内田万寿姫(万寿女)
|
榎原(よわら)神社の摂社に内田万寿姫(万寿女)の霊を祀る桜井神社がある。
万寿女は1620(元和6)年、高鍋藩領の大束(串間市)に生まれた。
高鍋藩秋月氏の末流とも伝えられる内田外記の娘で、父が飫肥藩伊東氏の家臣となった3歳(9歳という説もある)のときに榎原にきた。
父母は万寿女の誕生のときに阿弥陀三尊の来迎があったとし、幼少の頃から神を篤く敬い、常人とは異なっていた。
12~13歳のある夜、万寿女の姿が突然に消えた。
どこに行ったのかは誰も知る由もなかったが、やがて帰ってきた万寿女に行方を聞くと、眠気がさして身が宙に浮き、鵜戸の岩屋に着いたと答えた。
そこですぐに宮女にかしずかれたと言った。
それからも時々そうした現象があり、その度に神様と話をするため鵜戸参詣をしたと語った。
21歳のとき、鵜戸神宮に籠って修業した。
その帰り道、鳥井峠で休憩していたときに狂ったように神がかりした。
そして学んだことの無い神道の典籍や仏書を読解し、講釈するなどして周囲を驚嘆させた。
父親の外記は寿女が魔物に取り憑かれていると考えて、地福寺(かって榎原神社の場所にあった)の住職である精能にお祓いの祈祷を願い出た。
万寿女は「鵜戸の神の神通力を授かったから無駄である」とはねつけ、却って精能が繰り出すあらゆる問いに即座に答えていったため、ついに精能は「この方は神女です」と言ったという。
飫肥藩主伊藤祐久は地福寺の万寿女の説教所を訪れて神意を伺ったとされるが、それには次のような出来事があったとからだいう。
あるとき、飫肥藩江戸屋敷が火事になった。
そのとき、急に屋敷内の井戸水があふれ出て災難を免れた。
不思議に思った江戸屋敷が占いさせたところ、国元の神女の成したことという卦(け)が出た。
また後継藩主争いの折、藩士井之上友右衛門が、反対派に鉄砲で撃たれたが、懐に入れていた神女の「矢違い札」に弾が当たり、難を逃れた。
さらに江戸での藩主毒殺の企てのときには、それを神女が早船で伝えるよう求め、外の浦から飛船で知らせて、間一髪で大事に到らなかった。
こうしたことから藩主祐久の信仰はますます厚くなったという。
万寿女はやがて「榎原の神女、寿法院」と呼ばれるようになった。
一本歯の足駄(高い足の下駄)を履いて鵜戸山と榎原の間を往復した。
自筆の教本をつくり「神典」として説法し、種々の奇跡を示した。
鵜戸山の別当、実融と地福寺の住職、精能は万寿女を宣伝に用いたため、さらに信奉者が増えた。
1656(明暦2)年、万寿女は榎原に鵜戸神宮の神霊を迎えて祀るべしという神の御告げがあったと藩主祐久に告げたことにより、榎原神社が造営されることになった。
万寿女への信仰はますます盛んになったが、その異常ともいえる加熱した信仰心を利用した邪説を唱えるものが現れた。
それは飫肥藩家老の矢野儀一がその邪説を禁止するという行動に出るほどであった。
1669(寛文9)年、万寿女は51歳で病没。
1674(延宝2))年、追善法会が開かれ、廟所は「桜井宮」と呼ばれるようになった。
正一位桜井大権現の追号があり、藩からは神領100石が寄進された。
万寿女の没後、再び万寿女の影響を受けた妄信、邪説が流行した。
矢野儀一の子、儀朝は父と同様、これを禁止したが、それは多くの信者からの反発を招いた。
儀朝の反対勢力はそれを利用して彼にキリシタンとの疑いをかけ、ついには飫肥藩から追放された。
万寿女の霊験を疑い、その排斥を企てると、いずれも追放や没落、さらには死に至ることがたびたびあったという。
周辺の見所 赤池渓谷 赤池神社の大蛇伝説 四浦林用軌道橋脚 真萱水路橋 (いずれも串間市)
|