安井滄洲 (やすいそうしゅう)は1767(明和4)年、清武郡中野に生まれた。
6歳で父に死別したあと、叔父の日高源助から漢詩、俳句、和歌、四書などを学んだ。
幼少の頃から学を好み、占師に「この人については言う言葉がない」と言わせるほど異様な眼光をもった子供であったという。
当時、武士の間では、勉学より武術を重んじる風潮がつよく、滄洲は「孔子が来る、孔子が来る」としばしば嘲けられたが、滄洲は気にすることもなく勉学に励んだ。
滄洲は、「この世に生まれたからには、何か人の役に立つことを成せねばならぬ」と、地頭所の建物を使わせてもらい、近くの子供達に四書を教えた。
これが清武郷の文教の始まりと言われ、そこで学ぶ子供達も次第にふえていった。
1804(文化元)年、38歳で主君の江戸参勤に加わった折、古屋昔陽に学び、帰途に京都に滞在して皆川淇園にも学んだ。
清武に帰ると、この間のことを「尚白集(しょうはくしゅう)」にまとめた。
48歳で中野学問所の教授となり、1827(文政10)年に、明教堂(めいきょうどう)を開いた。
1831(天保2)年、飫肥藩校である振徳堂が開学されると、藩主伊東祐相(すけとも)から総裁に命じられた。
滄洲は飫肥に移り、振徳堂の経営と教授にあたった。
その後、病を患い、総裁に就いて僅か4年、1835(天保6)年、69歳で没した。
紀行文10冊、詩稿139編、随筆が残っている。
写真は、左が滄洲が総裁を勤めた振徳堂、右が子の息軒の生家。
息軒の生家は国指定文化財として「安井息軒旧宅」と呼ばれている。
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