当社は神武天皇御東遷のとき美々津港より御船出し給うに当たり、御航海の安全を御祈念せられて、この埠頭に住吉大神とも申し奉る底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神を奉斎し給うたとて、第12代景行天皇の御代に創祀されたものである。
そのご多くの変遷隆替を経ましたが、貴き伝説と特異の行事などは、いまもなお連綿として継承されています。 かくて永禄の頃より地頭の崇敬あり、祭礼行事も盛んになっていました。
しかるに天正6年(約440年前)大友氏と島津氏との戦火(耳川の合戦)にあい宝物、文献、記録など皆烏有に帰したのであります。
その後、再興し寛文宝永のころ完全に旧観に復して、領主より神領を供せられて社殿増築をなし、また神事あるごとに寄進あり、かくて明治初年まで歴代藩主の崇敬せられた神社であります。
さらに境内には「神武天皇御腰掛の岩」があり、玉垣を巡らして岩そのものをご神体として崇拝しています。
明治4年「郷社」に烈格やがて昭和9年は神武天皇がお船出せられてちょうど2600年に相当するので、これを記念して国家的大祭典を挙行せらるるよう県当局へ申し出しところ承諾され、ついに秩父宮殿下を総裁に仰ぎ松平頼寿伯を会長に酒井忠正伯と君島知事を副会長として全国的な御東遷2600年祭典が斎行されました。
当社記念事業としては(1)境内を更に拡張整備した (2)竜神バエの岩上に住吉灯籠(とうろう)を模したる 神のみあかし灯台 が設置された (3)日本海軍発祥の地の記念碑が建立された (4)おきよ丸御東行巡路漕舟大航軍を挙行された。
これは日向国の青年150名が漕舟して美々津港を船出し途中天皇がその昔御寄港せられたという由緒あるところに寄港しつつ、その月 浪波に上陸御楯を奉持陸路 橿原神宮に奉納した未曾有の大行事でありました。
立磐神社由緒 まとめ 宮司 橋口朝典 (境内碑文) |