【石ノ城】
戦国時代末期の日向国では、伊東氏、島津氏の長い興亡戦が続いた結果、島津氏の勝利に終ったが、それ以前は伊東氏が日向国の中南部地域を支配して、その勢力を誇示した。
当時の伊東氏の支配体制は、西都市の都於郡城を本城として、10~15km間隔で、出城を48ヶ所構え、戦時に備えると同時に領内の統治の体制としていた。
これを日向48城と呼び、北は門川町の門川城が県(延岡市地域)の土持氏と境を接し、南は飫肥酒谷城(日南市)、西南は三之山城(小林市)で、薩摩の島津氏と接していた。
木城町のある児湯郡地域には、都於郡本城の他、三納城(西都市)、穂北城(西都市)、富田城(新富町)、財部城(高鍋町)、高城(木城町)、それに石城があった。
石城は、鹿遊連峰の裾野が小丸川に突き出したところで川が極端に蛇行して袋状の地形をなした地点にあった。
亀の形に見えることから亀城とも呼ばれ、東西200m、南北350mの中世の山城特有の要害となっている。
1577(天正5)年、伊東義祐は主城の一つであった佐土原城を落ち、豊後の大友宗麟を頼って日向を去った。
翌1577(天正6)年、門川(門川町)、塩見(日向市)、山陰(日向市東郷町)の城主から、宗麟が島津氏を攻めるときには先導を勤めたいという密書が届くと、宗麟は日向に向けて自ら出陣した。
義祐の命を受けた伊東の残党は、廃城に近い状態であった石ノ城を密かに修復し、長倉祐政(ながくらすけまさ)、山田宗昌(やまだ むねまさ)らが守将として入城した。
1577(天正6)年7月、島津義久は、島津忠長(しまづただなが)、伊集院忠棟(いじゅういんただむね)を大将とした7千の兵で石ノ城を攻めさせた。
しかし、島津忠長が負傷するなど、島津軍は苦戦を強いられた。
それを見た 伊集院忠棟は、 「この城は要害に守られているうえに兵の士気も高いので簡単には落ちそうにない。 性急に攻めずに謀(はかりごと)を用いて落とすべきである」と言い、石ノ城攻撃を断念して、佐土原に退いた。
1577(天正6)年9月、島津征久(しまづゆきひさ)を大将とした島津軍1万の兵は再び石ノ城を攻めた。
このときには先の合戦で苦汁を飲まされた伊集院忠棟は、山から大木を切らせ、これを運んで、石ノ城の下の川へ沈めて浮き橋を作らせるなどの策を用いるなどしてようやく激戦を制した。
少数であった石ノ城の兵は、大軍である島津勢に攻め立てられ、疲労状困憊で、兵糧も水も欠乏したうえでの和睦の申し入れであった。
島津征久は、和睦の使者として前田備後を城中に遣わし、酒、肴、弓矢などを贈り城兵に礼儀を尽くしたという。
石ノ城の背後の峰は高く、周囲の山も険しく巌のように急斜面であり、苔が生えて滑りやすい。
山の中腹にはノコギリの歯のような「切所」があって行く手を阻んでいる。
城の背後の山は山深い米良の山々につながっているので、城の背後からは石ノ城に攻め寄せる道はない。
城の正面、左右の三方は、はるか下まで続く絶壁である。
その絶壁の下を流れる川は、白い波が岩に激しくぶつかるような急流で、所々が深くなっている。
この城は、たとえ守備兵がいなくても簡単にはたどり着けないような難所である。
などと、佐土原藩譜に記録されているという。
武者小路実篤が理想郷とした日向新しき村と隣接している石城址は、発掘調査などは行われたことはなく、その詳細はいまだに分っていない。
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