比木神社は児湯郡木城町にある極めて古い創建の神社であるが、特筆すべきは百済王族の福智王が、大己貴命(おおなむちのみこと)などの5柱の祭神と合祀されていることである。
初めて聞けば誰でも疑問に思うこの合祀とこの地域に伝わる伝承を、ほんの僅かでも腑に落とすために、古代の日本(倭国)と百済の関係を少しばかり紐解いてみよう。
(日本書紀の雄略紀によれば)百済は475年に高句麗に攻められて一度は滅び、その後(477年)に雄略天皇が百済王に熊津の地を賜って百済を再興させたとある。
その他にも日本書紀の中には、領土を奪われた百済に任那の一部を割譲した記録や援軍を供出した記録、さらには倭朝廷に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが数多く残っている。
また、663(天智2)年の朝鮮半島の白村江の戦いでは、倭国と百済の連合軍と、唐・新羅連合軍が陸海で戦った。
この戦いで白村江に集結した1000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上して沈没するという大敗北を喫した倭国水軍は、自国の兵や亡命を希望する百済人などを乗せ、唐水軍の追討を逃れながらやっとのことで帰還した。
(日本書紀によれば)白村江の戦いの間(663年~666年)に合計2千人の唐人や百済人が上陸したというが、(百済の)支配階級の人々は倭船だけではなく自前(国)の船でも海を渡ったと考えたい。
比木神社に祀られている百済の福智王についての伝説は次のようなものである。
百済を亡命した王族は2隻の船で筑紫(九州)から瀬戸内に入り、安芸の宮島に着いた。
しかし、追討軍が背後に迫っているのを察知したのか、元来た海路をあと戻るように筑紫へと向かった。
その途中、船は嵐に巻き込まれてしまった。
2隻の船は離ればなれとなり、父の禎嘉王の船は現在の日向市の金ケ浜、息子の福智王の船は現在の高鍋町の蚊口浜に流れ着いた。
二人の王は、それぞれに占いをして、進路を決めた。
禎嘉王は「西」と出たので金ケ浜から西に向かい、神門(みかど)に着いた。
福智王も「西」と出たので蚊口浜から西に向かい、比木(ひき)に着いた。
二人の王は神門と比木に居を構えたが、すぐに追討軍が攻め寄せてきて戦となった。
現在の日向市東郷町と美郷町南郷区の境付近で激しい戦いになったが、特に、伊佐賀での戦いが最も激しいもので、禎嘉王の次子の華智王が戦死して、次いで禎嘉王も流れ矢に当って亡くなった。
王の家臣や女官たちも王に従って自害したために伊賀佐の地は血に染まったという。
地元では、伊賀佐の土が今も赤いのはこの時の戦で流れた血が染み込んでいるからだと伝わっている。
その後、禎嘉王は神門神社に、福智王は比木神社に祀られた。
神門神社と比木神社は極めて特異な祭り「師走祭り」を合同で行う。
国の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に指定されている「師走祭り」は、この伝説がただの伝説ではなく、根も葉も共にある、正に「記録作成等の措置を講ずべき」貴重な祭りであるところを今に伝え、併せて、百済の福智王がなにゆえに比木神社に合祀されているのかも示してくれる。
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