高橋福治

高橋福治の銅像 

【沖縄盲学校初代校長 高橋福治】

高橋福治は宮崎県延岡市に生まれた。

4歳のとき、樫(かし)の木の枝が目に刺さって失明し、その後、大分盲唖学校で17年間学んだ。

そのころ、高橋は社会科の授業で学んだ「沖縄」に興味をもったという。

その後も沖縄には強い興味を持ち続け、卒業後の1920年、沖縄県に対して一通の信書を送った。
 
「沖縄では、あん摩の試験を実施していますか?」、「目の見えない人はあん摩で生計を立てていますか?」、「あん摩を勉強する学校はありますか?」という内容のものであった。

沖縄県の答えは三つとも「いいえ」であった。

高橋は沖縄に盲学校がないことが分ると、鹿児島港より沖縄行きの船に乗り、那覇にむかった。
1920年(大正9年)3月16日、高橋は24歳であった。
那覇港に翌々日3月18日に到着し、初めて沖縄の地に降り立った。

高橋は那覇市と熱心に交渉し、那覇市公会堂の一隅を借りることに成功した。
そして3人の盲人に点字の読み書きを教え始めた。

当初、沖縄の人々は高橋のことを冷ややかに見ていたという。
高橋は生活の貧しかった生徒たちから月謝をとらなかったので、午前中に生徒たちに教えたあと、午後はあんま治療などの仕事をして生計を支えた。

高橋は1921年に沖縄県立沖縄盲学校の前身である「沖縄訓盲院」を、那覇市天妃町に設立する。
そして約20年を経た1940年には沖縄訓盲院は沖縄県立代用私立盲学校と県立になり、さらに1943年には「県立盲ろう唖学校』となった。

同校はその後も合併や閉校などを経て現在も高橋の意思を受け継いで目の不自由な人々の教育に取り組み続けている。

高橋は生前、盲学校建設のための土地を求め、1960年、自己の所有地811坪を盲人福祉協会寄贈した。
沖縄が本土に復帰して2年後の1974年3月、寄贈された土地に、地下1階地上4階建て(延べ床面積900平方メートル)の「沖縄盲人福祉会館」が建設された。

高橋はその功績が認められ、1974年5月にヘレンケラー賞を受賞したが、同年12月、79歳でこの世を去った。



高橋福治:宮崎県延岡市出身

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