住吉神社由緒 御祭神:上筒男命、中筒男命、底筒男命(住吉三神)
当地は、日向灘に臨む沿岸に位地しており、「古事記」、「日本書紀」に伊弉諾(いざなぎのみこと)がお亡くなりになった(妻の)伊弉美(いざなみのみこと)を慕ってお入りになった黄泉国より逃げ帰り、禊祓をされたという「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」の聖地である。
この時、天照皇大神を始め住吉三神他多くの神々が誕生されている。
古歌 西のうみ 檍ケはらの汐路より あらはれ出でし 住吉の神 卜部兼直(鎌倉時代初期の新道家、歌人)
社殿の創建については、社伝によれば、第6代天皇孝安天皇の御代と伝えられており、創建より約2400年という由緒ある神社と言われている。
又、神社に古くから伝わる社紋(写真参照)は全国2000余の住吉神社の元宮の標であると伝えられている。
古歌 尋ね来て 聞けば心の住吉の 松のあをきが 原の松原 橘三喜(江戸時代初期の神道家)
第14代天皇仲哀天皇の皇后、神功皇后の三韓平定のおり、(住吉三神の)神威を輝かせたことは世に名高い。
住吉三社は、和歌の祖神・海陸交通の神・武運商運の神・農業安産の神、又は、家内安全・国守の神として信仰が厚く、古くより参拝者が絶えなかったが、社格は旧村社で終っている。
住吉三神の誕生
黄泉国から帰った伊弉諾は「日向の橘の小門の阿波岐原(ひゅうがのたちばなのおどのあはきはら)」で禊をした。
その時に、身につけていたものを投げ捨てると十二柱の神々が出現した。
杖から衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)、帯から道之長乳歯神(みちのながちちはのかみ)、袋から時量師神(ときはかしのかみ)、衣から和豆良比能宇斯能神(わづらひのうしのかみ)、袴から道俣神(ちまたのかみ)、冠から飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)、左の手纏(たまき)から奥疎神(おきさかるのかみ)、
奥津那藝佐毘古神(おきつなぎさびこのかみ)、奥津甲斐辨羅神(おきつかひべらのかみ)、右の手纏から邊疎神(へざかるのかみ)、邊津那藝佐毘古神(へつなぎさびこのかみ)、邊津甲斐辨羅神(へつかひべらのかみ)である。
黄泉国から身に着けていたものを全て捨て去ると、次に伊弉諾は流れに入る事にしたが、「上流は流れが速すぎる、下流では弱すぎる」と言い、 中流の瀬に浸かった。
この時、黄泉の国の穢れによって誕生した神々は 八十禍津日神(やそまがつひのかみ)、大禍津日神(おおまがつひのかみ)、そしてその穢れを直そうとして誕生した神々は
神直毘神(かむなほびのかみ)、大直毘神(おおなほびのかみ)、伊豆能売神(いづのめのかみ)である。
次に 漱いだ水の底から誕生した神は 底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)、底筒之男神(そこつつのおのかみ)、漱いだ水の中ほどからは 中津綿津見神(なかつわたつみのかみ)、中筒之男神(なかつつおのかみ)、漱いだ水の上からは上津綿津見神(うわつわたつみのかみ)、上筒之男神(うわつつおのかみ)が出現した。
このとき誕生した三柱の綿津見神は阿曇連=あづみのむらじの祖神である。
そして上筒之男神・中筒之男神・底筒之男神が住吉神社の御祭神の住吉三神である。
最後に伊邪那岐命は顔を洗った。
この時左目から天照皇御神(あまてらすおおみかみ)、右目から月讀命(つくよみのみこと)、鼻から建速須佐之男命(すなのおのみこと) が誕生した。
つまり、住吉三神は天照皇御神の兄神ということになる。
伊弉諾は伊弉美との間に日本国土を形づくる多数の子をもうけたが、伊弉美と離縁すると今度は単独で沢山の子(神)をもうけた。
それは伊弉美の「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」という脅しに、「それなら俺は、1日1500の産屋を建てよう」と応えたものであった。
住吉三神はそのような経緯から誕生した神々であるが、宮崎の住吉神社は三神の誕生の聖地、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」近傍の住吉神社であり、その一点をもってしても、つまらぬ社格などに関わらず(江田神社同様)大変重要な意味をもつ神社である。
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