速川神社




梅原猛はその著書「天皇家の”ふるさと”日向をゆく」の中でこう述べている。

『私はこの旅で、なるべく多くの神社を訪ねて、その神社に伝わる話を宮司さんから伺いたいと思っていた。 なぜなら、神社に伝わる祭りや伝承は、過去のある事実を”冷凍保存”していると言っちよいからである。ただし、記紀と同じ伝承だけでは、かえってその真実性が疑わしい。それは記紀をもとにして作られたとみられなくはないからである。記紀に述べられていないような伝承や、記紀とは少し違った伝承が存在し、またその伝承によって、記紀に書かれた記述がよりいききと解釈されるような場合に、私は記紀に語られた物語は充分に信憑性が高いと考える。』




速川神社は西都市中心部から国道219号線(米良街道)で穂北を通り、杉安橋を渡って左折して一ツ瀬川の左岸を行くと2~3キロでその入口に達する。

杉安峡の下流域にあたるところで、ここはかって上流の一ツ瀬発電所がなったときには清流が轟々と岸を削って流れていたであろう。

路傍の案内板には次のように書かれている。

『神社の祭神には、瀬織津姫命をお祭りしてありますが、神社の創始者は、新しい土地を求めて南下されたニニギの尊が、伴人の
瀬織津姫命速川の瀬で失くし、此の地に小祠を建立して御霊を慰めたことに初まるという伝説が残されています。 神社の周辺には昔から、男滝、女滝、蛇滝等と称する七滝ありと語り継がれ、その内の蛇滝が今の龍神の滝にあたる。現在、参拝者が生卵1個を供えて祈願する慣習は、この七滝に捧げる龍神信仰から発生したものである。』

案内板より階段で川に下り、比較的長い潜水橋を渡って対岸に着く。

それから急な坂道を歩いて行くと、木々の間に落差の大きな滝がある。

これが七滝の一つだと思われるが、そこからさらに坂を歩いて速川神社に到着する。

神社の周辺からは美しい湧水が複数の滝となって流れている。

それらの神秘的は滝が流れ落ちる環境に加えて、もともと山深い地域である上に、(かっては)一ツ瀬川の急流にも阻まれ、人々を安易に寄せつけない場所であるがゆえに、ここは人知を超えた特別なエリア(神域)と感じさせるに充分なスポットである。



速川神社の御祭神は、瀬織律比咩命(せおりつひめのみこと)、速開津比咩命(はやあきつひめのみこと)、気吹戸主命(いぶきどぬしのみこと)、速佐須良比咩命(はやさすらひめのみこと) の四柱である。

御祭神の内、速開津比咩命(はやあきつひめのみこと)は日本神話に登場する神で、『古事記』では速秋津比古神・速秋津比売神、『日本書紀』では速秋津日命(はやあきつひのみこと)と表記される。

古事記では別名水戸神(みなとのかみ)と記しているが、神産みの段でイザナギ・イザナミ二神の間に産まれた男女一対(ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメ)の神で、水戸神はその総称である。

その他の三神は記紀には登場しない神々であるが、速開津比咩命を含めたこの四神は、1300年以上前から宮中や神社で万民の罪穢を祓い除く儀式、「大祓」の祝詞に登場する神々である。

『此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披きて 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて 聞こし食さむ 
國つ神は高山の末 短山の末に上り坐して 高山の伊褒理 短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ 
此く聞こし食してば 罪と言ふ罪は在らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧
夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原
に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと 祓
へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す
瀬織津比賣
と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐
速開都比賣と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神 根
底國に気吹き放ちてむ 此く気吹き放ちてば 根國 底國に坐す
速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失
ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百
萬神等共に 聞こし食せと白す 』



大祓の祝詞からは、この速川神社の御祭神は罪や穢れを祓う神様であることが分るが、道路の案内板に書かれている『新しい土地を求めて南下されたニニギの尊が、伴人の
瀬織津姫命を速川の瀬で失くし、此の地に小祠を建立』という伝承の神は、大祓の祝詞で『速川の瀬に坐す瀬織津比賣と言ふ神』として登場する。

瀬織津姫命とは一体何物なのか、ニニギとの関係は如何なるものであったのか、などと想像を巡らすと興味は深い。

記紀においては、天孫降臨を果たしたニニギはコノハナサクヤヒメと出会い、一目惚れして求婚したことになっているが、実はこの瀬織津姫命は降臨を果たす前のニニギの妃ではなかったのか。

瀬織津姫命はに二ギがコノハナサクヤヒメと政略結婚をしたことを嘆いてこの速川の瀬に身を投じたのか、はたまた、ニニギに随伴してきた5つの部族(古事記)の中の瀬織津姫命が属する部族の生き残りのために抹殺されたのか。

ニニギは支配地拡大(日本国制覇)という天孫族の悲願のためには
瀬織津姫命の死も受け入れざるを得ず、せめてここに小祠を建立してその御霊を慰めたのか。

などと、無責任であるがロマン溢れる想像をしながらこの神社に続く坂道を歩いて上るのもまた一興。

なにせこの坂はきつい坂で、参詣を済ませて下るときには膝が笑うほどである。 



神社の「御由来沿革」には次のように書かれている。

『当神社の創建については詳らかではないが、速川の瀬の左岸に祭祀され
瀬織津比咩命を主祭神として祓戸四柱神を斎奉る神社であり1764年明和生まれで郷土の史跡研究の大家「児玉實満氏」神代皇都絵図に描かれています。 大正3年内務省が選定し伊勢の大神宮始めとして日本全国の神宮又神社において奏上致しております中臣の大祓詞より引用しますと、「速川の瀬に座す瀬織津比咩命と言う神」と書かれて有り、既に奈良時代以前より祭祀されていたものと思われ霊験灼か成る事は他に無くその起源の古きは推し測る事ができるかと思います。 明治4年に発行された【県令郷社定則】にもとずいて、明治30年に、児湯郡上穂北村鎮座「若宮神社」、現在の西都市大字南方島内村鎮座「南方神社」、に遷宮され境内社として一隅に祭祀されておりましたが、大正14年に現在の所に正遷宮し昭和46年4月 宗教法人速川神社となりました。』





速川神社|宮崎県西都市

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