牧水の生家は、祖父健海が弘化2(1845)年の頃建築したもので、牧水の少年時代の姿をそのまま伝えている。
健海は、埼玉県所沢の農家に生まれ、若くして蘭学と医術を学び、天保7(1836)年、ここに移り住んで医を業とした。
嘉永2年、蘭人モーニッケが我が国に種痘を伝えると、いち早くそれを学んで日向(国)各地に実施した先覚者である。
以下、おもひでの記(若山牧水)より
私の生れた村、詳しく云へば日向国宮崎県東臼杵郡東郷村大字坪谷村は山と山との間に挟まれた細長い峡谷である。
ことに南には付近第一の高山である尾鈴山がけはしい断崖面を露はして眼上(まうえ)に聳えているので、一層峡谷らしい感じを与へて居る。
村の長さは東西に延びて四五里もあるだらうが、戸数は僅か二百か三百足らずのものであると思ふ。
私の家はその一番戸であった。(今は三番地と呼ぶ亊になっている相だ)つまり村の東の入口に当たっている。
其処に新たに家を建てた亊に就いても私は祖父を並ならぬ人の一つに思はざるを得ぬのである。
それはその場所が付近でも際立って優れた好位置にあったからである。
或は他に理由があったのか、若しくは偶然であったかも知れぬが、私には矢張りそれが彼に山川を見る眼があった故だとのみ思はれてならない。
家は村を貫通する唯一の道路に沿ひ、真下に渓に臨んで居る。
そして恰度その渓は其処まで長い滝の様になって落ちてきた来た長い長い瀬が、急に其処で屈折して居るために其処だけが豊かな淵となり、やがてまた瀬となって下り走り、斜め右と左とに末遠くその上下の渓を展望することが出来る地位にある。
彼はその自家に名づけて省淵盧(せうえんろ)と呼んだ。
膳椀入の箱などにまで省淵盧々々々と書き散らしてある。
そして村の眺望の基調を成している尾鈴山をば殆んど正面に、而してまたやや斜めにその全体を眺め得る様な地位に当って居る。
晴れた日も悪くはないが、私の家の眺望は雨の日が特にいい。
それは雲と山との配合が生きて来るからである。
元来この尾鈴山はその南面の太平洋に臨んだ方は極めてなだらかな傾斜で高まって来て、四千尺近い頂上となり、急に北に面して削り落した様に岩骨を露はしながら険しく切れているのである。
常に陰影の多いその山の北面には、晴れた日でもよく雲を宿しているが、一朝雨降るとなると山全体が、いやその峡谷全体が、真白な雲で閉されてしまふ。
そしてその雲の徂徠によって到るところ襞の多いその険峻が恰も霊魂を帯びたかの様に躍動して見えるのである。 |