桜川と桜川物語
はるかなる昔から、桜川は人々に知られており、木花開耶姫(このはなさくやひめ)を偲ぶ桜や清らかな流れが、古歌に歌い残されている。
筏師も さおさし捨てて桜川 今を盛りの 花や見るらん 読人不知
また室町時代の世阿弥元清(1363~1443)が作った謡曲「桜川」の舞台となった桜川だと伝えられて来た。
貧しい母子が、桜馬場に住んでいて、互いに思いやる親子の愛情と、悲運のドラマが語り継がれている。
木花開耶姫に願をかけて、やっと授かった子と母が、桜馬場でひっそりと暮らしていた。
子供は御神木の桜の木にちなんで、桜子と名づけられた。
桜子は亡夫の形見の一人息子だった。
ところが或る日、大事に育てていた桜子が東国の人買いに我が身を売り、その代金と手紙を人買いに託し、東国へと立ち去って行った。
手紙には、「貧しさ故に仕方なく我が身を売りました。お名残惜しいのですが、このお金で仏門に入り、幸せに暮らしてください」とあった。
母は嘆き悲しみ、「神様どうか桜子をお守りください」と祈り、そして桜子を探し求める旅に出た。
母は見も心もボロボロになり、狂女のようにして桜子を探してさまよい、三年の後、常陸の国磯辺の桜川(茨城県岩瀬町)にたどり着いた。
磯辺の桜川は花見客でいっぱいだった。
母は風に舞う桜の花びらを桜子への愛しいと思いを重ねるように手のひらにすくい、そして抱きしめた。
そして 「この川は桜川、探しているのも桜子というのに、なぜ我が子は姿を見せてはくれないのか」とつぶやきながら涙で袖を濡らしていた。
桜子は磯辺寺で修業の身であったが、その日はたまたま住職に連れられて桜川に花見に来ていた。
住職は狂女が花びらをすくう姿に深い訳がありそうなので尋ねてみた。
すると、狂女は突如正気に戻ってこれまでの一部始終を語りはじめた。
住職は聞いているうちに桜子の母に違いないと悟った。
そしてすぐに桜子を狂女に引き合わせると、桜子は変わり果ててはいても母だとわかった。
桜子は、「母上、母上」と母を抱いて泣き崩れ、母もまた、「桜子、桜子」と泣いて我が子の名を呼び、感極まる再開を果たした。
その後、母子は磯辺寺を放れ、再び日向の桜馬場に戻ると、仏門に入って幸せに暮らした。
旅衣 濡らす常陸の桜川 日向の里に 思いはしらす 野口龍学
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