耳川の合戦





日向市美々津の耳川河口近くに日豊本線の美々津鉄橋がある。

耳川の合戦は、そこから川上の500~600メートルのところで繰り広げられた。



1572(元亀3)年、当時の日向国を広く支配していた伊東義祐は、島津義弘との木崎原(きさきばる)の合戦で大敗した。

1575(天正3)年、櫛間(串間)、志布志の島津軍と戦う。

1576(天正4)年、島津軍は伊東氏の高原城を攻略する。

1577(天正5)年、島津軍は伊東氏の本城である都於郡城を攻めると、伊東氏は豊後の大友氏を頼って、険しい山道を命からがら逃避した。



1578(天正6)年、大友宗麟は、豊後を出て日向に入り、先ず、縣(あがた=延岡地方)の土持氏を攻めた。

43,000の兵を擁する大友軍はさらに南下し、先鋒の佐伯宗天・田北鎮周等は新納院高城(木城町にあった山城:以後高城とする)を攻撃した。

しかし、高城の援軍に来た島津家久率いる3,000の兵が高城に入城するのを阻止できず、その後、戦いは一進一退となった。  

大友軍は高城に対して攻略戦を行ったが、城は固くして容易に落とせなかった。

そればかりか、いたずらに兵力を消耗するだけの結果となった。

その後、城を包囲し、外部との通行を遮断して兵糧攻めに作戦を変えたが、高城内の兵糧が尽きかけた10月22日、島津義久の率いる軍勢が佐土原に着陣し、数日後には飯野の島津義弘も財部城(現在の高鍋町)に到着した。

そして、島津軍は大友軍と高城を挟んで対峙した。



一方、野津(大分県)に後詰していた大友義統は、相良義陽(肥後国)と呼応して肥後から日向に連合軍を進攻させる作戦であった。

大友義統は志賀親教・同鑑隆・朽網宗歴・一万田宗慶等を肥後に送り込んでいたが、これらの武将はもともと日向攻めに反対を主張していた武将達であったため、相良勢と合流することなく、1ヶ月以上も肥後から動かなかった。

大友軍の総大将である田原紹忍は、少勢の島津軍を力攻めせんとして小丸川を渡った。

そして11月12日、高城周辺で島津と大友の両軍が激突した。

このとき大友軍は島津軍を追撃していたことにより陣形が長く伸びていた。

島津軍は大友軍に対して、正面から島津義弘、側面から島津義久、高城からは島津家久が三面攻撃を仕掛けた。

これにより、大友軍は壊滅的な打撃を受け、全軍北へ敗走した。



大友軍は耳川の北岸で軍を立て直し、一方、島津軍は南岸に押し寄せ、そこで再び激しい追撃戦(耳川の合戦)が繰り広げられた。

大友軍は全軍の統制がとれず、後陣より崩れはじめ、やがて総敗軍となった。

大友軍はこの耳川の戦いで4,000人あまりの兵士が戦死したが、耳川の急流で溺死した者や、川を渡るときに攻撃されて殺されたものも多かったっという。

この戦いは島津軍の大勝に終わり、大友軍は豊後に引き返した。

この時を境に島津氏の日向国支配が本格化していくことになる。

        うつ敵は 龍田の川の 紅葉かな     島津義久

耳川の合戦|宮崎県日向市美々津 

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