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祖母傾国定公園

祖母傾国定公園

祖母傾国定公園


祖母傾国定公園は宮崎県の北部から大分県境にかけての山岳地帯及び河川流域を包囲した国定公園で、1965年に指定されました。
祖母傾国定公園の名前は祖母山(1,756m)と傾山(1,602m)からついたものですが、他に大崩山(1,643m)などの美しい山々を含んでいます。
祖母傾国定公園内には、高千穂峡や、大分県側の藤河内渓谷などの優れた景勝地があり、また、モミやツガなどの原生林が広がっていて、野生動物の宝庫としても知られています。



                                       祖母山                傾山

写真は六峰街道の西の果てにある二上山からの祖母連山の眺めです。
祖母山は、宮崎県の最高峰で日本百名山の一つであり、祖母山を主峰とする祖母連山は熊本県、大分県、宮崎県と3県にまたがっています。

火山活動によってできた山であるため巨大な岩石が随所に見られ、登山ルートは整備されていてハイキング感覚で楽しめる手軽なコースから、ロッククライミングなどの上級者向けのコースまでありますが、頂上付近はどのコースを辿っても急な岩登りコースになります。

1回目の火山活動は約1300万年前、火砕流を伴う火山活動が始まり祖母カルデラと傾カルデラを形成しました。
この時出来た2つのカルデラは2回目の火山活動により埋め尽くされ、現在カルデラを目視することは出来ません。


約1000万年前に火山活動は終了し、その後の侵食作用により準平原になった後、300万年前に隆起、阿蘇山系の大規模な活動による火砕流の影響を受けて現在の祖母山の姿となりました。

ブナ、ツガなどの原生林に覆われており、低地は照葉樹林帯、中腹は針葉樹林帯、山頂付近はスズ竹、ブナ帯が見られます。
また、ウバタケニンジンは祖母山系と四国の一部にしか見られない非常に貴重な植物です。

特別天然記念物のニホンカモシカの生息南限地帯とされていて、近年目撃されたという報告はないものの、ツキノワグマも生息しているとされていています。



                 矢筈岳                                   比叡山

祖母山と傾山の中間点付近から南に約20kmのところに国の名勝に指定されている矢筈岳(736m)と比叡山(918m)があります。

これまた美しいことで知られる鹿川渓谷を流れ下ってきた綱ノ瀬川を挟んだ僅か3kmを隔てて両山のピークがあります。

延岡市方面から旧国道218号線で五ヶ瀬川沿いの道を走って、旧高千穂鉄道の槇峰駅の手前で北へ右折。
しばらく車を走らせると、右に比叡山と左に矢筈岳がいきなり頭上に覆い被さるように見えてきます。

比叡、矢筈の二つの山と、綱ノ瀬川が造る深い渓谷のV字型の造形は、創造の神がこの地に山と川を如何なる形で、如何なる配置すれば美しくなるかに腐心した結果と思わずにいられないような絶景です。

比叡、矢筈の二つの山は、石英斑岩からできているために風化されにくく、ゴツゴツと尖りながら重なり合って、それは奇景であってかつ大変美しいものです。



                                  
行縢山

行縢山(830m)は延岡市内各地から見ることができて、昔から市民に親しまれている秀峰です。
特に最近は東九州自動車道で五ヶ瀬川に架かる橋を渡る辺りからの眺めが素晴らしく、以前に増して行縢山が地域の人々にその美しさの見直しを迫っているかのようです。

その行縢山にはこんな伝承があります。

景行天皇の皇子、ヤマトタケルノミコトは、熊襲討伐のため、船を東海(延岡市)の港に乗り入れて上陸した。
そして川上タケルがいるという山を目指したがすでに日が暮れかけていた。
ミコトはその日のうちに山の近くまで何とか到着したいと願っていたところ、ミコトのその意思が通じ、陽はしばらく西の山の端にとどまって沈まなかった。

ミコトは山の麓の村まで来て、そこに7日間滞在して、川上タケルを討つ策を練った。
その間、ミコトはこの麓の村から眺める山の形が馬に乗るときにつける防具の向縢(むかばき)の形に似ていることから、これを行縢山と名付けた。
そして、行縢山から流れ落ちる滝を、その形から矢筈の滝と名づけた。

というものです。

『布引の矢筈の滝を射て見れば川上タケル落ちて流るる』
ミコトが詠んだ歌とされていて、今もこの地の神楽歌に歌われています。
「布引の滝」とも呼ばれる「行縢の滝」の瀑布を、歌は「矢」と「川上タケル」の両方に見立てています。

ミコトは少女に変装して、川上タケルの館に入り込み、酒宴の席でタケルを討ちとりました。
人々はミコトが暫くの間住まったところを「武宮」と呼び、ミコトをもてなして舞を舞った行縢山の麓の村を「舞野」と呼ぶようになったということです。

麓の行縢神社の鳥居の前の案内板にはこんなことが書いてあります。
大和朝廷の初期の頃にに日本武尊(やまとたけるのみこと)は熊襲族征討の折、この地の山の形が行縢(毛皮製の乗馬用下半身コート)に似ていると仰せられ、それよりこの山に行縢山の名がついたと伝えられている。

秀麗な山と荘厳な瀧は、古代の山岳信仰を起こし、これらを御神体として、社殿建立が行われた。
養老二年(西暦718年)紀州(今の和歌山県)熊野大社の御分霊が奉祀された。

祭神はイザナギノミコトほか二神(イザナギノミコト、ヤマトタケルノミコト)で行縢嶽三所大権現と称し、日向国内の著名な神社で、代々の藩主の崇敬が篤かった。
長寛二年(西暦1164年)鎮西八郎為朝が当社に参籠して、武運長久を祈願した。



                   
可愛岳

可愛岳(728m)は延岡市の中心地からほぼ真北に7kmくらいのところに位置しています。
ニニギノミコトの伝説や西南戦争のときの西郷軍の退却路など、この山にはもっと名が高くなっていい要素があるのですが、伝説や歴史を封じ込めて静かに延岡市全域を見下ろしています。

日本書紀にはニニギノミコトを「筑紫の日向の可愛の山陵に葬りまつる」と書かれています。
明治政府は複数の伝説地の中から、鹿児島県川内市の新田八幡宮が可愛山陵であると治定しましたが、その後国学者や宮内庁の調査によって、明治28年、可愛岳山麓の古墳が「可愛山陵伝説地」(現在参考地)として治定しなおしました。

可愛岳は祝子川と北川の間にありますが、西南戦争の延岡での激戦の和田越の戦いで負けた西郷軍は可愛岳の麓、北川の近くの村の俵野に下がり、軍を解散します。

官軍は俵野の包囲して蟻の這い出る隙間もなかったほどだといいます。
西郷の部下の辺見と河野は、官軍の予想もつかなかった急峻な可愛岳を突破して高千穂を目指すことを進言します。

大崩山と鬼ノ目山の鞍部は鹿川越と呼ばれ、古くから鹿川と上祝子を結ぶ交通路がありました。
可愛岳を突破した西郷軍は祝子川に一度下り、上祝子から鹿川越を通って逃走しましたが、この間、官軍は西郷軍の足取りが全くつかめなかったといいます。

どういうわけか、可愛岳は全国で一番遅い山開き(11月3日)が行われる山です。

平地では愛宕山辺りから東の方財方面にかけてが見やすいのですが、写真はあまりポピュラーとはいえませんが、私の推薦する鏡山からの眺めです。

西郷軍はこの写真の可愛岳の向こう側の祝子川に下りて地蔵谷というところに野営したといいます。
可愛岳には、はっきりとした場所は特定できないものの、西郷さんが山駕籠から降りた場所という「駕籠降り坂」や、四つん這いで山を登りながら「夜這いのごつある」と言って皆の気持ちを和らげたと言われる「夜這い坂」などの地名も残っています。



                               大崩山

大崩山(1643m)は九州の最後の秘境と言われ、切り立った絶壁や花崗岩の岩隗が織り成す自然の造形美を巡る見どころ満載の好展望コースを有する山です。

大崩山へは、延岡市から祝子川に沿う県道を使って上祝子に入り、その先の登山口から三里川原経由が一般的です。

日本200名山にも選ばれており、口コミでその評判を聴き、全国から登山者が押し寄せてきています。
その数は年間2万人にのぼり、1992年(平成4年)には全国高等学校総合体育大会登山競技大会の舞台にもなりました。

特有な山容を有している大崩山の名称は、風化した花崗岩による崩れやすい地質に由来しています。
周囲には屹立する岩峰群があり、北東山麓には祝子川渓谷、南西山麓には鹿川渓谷を配する景勝地です。

登山コースは距離の長いコースで、加えて梯子で急坂を登ったりロープで補助しながら絶壁を渡ったりする箇所がふんだんにあります。

大崩山のシンボルとも言える湧塚の岩峰群や、袖ダキ、湧塚、乳房岩、小積ダキ、二枚ダキ、七日廻り岩等の花崗岩の岩峰群は見るものを圧倒します。

また、祝子川源流域の中瀬松谷、権七小屋谷、モチダ谷、金山谷、瀬戸口谷、小積谷、下小積谷などは大変美しい渓谷を成しています。

関連ページ:高千穂峡 祝子川渓谷 鹿川渓谷 見立渓谷 五ヶ瀬川と鮎漁 「石垣の村」戸川 

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