岩切章太郎 |
岩切章太郎 |
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岩切章太郎 |
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生まれた。 (旧)宮崎中学校、(旧)第一高等学校、(旧)東京帝国大学を 卒業後、住友総本店に勤め、31歳のときに宮崎に帰って家業 を継いだ。 (1) 地方で働くこと。 (2) 旗を振るより旗を見て仕事をする。 (3) 新しい仕事、人がやらない仕事をやる。 と、宮崎に帰るについては3つの基本方針を心に決めた。 1926(大正15)年に宮崎市街自動車株式会社を設立して社長となり、4台のバスで大淀駅(現在の宮崎南駅) と宮崎神宮間に市内バスの運行を開始した。 1931(昭和6)年、「定期遊覧バス」 サービスをスタートさせて遊覧バスの元祖となり全国に名を馳せる。 1936(昭和11)年、日南海岸にフェニックスの植栽を開始する。 1937(昭和12)年、サボテン公園を造園。 1939(昭和14)年、「こどものくに」を開園。 その後、県内のバス会社の買収や合併を重ねて県内全域に路線を拡大し、1943(昭和18)年に宮崎交通株式 会社と社名を改めた。 戦後は宮崎市の橘公園やえびの高原を整備し、宮崎を新婚旅行のメッカとするブームをつくった。 日向興行銀行(宮崎銀行)頭取、宮崎商工会議所会頭などの要職を歴任し、1985(昭和60)年92歳で没。 宮崎にはかって有吉忠一という「一世の名長官」として今日まで県民の語り草となっている県知事がいた。 1911(明治44)年に宮崎県知事に就任してから神奈川県知事として転出するまでの4年間の彼の業績は現在 でも高く評価されている。 神奈川県知事の官舎に訪ねた青年岩切章太郎に有吉は「大学を出たらどうするか」と訊いた。 青年岩切章太郎は「宮崎に帰って”民間知事”になるつもりです」と答えたという。 彼はまさにこのとき有吉に語った”民間知事”の生涯をおくった。 宮崎交通のオーナーとしての交通、観光事業にとどまらず、経営難に陥っていた日向中央銀行の整理、日向建国 博覧会の開催、宮崎鉄道の再建、商工会議所の創立など数々のことを成し遂げた。 岩切章太郎は生涯を宮崎の発展のために尽くした宮崎県民の恩人であると言って過言のない人物である。 宮崎市役所の東南の大淀橋の近いところに岩切章太郎の銅像が建つ。 往年の彼の姿か、親指を外に出した状態で両手を上着のポケットに入れ、穏やかな表情で目をやや細めて立って いる。 彼の視線の先には青島や日南海岸がある。 |
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