静養館 |
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![]() 明治12(1879)年、「アメリカン・ボールド」というキリスト教伝導団体が、岡山市東山に宣教師宿泊として三棟建てた。 この建物はその内の一棟で、当時は「ベレ(リ)ー館」と呼ばれた。 ジョン・シー・ベリー(John Cuting Berry 1847~1930)の宿舎である。 彼は宣教医として、明治5年来日。主に神戸で活動していたが、明治12年、岡山県知事高崎五六がベリーやペテー等を病院や英学校の医師、教師てして招聘したのである。 しかし、同志社(明治8年創立)の新島襄の要請を受けて同志社病院および看病婦学校の創設に参画。明治16年、岡山を離れた。 同志社病院、看病婦学校は、明治19年開設され、ベリーは初代の病院長になった。 ちなみに、石井十次の二番目の妻石井辰子は看病婦学校6期生。 明治29年、同志社の所有となっていた「ベレー館」を石井十次は購入し、岡山孤児院内に移築。園舎や事務所等として使用した。名前は「西洋館」と呼ばれるようになった。 石井十次は、この茶臼原に遠大な理想を描いて、明治27年から岡山より移住を始める。 彼のやり方は、児童、職員を運ぶだけでなく、建物も次々に解体して運ぶという破天荒なものであった。 舟で瀬戸内海から太平洋をく下り、高鍋に着くと、馬車に積み替え、10キロの山道を何十回となく往復し、運んだ。
茶臼原に忽然として、岡山風の瓦葺き漆喰の建物が立ちな並ぶ。
明治末期にはほぼ移住も完了。
最後にこの「西洋館」も移築する(大正2年)。
「西洋館」は、石井十次の最後の住まいとなり、名前も「静養館」と変えられた。
石井十次はなぜ建物まで運んだのか。 経済的にはおそらく不利であったのに、彼は移築を断行した。 それは、建物の一つ一つは、日本中の多くの支援者の善意の結晶であり、職員、子供達の愛と涙がしみこんでいると考えたからである。 |
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静養館:宮崎県児湯郡木城町大字椎木644−1 Copyright (C) All Rights Reserved ようこそ宮崎 宮崎mini辞典 スポンサードリンク 宮崎市の土地建物 延岡市の土地建物 門川町の土地建物 |
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