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古月和尚は現在の宮崎県佐土原町の出身で、稀代の名僧と言われた人であった。
1750年頃、「東に白隠あり西に古月あり」といわれる程に古月和尚の名は広く全国に知れ渡っていた。
古月は佐土原の大光寺の42代の住職で、寛文七年(1667)、日州佐土原藩の那珂郡佐賀利知枝邑 (現在の宮崎県宮崎市佐土原町)に生まれた。
姓は金丸。
母は瀬川氏で、文殊菩薩に帰依して古月を生んだと伝える。
7歳の時、佐賀利の瑞光院の宗密和尚に書や素読を学んだ。
父母はその素質を知り、佐賀利の松巌寺の一道につかせた。
10歳の時に自ら出家を求めたため 一道によって剃髪され出家。
21歳のときに仏典を学ぶために京都に行く。
さらに全国各地を行脚して修業を重ね、34歳のとき豊後秋岡で古月庵を営む。
38歳のときに大光寺住職の英山に請われ帰国して住職となった。
古月は大光寺の再興に尽力する一方、現在の西都市穂北の水路開削工事にも力を貸した。
古月和尚の足跡は偉大で、とてもこのページで紹介できるようなものではないが、エピソードをいくつか紹介することでせめてその片鱗を伝えたい。
古月が佐土原から備後(広島県)、さらに甲州(山梨県)へと赴いたとき、道中では常に郵便伝令(宿場から宿場までの間の荷物持ち)が彼を待っていて同行し、彼が通過する村では、僧侶をはじめ多くの人々が彼を歓待したという。
甲州からの帰りには江戸に立ち寄り、佐土原藩主島津惟久のもとに1ヶ月滞在した。
その後も古月は薩摩藩主島津宗保、長州藩主毛利宗広、筑後久留米藩主有馬頼徸らに懇切を極めた招きを受けた。
いずれの招きのときも同様、道々で手厚い歓迎を受けたと言う。
古月は訪問先で寺を開山したり、法会を執り行ったりしているが、その間、教えを求める者が古月のもとに昼夜を問わず訪れた。
古月はその教えを乞う人々に丁寧な受け答えをし、人々は彼の言葉を聴き洩らすまいとして最上の尊敬の念を持って接したという。
古月が没したのは訪問中の久留米(福岡県久留米市)である。
古月は久留米で福聚寺を建てているが、その福聚寺の文献には次のようなことが書かれているという。
古月和尚が出家して5年が経った15歳の頃。
大光寺の門前の松の木の下に弁天様を祀ったお堂があり、そこに風変わりな男が住んでいた。
男は昼は町で乞食をして、夜にはお堂を寝ぐらにしていた。
男は学問ができる人であったため、若き古月和尚はその男から夜中に学問を習ったという。
古月和尚「いろは口説き」 を作り住民に伝授した。
宮崎市佐土原町には伝統民俗芸能として「いろは口説き」が盆踊りとして今に残っている。
20人ぐらいのグループで初盆の家々をめぐって供養の踊りをするものだが、 いろは口説きは盆踊りとしては軽快なリズムで心も弾む音頭になっている。
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