綾城

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綾城画像

905(延喜5)年に編纂された『延喜式』によると、日向国の日向国府(西都市三宅)から肥後に至る肥後街道の

駅の中に亜椰駅(あやのえき)があり、当時から交通、戦略の要所であったことがわかる。



1333年の建武新政(けんむのしんせい)後、北朝方の大将足利尊氏は細川小四郎義門を自分の領地である

国富荘(宮崎市)に下向させた。

細川義門ははじめ加納に政所を置き拠点とした。

1336(建武3)年、南朝方の肝属八郎兼重や萩原兼政により国富荘を攻められ政所を焼き払われた。

翌1377(天授3)年の都城の役で北朝が大勝し、その行賞として国富荘は伊東氏、土持氏の両氏に2分する形

で分け与えられた。

この時、細川小四郎義門の孫義勝に、諸県荘の綾八十町、入野名十六町を与えられたようだ。

細川氏は、綾に綾城(竜尾城)を築き、義勝の子義廉が綾右馬丞、その弟義郷が綾中務小輔と名乗った。

綾氏はその後城主としてこの地方を治めていたが、室町幕府8代将軍義政のころ、日向国の一大豪族となった

伊東氏の家臣となり、綾城も伊東48城の一つとなり、伊東方の拠点として重要な役割を果たした。



1572(元亀3)年、伊東義祐は島津氏の加久藤城を攻めるが木崎原で大敗すると伊東氏の勢いは衰えて、

1576(天正4)年には高原城が島津義久が率いる3万の大軍勢から攻撃を受けて奪われた。

翌1577(天正5)年、島津氏が日向の伊東氏の本拠地への侵攻を開始し伊東氏との決戦に及ぶ。

綾城(龍尾城)の城主佐土原遠江守は義祐を城に迎えて最後まで忠義を守って戦ったが、島津氏の攻撃に耐え

切れずに落城した。

伊東氏が豊後(大分)に落ちて、それより綾城は島津氏の支配となった。



島津義久は綾城に家臣新納久時を入れ、日向侵攻の拠点とした。

1587(天正15)年、豊臣秀吉が九州征伐に乗り出し、日向へは弟秀長を総大将として軍を進め、対抗する島津方

は都於郡城で島津義久が迎え討った。

綾城(竜尾城)は都於郡城の背後を固める重要な城であったが、実際に戦うことなく秀吉軍に開城した。

しかし島津氏は敗北したが、綾城とその領地は島津氏の支配地として残ることとなった。



1615(元和元)年、江戸幕府の一国一城制度により、綾城は廃止となり島津氏の地頭が置かれた。

綾城構築については、日本城郭協会に中世の山城の築城についての考察を依頼し、数次の調査に基づいた考察

により想定したもので、昭和60年春に日本ではじめての戦国初期の城櫓建造物を構築した。

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                            綾城地図:宮崎県東諸県郡綾町

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