鵜戸神宮 |
鵜戸神宮 |
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| 鵜戸神宮 | ||||
鵜戸神宮は古くから縁結びと夫婦和合、安産の神として崇敬を集め、この地方にはむかし、新婚の夫婦がそろってこの鵜戸神宮にお参りする習慣があった。 鵜戸神宮に無事お参りをすませた夫婦を、親族のものが途中まで迎えに出、ひいてきた馬に盛装した花嫁をのせ、花婿が手綱をとり、シャンシャンと鈴の音をひびかせながら親族のものと家路をたどったと言う。これが民謡にのこる「シャンシャン馬」である。 ![]() 【鰐塚山】 宮崎平野の南側には鰐塚山地と呼ばれる直径約40キロメートルの一塊の山地がある。 鰐塚山地の西側には都城盆地、南西側には(鹿児島県)肝属平野が広がり、東側は日向灘(太平洋)に面していて、その主峰鰐塚山(1118m)からは日向灘が見下ろすことができる。 鰐塚山の名前については宮崎に伝承される「海幸、山幸」の物語に登場する弟の山幸(ひこほほでみのみこと)が海神宮(わたつみのみや)から還ってくるときに山幸を運んだ鰐(さめ)の塚としてつけられたという。 鰐塚山地は日南山地とも呼ばれることもあり、宮崎市の清武川と日南市の広渡川に挟まれた山の塊は特に鵜戸山地と呼ばれることもある。 写真は鵜戸神宮がある鵜戸崎といい、日南海岸の宮崎市の青島から日南市の間の日南海岸の中で戸崎鼻とともにもっとも日向灘に突き出した岬であり、いかにも海神宮に通じるのに都合の良さそうな場所にある。 この鵜戸崎は鰐塚山地(=鵜戸山地)の南東部にあたる位置にある。 ![]() 【山幸と豊玉姫】 日本昔話の「浦島太郎」は宮崎の伝説の山幸の海神宮(わたつみのみや)での出来事を下敷きにしてできたことについては疑いのないことであるが、浦島太郎は一人玉手箱を開けて白髪の老人と化してしまい乙姫様とはもう関係が無くなってしまうのであるが、海神宮から還った山幸には妊娠に気づいた海神の娘の豊玉姫が山幸のもとで子を産むために後を追ってきた。 豊玉姫ははるばると遠い海神宮からやってきて、神秘的で美しい奇岩が居並ぶこの海岸から上陸する。 この海岸から上がるとすぐのところに内部の広さが300坪という広大な岩の中に自然にできた空洞がある。 豊玉姫が早く産屋を作ってくれるように言うので、山幸はその空洞の中に海岸に棲む鵜の羽で屋根を葺いた産屋を作るように家臣に命じた。 豊玉姫は出産に際してはその姿を見ないように山幸に言ってその準備にはいるが、産気が早く来てしまい、産屋の屋根が葺き終わらなうちに子を産んだ。 しかしここで問題が起きた。 山幸にとっては祖祖母の天照大神の産みの親である伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が見るなと断られた妻の頼みを守れなかった先例の通りに同じ過ちをしてしまう。 これは言うまでもなく日本昔話の「鶴の恩返し」の原型となっているが、山幸は豊玉姫が大きな鰐(さめ)に姿を変えて出産をしているのを見てしまい驚いてその場から逃げ出した。 豊玉姫が鰐に姿を変えて出産していたと今日まで伝えられたことについては、この手の神話や伝承に多く見られる大袈裟な例え話であって現実的にはそのようなことがあるはずもなく、その真実はとなれば、古代、科学などはまったく無縁の日常生活を営んでいて、祈祷とか占いだけに頼っていたであろう当時、海神(わたつみ)とかいわれた豪族が支配する地方(国)の文化や風習で育った豊玉の出産については山幸の一族が支配する地方(国)のそれとは驚くほどの違いがあったということではないのだろうか。 |
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【おちちいわ】鵜戸神宮の本殿が建っている大きな岩の空洞の奥に「御乳岩」と呼ばれるところがある。 豊玉姫は山幸に見られたことが恥ずかしくて耐えられず、親元に帰っていくのだが、産んだばかりの息子のために自分の乳房をとって岩に貼り付ける。 「御乳岩」はちょうど人間の乳房の大きさくらいで、優しい柔らかさを感じさせる丸い岩であり、その先端からはいつも水が垂れていて安産や子供の安全を祈願する人々の信仰を集めている。 豊玉姫の子供は鵜の羽の屋根を葺きおわる前に産まれたことから鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と名がついた。 変な名前だと感じることを禁じえないが、伯父の海幸は火が盛んに燃えている時に生まれたからホデリ、父の山幸は火が消えた時に生まれたからホオリとついた名前であることからすれば、名前の付け方の原点は生まれた時期や状態であったという事実がこんな昔にあったことが分る。 豊玉姫は産んだ子供のことが気掛かりで、妹の玉依姫をその養育係りとして送り出す。 子は成長して叔母である玉依姫を妃として四人の皇子をもうけ、その中の四番目に産まれた子が後の神武天皇となる。 このようにして日向三代の内、二代目の山幸と三代目の鵜茅葺不合尊はいずれも海神の娘を妃として子をもうける。 このことからして、当時、天孫降臨一族にとって海神の国との関係がどれだけ大切であったかがよく分る。 鵜茅葺不合尊については山幸と豊玉姫の間にできた子であることと神武天皇の父親であることを除くとほとんど伝えられていることがない。 しかし、彼が玉依姫との間にもうけた四皇子は、この南九州の辺地から日本の真ん中に出て国を統一しようという壮大な計画をたててそれを成し遂げるという偉業を行った。 記紀や伝承には語られてはいないが、四皇子が壮大な計画を立てるにはその父である鵜茅葺不合尊は相当に実務に長けた実力者であったであろうし、日向二代目の山幸が固めた統治の土台をさらに広めて強固にして、天孫降臨一族の経済力と軍事力を当時の日本で最高の勢力に仕上げた人物であったであろう。 |
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【亀石】鵜戸神宮の本殿のすぐ目の前の海岸には「亀石」と呼ばれる石がある。 亀石の背中には四角の窪みがあって、そこには注連縄(しめなわ)が張られていて、ここを訪れる参詣者が運玉と呼ばれるものを投げ入れる。 その窪みに運玉が入れば運がよく、縁結びの神様として尊崇を集める鵜戸神宮のご利益があるといわれている。 この亀石は、豊玉姫が海神の国からここに来るのに乗ってきた亀で、豊玉姫がいかにも慌てふためいて帰って行ったために亀には何も告げなかった。 そのために亀はいつまでもこの海岸で豊玉姫を待ち続けて、いつのまにか石に化成していたという伝説のもの。 |
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【潮満玉の泉】鵜茅葺不合尊から数えると13代目つまり12代天皇の景行天皇が熊襲を征伐するために6年の間滞在した(日本書紀)という日向高屋宮の近くに小さな鹿野田神社(西都市)がある。 鹿野田神社の祭神は山幸(ひこほほでみのみこと)であるが、ここでは山幸が海神宮から帰る際に海神から兄の海幸への対策用として渡された潮満玉(しおみつたま)・潮涸玉(しおひるたま)」をご神体として祀っているという。 鹿野田神社の境内には「潮満玉の泉」と呼ばれる井戸がある。 この井戸は日向灘からは直線で10km以上離れたとことにあるが、ここの井戸の水はほとんど海水のように塩辛い。 井戸は小さな建屋の中にあって水位が驚くほど高く、短い柄杓(ひしゃく)で簡単に汲める。 西都原古墳群から近い位置にある鹿野田神社の地方には豊玉姫に関係する短い民話がいくつか残っている。 『 村人が馬に乗ってこの井戸を渡ろうとしたら、突然井戸の中に落ち込んでしまった。村人たちが総勢で探しても見つけられなかったが、もしやと思い遠く海まで出かけていって浜辺を探していたら、なんと人も馬も見つかった。』というものや『井戸に落ちた牛が、青島(宮崎市)近くの鬼の洗濯岩のある海で見つかった。』というものや『潮満玉の泉の井戸は山幸彦と海神の娘、豊玉姫が会うために、陸と海とを行き来した道』などといった民話である。 この不思議な井戸の水は全国からの取り寄せの希望もあるらしいが、地表すぐ近くまで満々と(塩)水を湛えたこの井戸は、人々の中で豊玉姫の出身地の海神国と結びつけて考えられた。 【豊玉姫とその息子の鵜茅葺不合尊】 天孫降臨から海幸と山幸との兄弟の興亡に至るわずかな期間を思えば、兄との住み分けが決められた当初、山幸の支配権は名前の通り山にあり、とりもなおさずその本拠地は現在の西都市にあったと考えていい。 釣り道具と狩猟の道具を交換したことに表されているように山幸は海も支配下に組み入れようとして青島に、いわば出城を設けて兄のもつ海の支配権を奪うために海神国に出かけていって首尾よくその国の王の娘と縁組ができた。 ![]() 豊玉姫は出産するとすぐに鵜戸の地を去って二度と帰ることはなかったが、古代の宮崎の人々の記憶の中に住み続けた。 鵜戸からは遠く離れた西臼杵郡高千穂町の北部にある九州山地の最高峰の祖母山(1756m)は、神武天皇の祖母である豊玉姫をまつったことに由来してつけられた名前であるが、祖母山(そぼさん)という優しい音の響きもよく、特に県の北部地方の人々からは特別の思いが寄せられているように感じられる。 祖母山がそう呼ばれるようになった由来とは、神武天皇の東征軍が豊後水道での海戦で台風にあって大いに難儀していた折に、添利山(祖母山)のある西南の方向を見て、「彼の山は我が祖母の神霊の在すところなり。希く神威顕現して、海苦を鎮め、皇孫の危難を救護せよ」と唱えた、するとたちまち大波は静かになっていったことにより、それまで添利山を呼んでいた山を祖母岳と改称したという伝説のことである。 一方、鵜戸で産まれた息子の鵜茅葺不合尊は天孫降臨一族の長として十分な成果を収めたに違いない。 息子の神武天皇一行は古事記によれば鵜茅葺不合尊の亡くなった後にが東征に出たことになるが、実は彼はその後も生きていて母の豊玉姫や妻の玉依姫の育った国、あるいはその近くで過ごしたのかも知れない。 また、神武天皇が日向に残していった妻の吾平津姫(あひらつひめ)やその親族とも、近くにいて付き合いを続けていたのかも知れない。 そこがどこであるかはまた別の機会に考えるとしても、父の山幸がその兄の海幸を排除して自分が海を支配するために力を借りるとなれば、その海神国の本拠地はすぐ近くにあって、おそらくは山幸達の天孫降臨一族が支配する地域に隣接した地方であると考えるべきだろう。 ![]() 【鵜戸神宮】 鵜戸神宮は主祭神として鵜茅葺不合尊を祀り、天照大神、天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)、と神武天皇の六柱で、降臨を果たした天照大神の孫二人を含む日向三代と神武天皇という、正しく日向を代表する歴代の神々が揃って祀られている。 鵜戸神宮は旧官幣大社で鵜戸村大字宮ノ浦吹毛井にある。 創立は崇神天皇の時であると言い、あるいは景行天皇、あるいは推古天皇の時であるとも言われているが文政年間に古記録が焼失したために正確なことは分らない。 桓武天皇の時、延暦元年(782)に天台宗の僧光喜坊快久が勅命を受けて、神殿三宇を再興し、寺院僧堂を再建して、鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺の勅号を贈った。これにより神仏合祭となった。 鵜戸神宮は歴代の領主の崇敬が厚く、永禄三年(1560)に伊東義祐が神殿を再興し、寛永十八年(1641)に伊東祐久が神殿を修復した。 宝永六年(1709)には伊東祐実が二年余の歳月をかけて神殿三社の上屋、拝殿、舞殿、御供所、籠屋を新造した。 その後、正徳元年(1711)に神殿を再興し、明和七年(1770)にこれを修復した。 明治元年(1868)に神仏分離の令が発せられ、続いて別当と権現号が廃止され、社は仁王護国寺と分離した。 明治二年(1869)に鵜戸神社となり、明治七年(1874)に官幣小社に列せられ鵜戸神宮と改称、明治二十八年(1895)には官幣大社に昇格した。 現在の神殿は正徳元年の建築で、本殿、幣殿、拝殿を結合した権現造であり、柿葺(こけらぶき)、極彩色が施してある。 拝殿は向千鳥破風及び軒唐破風を飾り低床であり、四方に廻縁をつけている特色ある神殿である。 古くから縁結びと夫婦和合、安産の神として崇敬を集め、この地方にはむかし、新婚の夫婦がそろってこの鵜戸神宮にお参りする習慣があった。当時、内海から鵜戸までは七浦七峠とよばれた難所であったという。 無事お参りをすませた夫婦を、親族のものが途中まで迎えに出、ひいてきた馬に盛装した花嫁をのせ、花婿が手綱をとり、シャンシャンと鈴の音をひびかせながら親族のものと家路をたどったと言う。これが民謡にのこる「シャンシャン馬」である。 ![]() 宮崎県では国の重要無形民俗文化財に指定された神楽は、米良神楽、高千穂神楽、椎葉神楽がある。 そのうちの銀鏡神楽は鵜戸門流といわれているが33番構成の銀鏡神楽の5番を「鵜戸神楽」6番を「鵜戸鬼神」と言う。 銀鏡では、天和の時代(1681~1684)に浜砂淡路守重賢という人物が鵜戸山道場に出仕して、現在の「鵜戸神楽」「鵜戸鬼神」などの番付を習得したと伝えている。 鵜戸神宮のある鵜戸山は熊野信仰の流入地であり、その他の日本各地の宗教文化も鵜戸山を入口にして南九州に上陸したようだ。 古代には現代人の想像を遥かに凌ぐ活発な往来によりつくられた道があり、その道は宗教や文化をも伝える道ともなって、広く宮崎県全域域、さらにその彼方へと広がっていき、銀鏡神楽のみならず高千穂神楽やさらにその近隣の神楽や宗教を含む文化にも大きな影響を与えていったと考えられている。 ![]() 日南海岸の海に向かって佇む海神神社。 豊玉姫や玉依姫のお里の名前がついている神社が日南海岸にある。 山幸と豊玉姫、鵜茅葺不合尊と玉依姫。 日向における天孫族二代のカップルと切っても切れない「海宮」の名がついた神社が彼等の活躍した鵜戸の近くにある。 その由緒などとは全く無知であっても、この場所に海神神社という名称の神社の存在を知れば、彼ら二代のカップルとこの地方の結びつきの強さをよりリアルに実感させられる。 |
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