駒宮神社の北に約4キロのところに神武天皇がよく愛馬龍石を放したという立石という所があります。
龍石を立石と変えて地名にしたと伝わっていると、同「祭神及由来記」には書かれていますが、日本で最初の牧場として「龍石の牧」といって徳川時代には牧奉行もあったようです。
この駒宮神社がある土地を「平山」といいますが、この平山の地名は神武天皇がここに住んだことにより、鵜戸吾平山から移して吾の字を省いて平山というようになったと、同神社の境内にある享保九年(1724年)の石碑に刻んであると、同じく「祭神及由来記」に書かれています。
また、神社の後方に大きな岩があって、神武天皇が宮崎の宮に向かうときに、この岩の下に鉾を納めたと伝わっています。この磐座(いわくら)は神域となっています。
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| 駒宮神社の磐座(いわくら) |
こうして鵜戸を中心にした神武天皇の伝承は数々ありますが、神武天皇の日向での妃は吾田(あた)の小椅(おはし)の娘で吾平津姫(あひらつひめ)といい、日南市の油津はアヒラツ(津)→アブラツ(津)と、姫の名前に由来すると伝えられ、近くには吾平津姫を祀る吾平津神社があり、隣りの吾田神社も御祭神に吾平津姫を祀っています。
現在の日南市は1950年1月1日の南那珂郡飫肥町、吾田(あがた)町、油津町、東郷村の4町村の合併によって誕生するのですが、飫肥と油津の中間に位置する吾田(あがた)と呼ばれる地名も、このお父上の名前の吾田(あた)の小椅(おはし)に由来しているといわれています。
時代を少し遡ります。
とはいえ日本書紀では瓊々杵尊の天孫降臨から神武天皇までは180万年近くが経過していることになっていますので、簡単には遡れない年月になりますが、神武天皇の祖祖父の妃、即ち木花開耶姫は神吾田津姫(かみあたつひめ)ともいいいます。
瓊々杵尊は木花開耶姫の間に海幸彦、山幸彦をもうけます。この有名な兄弟の揉め事の後、山幸彦は海神(わたつみ)からもらった潮満珠(しおみつたま)と潮干珠(しおふるたま)を操り、攻めてきた兄の海幸彦を打ち負かします。降伏した海幸彦は「私は今後は山幸彦の守護人となる」と弟に服属を誓い、吾田隼人の先祖となるのですが、その海幸彦の母上の木花開耶姫は神吾田津姫として吾田隼人の女神として祀られ、山幸彦の孫にあたる神武天皇は海幸彦の孫の吾田の小椅の娘の吾平津姫を妃とするのです。
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現在、日南市から宮崎市に向かうには鵜戸神宮を経由する国道220号線と田野町を経由して行く県道28号線があります。
国道220号線は海岸端の岩を切り開いた道路で、風光明媚な日南海岸を間近に見ながら車を走らせることができて、宮崎の観光にはなくてならない道路になっているのですが、現在でも台風によって度々不通になる交通の難所といえます。
神武天皇の時代には推して知るべしで、日南市の駒宮神社の地に神武天皇が住んだとすれば、神社近くの駒繋松(舟繋松)に関する記述にもあるように、鵜戸の父上に面会するには舟でに通ったと考えるの自然ではないでしょうか。
そのような理由から、宮崎に向かうには北郷町経由で田野町に向かうルートが往時からあったと考えることにします。
ところで、山幸彦に降った海幸彦は岩舟にのって逃げます。
岩舟に乗って辿り着いたのが北郷町市を経由してさらに田野町を経由して宮崎市に行く県道28号線沿いの潮嶽神社のある北郷町の潮嶽です。
この地では、昔からその伝承があり、釣針ではなく、縫針の貸し借りをしない風習が残っています。
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| 潮嶽神社(北郷町) |
また、近くには神武天皇が東征の前に、妃の吾平津姫と立ち寄ったと伝わる生達(ソダチ)神社があり、四歳からはここで育ったという具体的な伝説もあります。
こうして、現在の日南市から串間市にかけては、神武天皇とその父や祖父やその兄弟。そして妃や舅に関する伝承の地が沢山あって、興味の尽きない土地です。
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| 生達神社(北郷町) |
■ 高原町誕生説 ■
霧島連山の高千穂の峰の頂きから東北東に直線距離にして約10kmのところが高原町です。
高千穂の峰の頂きから真東に約3kmのところには御池(みいけ)があって、神武天皇が幼少のころによく遊んだといわれる皇子港(おうじみなと)があります。
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| 御池 (右は高千穂の峰) |
天孫降臨が臼杵高千穂か霧島高千穂かは昔から続いた論争に委ねるとして、霧島高千穂説の場合、この(写真の方角ではなく、都城市街地周辺から見上げる)高千穂の峰は、いかにも天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が降臨した山のように見えて、気高くて美しく、ましてや高千穂の峰のすぐ近くにあって、高原町誕生説は、感覚的には説得力を持つ土地と言わざるを得ません。
鵜戸誕生説は、神武天皇誕生そのものにまつわる伝承は、四歳から育ったといわれる北郷町(日南市の隣町)の生達神社があるくらいですが、ここ高原町は誕生に関係する伝承地が多くあります。
その一つが神武天皇の幼名が狭野命(さののみこと)であり、その幼名は狭野神社のある地名(現在の高原町大字蒲牟田狭野)からきたものであるというものです。
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| 狭野神社の参道の途中 (この長い参道の奥に狭野神社がある) |
狭野神社の一の鳥居から本殿までは長い参道があって、その途中を、創建から後の世に出来たであろう道が横断していました。
昔、神社の敷地は相当に広いものであって、近代になって近郷の集落へ行くのに迂回道が長すぎて神社の中に道を通したと推測できるようでした。
また、この神社の狭野杉は薩摩藩主島津義弘が神社別当寺の住職と協力して植えたもので、大正十三年に国の天然記念物に指定されています。
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| 皇子原神社の参道 |
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| 産場石(うべし):神武天皇が産湯を使った場所と伝えられ、皇子原神社に祀られています。 |
皇子原神社にある産場石(うべし)が神武天皇が産湯を使った場所であるなら、その近くに流れ出た祓川(はらいがわ)は祓原(はらいばる)を通り、そこは神武天皇が誕生したときに体を洗い清めお祓いを受けたところだといいます。
祓川も祓原もその他の高原町の伝承の地も、言うに及ばず、神武天皇が誕生したときに母の玉依姫が諸物を洗い清めた場所と伝えられている血捨之木(ちしゃのき)もすべて現存する地名です。
その他にも、高原町には神武天皇が幼少の頃、住んだ跡と伝えられている宮の宇都(みやのうと)、皇子原神社に行く石段の脇にあって、神武天皇が腰掛けた石と伝えられている御腰掛石(おこしかけいし)、東征に出発する際の伝承地としては、最初に渡った川といわれている狭野渡(さのわたし)、最初に馬に乗った所といわれている馬登(まのぼり)、別れを惜しむ人々が鳥居を建てて、見送ったところといわれている鳥居原(とりいばる)などがあります。
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| ■ (現)宮崎市での神武天皇 ■ |
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| 皇宮屋(こぐや) |
かっての「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」は現在では平和の塔といわれますが、その平和の塔の立つ平和公園の下に皇宮屋はあります。
皇宮屋は宮崎の宮の跡で、ここに神武天皇は東征に向かう四十五歳までいたと伝えられています。
神武天皇は四人の男の兄弟の末っ子ですが、古代末子相続の習いがあって、特別なケースではなかったようですが、なにより生来賢く気丈であったようで、十五歳で皇太子になります。
「天孫瓊々杵尊が日向に降臨されたのは、天照大神の代わりに豊葦原瑞穂国を治めるためであった。その後三代にわたって日向で正しきを養い、暉(ひかり)を積み今日に至ったが、日向は西に偏っているので国の中央に出て、日本全体に政治を敷かなければならない」そして宮崎の宮を出発したのです。
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| 皇軍発祥の地の碑 (皇宮屋のすぐそばにある) |
■ 宮崎平野北進 ■
日本には海上保安庁の水路図誌に掲載されている「灘」は14カ所あって、その一つが日向灘で、都井岬から鶴御埼の沖合海域をいいます。
「灘」とは、昔から海・潮流の流れが速い所あるいは風浪が激しい所で航海が困難な海域を指しています。
その日向灘の航海をできるだけ避けて、宮崎平野を北に進むと、都農町の先、つまり日向市美々津までは平坦な平地をすすむことができます。
美々津から先、正確には「宮崎県日向市の美々津海岸から大分県佐賀関半島」までは今でいう「日豊海岸国定公園」で出入りの激しいリアス式海岸が海に迫り出していて、まとまった集団が北に進もうとすると、陸より海を選ぶように思うのです。
西都原古墳群は皇宮屋からほぼ真北へ直線で20km弱の位置にあります。
土地の伝承では男狭穂塚は瓊々杵尊、女狭穂塚は木花開耶姫が埋葬されているそうですから、神武天皇は東征の途中に立寄って行かれたと想像してみるのもいいかもしれません。
西都原で一日目の宿陣をして、都農町一ノ宮神社まで約30kmの道のりを、途中、(後の)湯之宮神社に立寄って休憩して再び都農へ向かったのでしょうか。
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| 座論梅 |
■ 湯之宮神社 ■ 座論梅 ■
西都原を東に少し来ると、西都市の境近くの新富町に小さな湯之宮神社があって、その脇に「史跡 神武天皇御湯浴場跡」の古びた看板があります。
その脇に泉のような場所があって、そこを石の柵で囲っています。
その湯之宮神社から農村の細い道を隔てたところに座論梅という梅園があります。 座論梅(slideshow)この老梅は神武天皇が東征の際この地においてお湯を召されご休憩の後、梅の枝を突きたてたまま出発して、その後、その杖が芽をふき元木となり成長して今日に至ったものと伝えられているのです。
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■ 矢研の滝 ■
神武天皇の時代も、人々は西都⇔都農の間は現在の県道40号線のルートに近い道で往来していたかも知れません。
宮崎平野は北の端は日向灘に向かって収束していますが、その宮崎平野の北詰は尾鈴山によって遮られるような形になっていて、その収束する所が都農なのです。
湯之宮神社を出て、都農一宮神社まであと5kmくらいのところまでくると、標高1405mの、その尾鈴山が北に約10kmの距離で望めるようになります。
そこには、尾鈴山から流れ出て都農沖の日向灘に注ぐ名貫川があって、神武天皇一行はその名貫川沿いに尾鈴山の山中に入ったと思われます。
そこは瓊々杵尊の兄の邇藝速日命(ニギハヤヒノミコト)が高天原から尾鈴山に降りて、そのまま乗り捨てて行ったと伝わる大きな岩石「天の磐船」があるのです。
権力を維持するためには先祖神の祭祀は重要なことで、この伝説の地は東征に向かう神武天皇にとっては立寄らざるを得なかったでしょう。
神武天皇は「天の磐船」に祈願すると、その下流200mにある、高さ70mの美しい瀑布のそばまで来て、戦士達にはその滝の水で矢を研ぐように命じました。
「矢研の滝」の伝承です。
矢研の滝は「日本の滝100選」一つです。
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■ 都農一宮神社 ■ |
■ 日向市美々津 ■
記紀には、神武天皇は日向から東征に出発するとあるだけで具体的な地名は表していません。
つまり美々津という地名はないのです。
しかし、この美々津から細島に至る海沿いには神武天皇に関する伝説があって、それも、実に現実味のある伝説なのです。
美々津に今も語り継がれている神武天皇伝説は次のようなものです。
「東にある大和の国は途方も無く遠い所であるから船をつかって行くとして、さてその港は何処にするべきと思うか」と神武天皇が家臣に訊ねました。
「都農一宮神社の先で、天孫瓊々杵尊もお通りになられた大御神社手前に耳川という川が流れています。
その河口の水深は深く、近くには山々が迫り、船を造るための木材が豊富にございます。そして、腕のいい船大工や水夫も沢山いて、村人も素直で勤勉なものが多いと聞いております」
それを聞いた神武天皇は「そうであれば美々津を出発の港と定めよう」…といったような評議があったのでしょう。
神武天皇は、美々津に到着して「神の井」(新町の八坂神社内)に行宮を造り、出港までの住まいとしました。
耳川の河口から上流約2.5kmの所に余瀬という土地があり、そこの神立山から木材を切り出してきて、匠ヶ河原で船を建造しました。
神武天皇は立磐神社の境内にあって、今は御腰掛岩というようになった岩に腰掛けて、あれこれ指図をしていたそうです。
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| (美々津港のすぐそばにある) 御腰掛岩 |
軍船も完成して港に集まり、水軍の訓練も進み、いよいよ(旧暦)八月二日を出港の日と決めて、遠見の山で凧を揚げて風の方向を調べたり、船を沖合いに出して潮の流れを調べたりしていました。
遠見山では今でも秋凧といってこの時期に凧を揚げる習慣があります。
ところが、予定より一日早い八朔の四更(旧暦八月一日の午前二時)の頃に遠見山の見張り番が、風向きも潮の流れも今がいい、との報告があって急に出発すことになりました。
それを聞いた村人達は、「おきよ、おきよ、出発されるげな」と家々を起こして回ったそうです。
村の男達は出発の加勢に出向き、女達は献上する予定であった団子をつくる時間もないままに、その材料の米粉と小豆を混ぜ合わせて、捏ねて、蒸して、臼で搗いて、団子らしきものを作って差し上げました。
このときに、御腰掛岩に立って進み具合を見ていた神武天皇の衣服のほころびを見つけた少女に、天皇は立ったままで繕わせたそうです。
それ以来、美々津のことを「立ち縫いの里」というようになりました。
夜明けに立磐神社と向こう岸の湊柱神社に武運と航海の安全を祈願して、いよいよ出発することになりました。
神武天皇の軍船団は美々津のすぐ沖の七ツ礁(ばえ)と一つ上((かみ)の間を通って東征に向かいました。
美々津ではこの二つの礁の間を「お舟出の瀬戸」と呼ぶようになり、以来この間を地元の人は通らないようななりました。二度と帰ってこない人にならないように縁起を担ぐようになったからです。
その後、美々津においては、八月一日に「おきよ祭り」が行われるようになります。
急ごしらえの団子は「つきいれもち」と呼ばれる美々津の有名なお菓子として今も受け継がれています。
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| 櫛の山(左)・米の山(右) (お倉ヶ浜からの撮影) |
■ 伊勢ヶ浜 ■
美々津を出港して遠見山を回ると約2kmで美しい浜辺の金ヶ浜に差し掛かります。
さらに2km北に進むと美しく且つ雄大なお倉ケ浜の沖に出ます。
そして、次に目に入ってきた景色は櫛の山と米の山だったでしょう。
二つの山の中間にある小さい山の陰に瓊々杵尊が立寄ったという大御神社がある伊勢ヶ浜があるのです。
伊勢ヶ浜は美々津からは北北東に約8kmのところにあります。
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| 伊勢ヶ浜 |
大御神社に伝わる『神明記』その他の古文書によれば天照大御神が日向の国高千穂に皇孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)を天降らさせ給うた折、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の磐石にてこれより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照大御神をお祭りして平安を祈念されたと伝えられ、神社には「神座(かみくら)」といわれる大きな「さざれ石」の磐があります。
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| 大御神社 |
神武天皇は大御神社に立寄って、航海の安全と武運を祈って再び出港しますが、ここで家臣の天櫛津大久米命の名前の内から二文字をとって、その一つの「櫛」は神社の西の山につけて「櫛の山」として、東の山には「米」をつけて「米の山」としました。
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■ 日向市細島 ■
美々津を出港した神武天皇一行は、間も無く風向きが悪くなったので細島で回復を待つことにしました。
ここで、巨大な鯨が湾内に入ってきていて漁民を苦しめていることを聞いて退治するのです。
そして、退治した後で、それに使った鉾を立てて置いていったので、そこを鉾島と呼ぶようになりました。
鉾を立てた場所を今日まで御鉾ヶ浦といい、その附近一帯は「ホコシマ」→「ホソシマ」に転じて細島という地名になっています。
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| 御鉾ヶ浦(日向市細島) |
細島の中心にある標高192mの山が、先の「米の山」で、その東側に日向灘に突き出ているのが高さ70mの断崖の馬ケ瀬がある「日向岬」です。
そして日向岬の先端まで行くと細く長い細島の湾が見えて、その入口に落とし穴のような形で御鉾ヶ浦の湾があります。
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■ 櫛津(延岡市) ■
神武天皇一行が細島湾を出た先には、隣にすぐ門川湾があり、またその先には延岡市と門川町の境に、標高308mの遠見山を中心した大きな半島があり、神武天皇伝説との関係は定かではありませんが、遠見山に添うように、ここにも「米の山」があります。
この半島の付け根の部分を「船越」と言って、狭くて標高が低く、そこを国道10号線と日豊本線と旧国道10号線の三つの交通動脈が沿うように走っています。
国道10号線を通るとき、昔に海岸線が今より内陸にあったとしても、船が越すには少し無理があるかも知れないと感じるのですが、日豊本線と旧国道はその国道10号線からは一段低い所を通っていて、そこは櫛津からはそれほど高くなっているとは感じないのです。
「船越」の地名から判断できるように、ここは昔は船で通過できたと思われます。
その船越の緩い坂を延岡市方向に下った所が「櫛津」で、大御神社の西の「櫛の山」と同じ天櫛津大久米命の名前に由来するものと伝わっています。
現在は、その半島を反時計回りに回ると、赤水湾、鯛名湾といった小さな湾が半島の北側に並び、その奥にまた小さな土々呂湾があり、さらにその奥が櫛津になっています。
櫛津は美々津からはまだやっと北北東に20kmに過ぎない地点で、神武天皇軍船団は、かって海であったこの極めて狭い海峡の船越を通過して、何らかの理由で櫛津に寄港したのかも知れません。
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| 日向灘 (美々津〜伊勢ヶ浜) |
■ 「宮崎と神武天皇」のページは2006年の夏に初めてUPして、その後内容に不満の日が続いた。
本日、2007.07.13は非常に強い大型の台風4号が沖縄に最接近していて、ここ宮崎でも大量の雨が降り、県内の各地で道路の不通が起きていたり、避難勧告が出ている中での言わば「どさくさまぎれ」の全面改訂になった。
細かい部分までは手が回らず、変わらず不満はあるものの、ある程度神武天皇物語りの構想に近い内容にはなったと思う。
臼杵高千穂での伝説など、神武天皇の兄や孫など、少し加えたいものがあるので、それはするとして、他のページも中途で止まっているものもあるので、そちらを進めていきたい。
今後も宮崎を(バイクや車で)走ったり歩いたりすると、また新しい神武天皇像が浮かんでくると思う。
神武天皇の宮崎におけるイメージをより具体的にできるような材料を見つけて、さらに肉付けをしていきたい。
■ 2007.07.15 矢研の滝の写真を挿入して、同滝に関する記述を改訂する。
■ 2007.08.27 潮嶽神社(北郷町)の写真を掲載する。
■ 2007.12.01 模様替え
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