には他に類例をみない特殊密接な関係をもっています。 このような日本有数の伝世鏡が何故日向国の山奥の神門神社に保有されるようになったのか。 それは百済の王の伝説との関わりを除いては考えにくいのですが、その理由は明らかではありません。 |
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東臼杵郡美郷町南郷区の師走まつりは、百済亡命王族の親子対面を再現する祭りでその伝説を裏付けるものです。 親子対面の儀は旧暦12月18日から同20日にあたる日程で木城町比木神社の一行が袋神を奉じて神門神社まで巡行し行われるものであり、古くは10日の間行われていました。 その巡行の過程では様々な儀式が織りこまれていますが、中でも夜空を焦がすかがり火の儀式は古代史の謎とロマンを彷彿させる壮大なものです。 神門神社に向う「のぼりまし」では沿道に待ち受ける人々が袋神のふくらみ方や色あいによって年占いをなしたほか収穫物を袋神巡行の路上に姿を表さないでそっと差し出したり、地区あげてかがり火をたいて迎えるなど種々の習慣が今に伝わっています。 また、一行が帰路につく「くだりまし」の際にはヘグロ(墨)を顔に塗り竹で編んだショウケやシャモジなどを振って送る習わしも見られるなど、地域住民の素朴な信仰形態、季節の折り目になされる地域的特色ある行事の典型例です。 尚、この師走まつりは平成3年1月25日に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民族文化財」に選択されました。 ●百済王の泣き甕 東郷町の山陰(やまげ)の小野田地区の山陰神社には須恵器の甕が社宝として保存されている通称「百済王の泣き甕といわれるものがあります。 金ケ浜から神門に向かう貞嘉王は東郷町の山陰まできたときに、幼い王子を連れて行くこともできなくなって、持ってきた甕に王子を入れて神に託して置いていきました。 すぐ後の戦において貞嘉王は戦死し、比木から援軍にきた兄の福智王は激戦を戦って引き揚げていきましたが、山陰の弟王子のことは忘れてしまうほどに疲弊していました。 そのとき以来山陰に置いていった甕の中からは「帰りたい帰りたい」という幼い王子の泣き声が響くようになったということです。 比木大明神が神門大明神にあう師走まつりでの、山陰神社を通る行きでは神楽を奉納して、帰りには黙って通り過ぎる慣わしは、甕の中の王子が泣いて呼びかけるためだからだといいます。 そのためか、この地では行くときに賑やかで帰りに静かであることを「神門神さん」と言っています。 ●百済王に関する神門付近の地名の由来など 東郷町の「御児」は貞嘉王の一行の子が産まれたところで、「児洗」はその子の産湯を使ったところと言われています。 重臣の歯が痛くなった坂を「歯がみ坂」、髪を櫛で整えたところを「くしげ」と言います。 又江野の「城ん坂」は弓を射たところで、放たれた矢が遠くの草原に逆さに突き刺さったのでそこを「矢逆」と呼ぶようになって、後に「羽坂」に転じました。 神門神社の上の山に貞嘉王を助けた益見太郎の墓があり、「どん太郎さん」と親しわれていましたが、王の軍が苦戦していたときに猪肉を贈って王を援助しましたという逸話がのこっています。 伊佐賀峠の戦いでの戦死者は多数にのぼり、山は血で塗られ、ここの山の土は今も赤いといいます。 |
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