佐土原城

佐土原城

佐土原城


佐土原城画像


佐土原は昔から交通の要所であった。

古くは『延喜式』にみえる官道の当磨(たいま)駅が田島地区(佐土原)であるといわれている。



鎌倉時代に工藤祐経は奥州征伐の功として源頼朝により日向国の地頭職に任ぜられた。

工藤祐経の庶子伊東祐時は1198年、日向国の県庄、富田庄、田島庄、木脇庄などの地頭職を受け継ぎ、祐明、

祐景、祐頼(いずれも祐時の子)を代官として日向に派遣して、三人の伊東氏はここに日向の国に土着すること

になる。

伊東祐時の四男である伊東祐明は、一族を引き連れて日向国田島荘に下向した。

祐明はそれより自らの領地の地名の田島を名乗った。



田島伊東氏は8代休祐(きゅうすけ)のときに男子がいなかったこともあり都於郡の伊東祐賀(すけよし)が入り主

となった。

佐土原城はこのころに休祐によって築城された。

当時、領主の伊東氏は奈良から仏師を招いて大仏を鋳たり、京都や奈良を真似て神社仏閣を作ったりして、町づ

くりを行い、現在も当時の地名が数多く残っている。

伊東氏のこの時代の事業によって巨田神社や大光寺などに国の重要文化財が多く残っている。



戦国時代になると佐土原城は伊東氏の中心的な城郭で、特に伊東義祐が居城したころは全盛期であり、城を要

害堅固に改修して、日向四十八城に諸将を配し、権勢を振るった。

佐土原は伊東氏が日向国の大半を支配する中世には、交通、戦略上の要所であり、飫肥や都城方面への進攻

は佐土原城が拠点となっていた。



1572(元亀3)年、木崎原の戦いに大敗して、1577(天正5)年に日向を去って豊後に落ちると、島津氏義久、

義弘の末弟島津家久が佐土原城に入る。

1587(天正15)年島津氏は豊臣秀吉に下るが佐土原はそのまま家久に安堵された。

1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで有名な島津義弘の退却戦の殿(しんがり)を務めて戦死した島津豊久は家久

の子で、佐土原城主であった。



関ケ原の戦後の一時期は徳川氏の支配となったが、1603(慶長8)年、徳川家康は島津以久(ゆきひさ)を大隅

垂水から佐土原3万石に封じ、翌年以久は佐土原城に入城した。

このときの佐土原城は、伊東義祐が伊東氏全盛のころに城山に築城したもので、2重の天守と数郭の櫓門をもつ

ものだったという。

1625(寛永2)年、2代藩主忠興(ただおき)は、財政的理由からこの城をこわし、居城を城山の下の二の丸に移

し、以後明治維新まで本城となった。



佐土原藩は幕末から維新にかけて薩摩藩と共に勤皇方で活躍して、明治新政府の樹立に功があった。

二の丸に移した城は1870(明治3)年、藩庁を広瀬に移したあとにこわされた。

1989(平成元)年に発掘調査が行われ、現れた柱穴、根石などの遺構に基づいて二の丸跡に大広間、書院、数

奇屋が復元された。



江戸幕府は大名統制のために参勤交代を厳しく行い、そのために街道や宿場が整備された。

参勤交代の行列は譜代の延岡藩を除き、すべて細島を通るきまりがあったため、佐土原は細島と各地をつなぐ

要地であった。

高岡、都城、鹿児島方面、綾、小林方面、宮崎、飫肥方面、米良、人吉方面などの往き還りなどはすべて佐土原

を通過した。

一般民衆の四国遍路、伊勢参り、金毘羅参詣なども佐土原を通って往って、そして還った。



関連ページ(歴史): 
飫 肥 都於郡城 穆佐城

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佐土原城跡歴史資料館「鶴松館」地図:宮崎県宮崎市佐土原町


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