
根白坂古戦場跡は、木城町から西都市へ向かう旧道として茶臼原大地に上る椎木坂の頂上付近に位置すると言われる。
この周辺の小字名は、陣ノ内と呼ばれ、いかにも戦国時代の陣跡を連想させる地名となっている。
根白坂古戦場跡は、天正15年(1587年)、大友氏から豊臣秀吉への援護の求めに対して豊臣軍が出陣し、その弟である羽柴秀長が率いる軍勢が戦いのために砦を築き、島津軍との間で激しい戦いが行われた所である。
天正6年(1578年)の「高城の戦い」、それに続く「耳川の戦い」において大友氏を破った島津氏は、九州内での勢いを増していた。
天下統一を目前にした豊富秀吉は島津氏と戦って敗れた大友氏の頼みを受け入れ、九州に遠征して島津氏に戦いを仕掛けた。
豊臣軍は宮部継潤が根白坂に砦を構築し、その左右の高台にも陣を構え、それぞれに計1万5千程の兵を配して島津軍との戦いに備えた。
一方の島津軍は、高城城主である山田新介有信の奮闘によって(通称)「高城の戦い」において大友軍を破ったが、その9年後、豊臣軍から城を包囲され激しい攻撃を受けていて、その間しきりに都於郡城の島津軍に援軍を求めていた。
高城が落ちるということは島津氏の九州征服の道が閉ざされるという意味を持ち、瀬戸際に立たされた島津軍は義弘、義久が2万の精鋭部隊を引き連れてこの根白坂の豊臣軍を夜襲した。
宮部継潤は、あらかじめ深さ2間(3.6m)幅3間(5.4m)程に堀を設け、さらに堀の際には土塁を盛って、2間程の木や竹の柱を立てて柵を作り、その中に鉄砲隊を置いた。
これに対し勇猛な切込みで知られた島津軍は、この一戦に決死の覚悟で臨んだ。
島津軍による猛烈な戦いが幾度も繰り返されたが、根白坂の砦の守りは堅固で、容易に乗り越えることは出来なかった。
その上、豊臣軍の著しい兵数・鉄砲の数量に圧倒され、島津軍は死者三百余人、負傷者数百人に及び、遂に付近の村々に火を放ち、薩摩へと逃げ去った。
その後、島津義久は、羽柴秀長に降伏を申し入れ、秀吉に赦された。
島津側の高城は最後まで抗戦し続けていたが島津義久の説得により城主の山田新介有信は開場し、九州の戦国時代に終止符が打たれた。
(宮崎県児湯郡)木城町の地名は、根白坂古戦場跡のある椎木の『木』と高城の『城』を組み合わせて『木城』としたのが始まりである。
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