縄文時代に日本で発生した海水面の上昇を「縄文海進」といい、海面は今より3~5メートル高かったと言われる。
縄文時代前期の約6,000年前にそのピークを迎えたとされ、気温は年平均で1~2℃高く、日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んいた。
当時の御池(みそぎ池)一帯は海だったが、その後に繰り返された海進と海退の過程で複数の砂丘ができ、それらの砂丘周辺に降った雨や湧水がいくつかの湖沼となり、さらに時の経過のあとに御池が残り現在に至ったと考えられている。
御池は御池様と地元の住民に呼ばれてきた。
昔は鬱蒼とした森に覆われていて御池に至る道はなかったという。
また、「御池の西の森には大蛇が棲んでいる」と言われていて、人を容易に寄せつけない神秘的な聖域であった。
流れ込む川も、流れ出す川もないが、池の底からはいつも懇々と水が湧いている。
日照りが続いても干上がることはないので、田の水が足りなくなると近隣の村人が雨乞いに来て神主を池に投げ込んだという。
そうすると、いつも不思議なことに雨が降ったという。
伊耶那岐(いざなぎ)は妻の伊耶那美(いざなみ)を追って黄泉(よみ)へ行った。
伊耶那岐は決して覗かないようにという伊耶那美との約束を破りその姿を見る行為に及んだ。
それは腐敗してウジがわき、雷(いかづち)にまみれた変わり果てた伊耶那美の姿であった。
恐くなった伊耶那岐は逃げ出したが伊耶那美は追いかけてきた。
必死で振り切って、やっと黄泉と地上との境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の地上側出口まで来ると、そこを大きな岩で塞いだ。
岩を挟んだ激しいやりとりがあり、伊耶那岐は伊耶那美は憎しみあって完全に離縁した。
「蘇(よみがえ)る」とは「死んだもの、死にかけたものが生きかえる」という意味で使われるが、このときの「黄泉帰り(よみがえり)」を果たした伊耶那岐の神話が転じた結果であることは言うまでもない。
伊耶那岐は黄泉の穢れを祓うために「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」で禊を行った。
この御池(みそぎ池)がその禊が行われた聖域として伝わる。
山崎上ノ原第2遺跡、山崎下ノ原第1遺跡は御池の近くの砂丘上にある。
最近の調査の結果、主に古墳時代から古代にかけての多くの遺構・遺物が検出され、遺跡周辺の海岸部の砂丘に人が住んだ痕跡が多く残されている。
古代において御池の一帯には人々の豊かな営みがあったことを窺い知ることができる。
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