明治10年8月15日、和田越えの戦いに敗れた西郷軍は俵野(ひょうの)の児玉熊四郎宅に宿陣した。
翌16日には諸隊に対して解散令を出した。
重要書類や当時日本で唯一の陸軍大将の軍服もここで焼いたとされている(写真)。
17日の軍議は、降伏か、決戦か、突破か、選択を迫られた。
同日午後4時、西郷は「全軍まず進んで三田井(高千穂)に出、然る後、その方向を決するも晩からず」、との決意を表明した。
同日午後10時、可愛嶽(えのだけ)突破戦の部隊編成が発表された。
前軍指令に河野主一郎、辺見十郎太。中軍指令に桐野利明、村田新八。後軍指令に中島健彦、貴島清とし、総勢約600であった。
18日午前4時半、英式ラッパ一声を機に西郷軍の総攻撃が開始された。
ふいを突かれた官軍は総崩れとなり、第一旅団の野津少将は日の谷へ、第二旅団の三好少将は屋敷野の前衛隊に逃れた。
可愛嶽突破に成功した西郷軍は西に進み、和久塚地蔵谷で一夜を明かし、上祝子(かみほおり)さらに一夜を明かし、20日、鹿川を越し、鹿児島への途についた。
西郷が宿陣した児玉熊四郎宅は、昭和8年12月5日に県指定史跡となった。
その後西郷隆盛宿陣跡資料館として一般に開放され、西郷隆盛が愛用した硯、枕などの遺品の他、種々の戦争資料が展 示されている。
延岡市北川町にはこの他にも陸地(かちじ)、矢ヶ内、宗太郎峠など数多くの激戦地跡や宿陣 の跡(吉祥寺、旧小野彦治宅)野戦病院跡(成就寺)中津大四郎(滝口隊長)、小倉
処平(飫肥隊)の自刃の地など多くの史跡が点在している。
|