宗麟原供養塔


 
国指定史跡 宗麟原供養塔



天正6年(1578年)、日向国に島津氏討伐のために進攻した豊後の大友宗麟の軍勢と、これを迎撃する島津の軍勢が高城河原(現在の木城町)で激突した。

天正6年6月、島津に負けて豊後の大友氏を頼って落ち延びた伊東義祐は、日向に戻って石ノ城(木城町石河内)を修築して長倉祐政、山田宗昌を配した。

同年8月、宗麟は3万5千の兵を率いて牟志賀(むしか=延岡市)に本陣を置いた。

同年9月、島津義久は島津征久(後の佐土原藩主)に石ノ城を攻めさせて、これを落とした。

同年10月、大友軍は高城(木城町)城下を焼き払い、いったん鹿児島に帰っていた島津義久は再び日向に入り、根白坂(木城町)に陣を置いた。



同年11月、島津軍と大友軍は高城川を挟んで対峙し、12日の早朝、大友軍は高城川を渡って島津軍を急襲した。

対する島津軍は、軍を5つに分け、3方から大友軍を攻めた。

このとき高城河畔堕逆ケ渕(だげきがふち)で数百人が溺死し、また、名貫原(なぬきばる)では柳川城(福岡県柳川市)主の蒲池宗雪、岡城(大分県竹田市)主の竹田紹哲など、300人以上の戦死者を出した。

島津軍は敗走する大友軍を追って耳川(日向市美々津)に至り、ここで通称「耳川の合戦」に及ぶが、高城から耳川にかけての一帯は屍で埋り、また、島津、大友の決戦の地となった耳川には追い詰められて溺死した兵士の数はおびただしいものであったという。

戦いから7年経た天正13年(1585年)、ここに六地蔵の石塔が建立された。

供養塔の背後の供養塚は、80尺四方の板塀で囲まれ、南側に溝で囲まれた40尺四方の祭場が付属していたことが確認されている。

供養塔は当時の高城の地頭、山田新介が宮崎から舟で運ばせて建立させたもので、そのときに盛大な供養祭が行われた。

供養塔は昭和になって国の史跡に指定された。

ここではこの石塔を「かんかん仏」と呼び、この辺りを「宗麟原」と呼んでいる。

現在、毎年11月11日に供養祭が行われ、近くの多賀小学校の児童による「かんかん音頭」が披露される。




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