小村寿太郎 |
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日本の歴史が繰り返して検証され続けていく中で、小村寿太郎の日本の偉人としての偉大さは、さらに大きな評価がされていくに相違ない。 アメリカ留学から帰国してから寿太郎は25歳のときに司法省に入り刑事局勤務となり、翌年判事となって大阪控裁判所勤務になったが、司法官時代は英語ができるだけの無能な男と評価されていた。 また職務を離れると大酒を飲み女遊びが激しかったため、友人達は大学南校(現在の東京大学)の秀才小村も凡人となったものだと噂した。 寿太郎は、旧幕臣朝比奈孝一の長女町子と結婚した。 町子は美貌の人で教育もあったが家事のことなどは一切できず、我儘な女性であった。 寿太郎は明治17年29歳のとき、外務省に移った。 その頃の寿太郎は、父の寛が作った借金の支払に追われていて、衣服も粗末で、傘も持たず、破れた靴を履き、いつも貰いタバコを吸っている状態であったという。 借金返済の日には家には帰らず同僚や友人たちの家に泊めてもらい、また遊里も隠れ家とした。 昇進は思うに任せず、また父の作った負債の債権者の容赦ない催促と妻町子への不満が重なり、毎日が酒を飲み女と遊ぶという荒れた日々であった。 寿太郎の父寛は飫肥藩の物産方の役人であったが、廃藩置県の後、旧藩士が出資して物産方をひきついで物産会社を設立してその社長に就任した。
設立当初経営は順調であったが、旧藩の事業を独占していたことへの批判が起り、会社を飫肥地区の共同経営とした。その結果、経営は行き詰まり会社は解散を余儀なくされた。 寛は新たに木材の伐採・販売をはじめたがそれにも失敗し、負債は膨らみ、家は没落、妻は去った。 寿太郎と共に大学南校に学んだ友人達は彼の救済方法を話し合い、7人が連帯保証人になって債務を弁済することになり、彼の(父の)負債額を調べたところ父寛が作った2,000円の負債は未払い利息を含めて16,000円にも達していた。 それは寿太郎の150円の月給では利息の支払にも満たない金額であった。 友人達は有力者などに協力を呼びかけ、約5,000円の現金を用意した上で、20人以上に及ぶ債権者の全てを集め、債権額を割り引くのであればこの場で支払うから借用書を返すよう提案をした。 寿太郎はそのことによりそれまでの債権者の取立てからは免れたが、150円の月給の内50円を受け取り、あとの100円は5,000円の借金の返済に充てた。 相変わらず貧乏が続き、翻訳のアルバイトで得る僅かなお金で酒を飲み女と遊ぶ生活であった。 当時の明治政府は旧薩摩藩、長州藩出身者中心の政治であり、飫肥のような小藩の出身の寿太郎が表舞台に出て行くことはとても困難な時代であったが、時の外務大臣陸奥宗光の目にとまり、1893(明治26年)、清国日本公使館参事官に抜擢されたことにより、ようやく寿太郎の活躍が始まる。 1897(明治30年)、陸奥の推薦で第1次桂内閣の外務次官となり、その後駐米特命全権大使、駐清全権特命大使を歴任し、1901(明治34年)には46歳という若さで外務大臣となった。 外務大臣となった寿太郎は、当時中国から撤兵しないロシアを牽制したいと考えていたイギリスと外交交渉を重ね、1902(明治34)年に日英同盟を結ぶことに成功して回避不可能と考えられていた日露戦争に対する備えをした。 1904(明治36年)に日露戦争が開戦すると、当初日本は有利に戦いを進めることができたものの、圧倒的な軍事力を有するロシアに対しては日本の国力ではやがて形勢は逆転することは必至と考えた寿太郎は、早くからロシアとの講和の必要を説く。 しかし優勢にある状況での講和は受入れてもらえず非難を浴びる。 それでも寿太郎は自らの信念を貫き講和条約締結へ動き出した。
しかしアメリカの協力と、寿太郎の粘り強い努力と、巧みな交渉術と、日本政府の譲歩などによりポーツマス平和条約が締結された。 にもかかわらず、日本国民は自国を戦勝国だと思いロシアは敗戦国という認識のない背景での講和条約の内容が多くの日本国民に理解されなかった。 加えて戦争により課せられた重税に耐えていた日本国民には不満足であったため、「日比谷焼き討ち事件」といった暴動が起こった。 ポーツマス条約の内容は次のようなものであった。 1.日本の韓国における政治、経済、軍事の優越権と指導、保護、管理の権利を認める。 2.日露両国は鉄道守備隊を除き満州から撤退する。 3.北緯50度以南の樺太を日本に割譲する。 4.東清鉄道のうち長春以南の南満州支線(南満州鉄道)と、付属地の炭鉱、関東州(遼東半島の南端の一部)の租借権を日本に譲る。 5.沿海州の漁業権を日本に与える。 1908(明治41年)第2次桂内閣で再び外相となった寿太郎は、欧米との不平等条約の改正に成功する。 寿太郎は侯爵の称号を授けられる。
小村寿太郎は1855(安政2)年に生まれ、1861(文久元)年、6歳で飫肥藩校振徳堂へ入学し、1870(明治3)年、15歳で卒業した。 寿太郎の家族は大家族で豊かとはいえない暮らしだったため、寮の雑役をして学費を免除してもらっていた。 寿太郎の目を世界に開かせ、大きな影響を与えたのは「飫肥の西郷」と呼ばれた郷士の先覚者小倉処平である。 小倉から才能を高く評価されていた寿太郎は、14歳の時、英語を学ぶために長崎へ留学し、翌年には大学南校(現在の東京大学)に藩の代表学生として入学している。 その後、1875(明治8)年、20歳の時、文部省の最初の留学生として、ハーバード大学に入学した。 写真は日南市の指定文化財となっている「旧山本猪平家」である。 この敷地の南半分は寿太郎の父寛の屋敷地であったが、寛が飫肥商社事件で没落したために、山本猪平が買い取ってこの建物を建てた。 山本家には寿太郎が飫肥に帰ってきたときのために建てたという言い伝えが残されているという。 1911(同44)年11月26日、57歳で生涯を閉じる。 父親が作った借金のせいとはいえ、金を持たずに同僚たちの酒席に出てはそのたび金を払わなかったことで敬遠された。 外で酒を飲んで遊んでも、金は払わず踏み倒していたに違いない。 しかしそんな状態で乗り切った大胆さが後に外交官としての舞台が与えられたときに発揮され、列強の代表を向こうに回して臆することなく交渉にあたることができたのではなかろうか。 そのことは小国である日本の国益を利するために大いに生きた。 余談ながら、見た目にも貴族的でひ弱な風貌の現在の世襲外交官(達)には寿太郎の不逞不逞しいまでの外交スタイルは真似しようにも到底及ぶものではない。 小村寿太郎の名は、今も日本外交史上に燦然と輝いている。 |
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小村寿太郎誕生の地:宮崎県日南市飫肥 Copyright (C) All Rights Reserved ようこそ宮崎 宮崎mini辞典 小村寿太郎:宮崎県日南市出身 スポンサードリンク 延岡市の土地建物 門川町の土地建物 |
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