明倫堂




かって、日向国内には、「高鍋で学者ぶるな」という諺があった。



明倫堂は学問所(藩校)の名前で、尾張、小諸、上田、高鍋、金沢、新庄、大洲、安志、久米村(当時の琉球)にあった。

日向国高鍋藩の明倫堂は秋月種茂が1778年に開いた。

秋月種茂(1744~1819年)は、日向国高鍋藩の第7代藩主で、出羽国米沢藩の第9代藩主上杉鷹山の兄に当たる。

種茂の弟の鷹山は、名門上杉家の養子となり、財政破綻寸前の米沢藩を救った名君として広く世に知られている。



高鍋藩の明倫堂は、藩士に限らず、農民など広く一般庶民にも門戸を開いたのが他の明倫堂とは異なる。

所在したのは現在の宮崎県立高鍋農業高等学校のある場所で、当時は高鍋城三の丸であった。

堂を、行習斎、著察斎とそれぞれ号し、著察斎では高等の教育を施し、行習斎では初等の教育を施した。

即ち、著察斎は大学の制度で、行習斎は小学の制度であった。

行習斎を終了したものが著察斎で学ぶことができるというもので、さらに、著察斎の課程を修了したものでなければ士籍に列することができないというくらいであったという。

行習斎では、孝経、大学、論語などの素読や、孝経、小学内外篇の講義、礼式、書道、数学を教授した。

著察斎では、講読、会読の他、教授への質疑や典籍の科目は自由であった。



明倫堂の書庫は土蔵造で、現在は高鍋町立高鍋図書館構内に蔵書とともに改築されている。

この高鍋藩の明倫堂からは、三好退蔵、秋月左都夫、石井十次などが出ている。



一方、種茂の弟の鷹山は、上杉綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を米沢藩の藩校、興譲館として再興した。

興譲館は現在の山形県立米沢興譲館高等学校であるが、興譲館においても高鍋藩の明倫堂同様、藩士や農民など身分を問わず学問を学ばせた。


明倫堂|宮崎県児湯郡高鍋町

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