稚児ヶ池は西都市の西都原古墳群近くにある溜池で、下流の水田約1haの農業用水として活用され、その築造は江戸時代以前と されている。
毎年4月から10月にかけては、ペダルボートが運営され、市民の憩いの場として利用されている。
稚児ケ池の名前の由来となった伝承がある。
昔、稚児ケ池は鶴の池と呼ばれていた。
ある日大雨が降りつづき、池の堤が決壊した。
近隣の村々は水に浸かり、田んぼの稲も畑の作物もすべて台無しになってしまった。
人々は途方にくれていた。
すると誰彼なしに昔から村に伝わるこんな言い伝えを言いはじめた。
『昔、鶴の池ん棲んじょったっちゅう2匹の大蛇がこん池ん底ん埋められちょるっちゅうが、そん大蛇ん霊が暴れたっちゃねぇじゃろかい』
『人柱を立てて大蛇ん霊を鎮めんとまたこんげなこつがおくる』
人々がそんな話をしているときに少年が通りかかった。
14歳になる長千代丸というその少年は、『明日の朝、浅黄色の着物を着た人がここを通ります。その人を人柱にするといいでしょう』、と言って立ち去った。
人々は、少年の言葉に疑いをいだいたものの、翌朝同じところで待っていた。
すると、長千代丸の言った通り浅黄色の着物をきた人がやってきた。
近づいて来ると昨日の長千代丸であった。
長千代丸は、『私を人柱にしてもう一度頑丈な堤をつくってください』というと、その場で腹を切って果てた。
長千代丸の亡骸は大蛇の霊を鎮めるために池の底に埋められた。
人々は再び堤の工事に取り掛かり、それまでよりもっと頑丈な堤をつくりあげた。
それ以来、稚児ケ池の堤は一度も決壊することはなかったと言う。
また次ぎのような伝承もある
足利時代、穂北の城主壱岐加賀守義道は、鶴の池付近は泥が深く、大雨のたびに水が氾濫して、百姓が困っているのを見て、池に東西百間にわたる堤を築かせた。
多くの人手と時日とを要したが、完成すると間もなく、一夜の豪雨であっけなく決壊した。
完成したばかりの堤が決壊するとはよくよくの事と考えた義道は近くの石貫大明神に伺いをたてた。
すると、大蛇の霊を鎮めるための人柱をたてるようとのお告げがあった。
ここでは大蛇の言い伝えは石貫大明神のお告げとなっており、さらに、長千代丸については、義道の家臣の法元猶之助の三男であるという。
しかし、浅黄色の着物を着た人物を人柱にするというのは長千代丸の提案で、人柱なったのも同じく長千代丸だったという。
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