瑛九




      瑛九「空の月」 1957年 油彩 宮崎県立美術館蔵

      瑛九「つばさ」 1959年 宮崎県立美術館所蔵

 


瑛九(えいきゅう)は宮崎市出身で本名を杉田秀夫といい、日本美術学校卒業後、画家、版画家、写真家として活躍した。

その作品には前衛的なものや抽象的なものが多く、戦前・戦後にかけて、日本の美術界において創造性に充ちた活動を展開した。

本名の杉田秀夫としての最初の創作活動は、文芸や評論であった。

1936年に「瑛九」の名で美術界にデビューした後、油彩、写真、コラージュ、水彩、ガラス絵など、多岐にわたる分野で創作活動をした。

終戦を迎えると瑛九は故郷の宮崎市に戻った。

それまで芸術一辺倒の生活だった瑛九は1946(昭和21)年1月、宮崎市で開かれた共産党の集会に参加し、それを機に日本共産党へ入党した。

共産党員としての活動は短期間であったが、その間に瑛九は運命の女性、谷口ミヤ子と出会った。

瑛九は党員活動の一つとして、彼の実家で文化講座を開いていて、その講座に集まった人の中に、「製粉製麺統制組合」の事務所で働いていたミヤ子がいた。  

瑛九はすぐにミヤ子が気に入り、またミヤ子の方でもエスペラント語を話す瑛九に興味を抱いたようである。

瑛九は、「はじめて君に会った日、君は眼をぎらぎらと光らせながら僕の話を聞いていた。その瞳の輝きは僕の身体をふるわせ、僕はいつでもそのふるえを止めることができなかった」と日記に書いている。



瑛九は世界共通言語であるエスペラント語を生活の一部に取り入れていた。

そして人類が同じ立場に立つ土俵から、美術や社会について考えることを目指した。

また、権威主義には抵抗し、自由と独立の精神を重んじた。

宮崎においては美術団体「ふるさと社」、「自由美術家協会」、「デモクラート美術家協会」などの設立に関わった。

1951年に埼玉県の浦和に移り、版画(銅版画、リトグラフ)にも取り組み、晩年は点描による油彩画の制作に没頭した。




瑛九は、本名の「杉田秀夫」、画家としての「瑛九」の他に「秀十三」、「丘好次」、「寂音」など、いくつかの名前を使った。

「秀十三」は宮崎県政評論に掲載された論文、「丘好次」は日向日日新聞に連載された小説の挿絵、「寂音」は俳句を詠むとき、そして「九」はオノサト・トシノブ等と日本画を描いていたとき、などである。

それらの名前は、瑛九が絵画のみならず、幅広い分野で自らを表現する場を持っていた証左である。

また、瑛九は大変な読書家であり、博学であった。

美術関連の本はもとより、文学や評論、ファッションなど読んでいた分野は多岐にわたり、彼と議論を交わした相手は、その広く深い彼の知識にしばしば敬服したと言う。

宮崎県立図書館の「杉田文庫」には、彼の愛読書が数十冊所蔵されている。



瑛九は高所恐怖症で、本ページ掲載画像の「つばさ(縦2.5m以上)」を作成したときは自ら頑丈な脚立を作ったと言う。

2006年9月12日放送の開運!なんでも鑑定団(テレビ東京系列)において瑛九の作と思われる「田園」という題名の絵が鑑定に出された。

鑑定の結果は本物で、その価格は5000万円であった。

それには視聴者も番組関係者も度肝を抜かれた。

瑛九の価値を示すひとつのエピソードである。



1911年4月28日生まれ、1960年3月10日没。

宮崎県立美術館には瑛九のコレクションがあり、瑛九展示室で常時展示している

瑛九|宮崎県宮崎市出身

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