内藤政挙(ないとう まさたか:1852~1927)は延岡藩の第8代藩主で最後の藩主となった人物である。
延岡藩内藤家宗家13代。
1852(嘉永5)年、遠江(とおとうみ:静岡県)の掛川藩主太田資始(すけもと)の3男として生まれた。
1860(万治元)年、延岡藩の第7代藩主内藤政義の養子となった。
1862(文久2)年、政義が隠居したため、家督を継いで第8代藩主となる。
政挙は実家である太田家、養子先である内藤氏ともに徳川家譜代の大名だったことから、1864(元治元)年の第1次長州征伐、1866(慶応2)年の第2次長州征伐、1868(慶応4)年の鳥羽・伏見の戦いではすべて江戸幕府側として戦った。
鳥羽・伏見の戦いは幕府軍が敗れ、倒幕軍より罪に問われて謹慎させらた。
1869( 明治2)年、版籍奉還で延岡藩知事に任じられる。
1871(明治4)年、廃藩置県で藩知事に免官。
1876(明治9)年、東京でに宮中勤番を命じられる。
1881(明治14)年、宮中祗候に任じられ、1884(明治17)年の華族令で子爵に列せられた。
慶應義塾に学んだ政挙は、慶応義塾より教員を招いて延岡に亮天社(りょうてんしゃ)を設立した。
1875(明治8)年、延岡社学から「亮天社」と改称された学問所は、1889(明治22)年に宮崎県立尋常中学校(現宮崎大宮高等学校)が設置されるまでの16年間は、宮崎県内唯一の中学校であった。
亮天社の生徒の月謝は受け取らず、教科書も無償貸与、教職員の給与を含めた運営費のすべてを内藤家が負担した。
政挙が慶應義塾に学んだことから福澤諭吉との関係もあり、亮天社の卒業生は無試験で慶應義塾に入学できた。
また、政挙は女子の教育にも尽力し、女児教舎(のちの延岡高等女学校)を設立した。
内藤家は華族ではあったものの、経済状態は豊かとは言えず、貴族同士の交際にも窮していたが、1890(明治23)年、延岡に帰り、江戸時代より藩の鉱山であった日平鉱山の再建に乗り出した。
旧家老の原小太郎時行を日平銅山の総裁とし、最新の技術を取り入れた結果、明治期の日本有数の鉱山となる。
このとき、鉱の湧水を汲み上げるために五ヶ瀬川に発電所を設けて電力事業(延岡電気所)にも着手。
1896(明治29)年には日平尋常小学校を設立し、1912(大正元)年には見立尋常小学校を設立する。
「延岡の父」と呼ばれている内藤政挙の銅像は、城山城址の広場の中心にあって、今も広く延岡市民に愛されている。
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