古墳時代、大和政権が日本全国を掌握し、各地に前方後円墳が作られていたころ、宮崎県の南部を中心とした地域には、地下式横穴墓というこの地方独特の墓制が営まれていた。
形態と分布
地下式横穴墓は、県内で調査されたものだけでも450基を超える。基本的形態は、まず地表から竪に1〜3メートルほど掘り下げ(竪坑)、そこから横に掘り進み(羨道部)、人を埋葬するための墓室(玄室)がつくられる。
埋葬後、羨道部入口は石や板でふさがれ、竪坑は再び埋めもどされる。
玄室の天井は家形やドーム状を呈し、前者は切妻型と寄棟型に分けられる。
また玄室の平面形には方形や長方形、そして楕円形をなすものがある。
さらに羨道部が玄室の長辺についたものを妻入型、短辺についたものを平入型と呼び、これらの構造を加味して、「妻入長方形プラン」とか、「平入楕円形プラン」という用語が使われている。
最近まで、地下式横穴墓の北限は一ツ瀬川を越えない地域とされてきたが、新富町の蔵園遺跡での発見により、その北限が一ツ瀬川を越え、西ではえびの市、鹿児島県大口市から熊本県人吉市まで分布を広げ、今後の調査によってはさらに分布圏が拡大する可能性を秘めている。
構造や副葬品の地域性
地下式横穴墓は、地域によって構造や副葬品に違いがみられる。宮崎市国富町、西都市など宮崎平野を中心とした地域には、妻入型と平入型が分布する。
特に、国富町の六野腹古墳群(むつのばる)8号、10号地下式横穴墓や、宮崎市の下北方古墳群(しもきたかた)5号地下式横穴墓に代表される妻入長方形プランは、甲冑などの武具や鏡、馬具など豊富な副葬品を有し、最も古い形態と考えられ、以後、妻入型から平入型する。副葬品としては剣や刀、鏃(ぞく)など鉄製の武器類が多く、鏡、玉類、馬具や須恵器、土師器(はじき)なども出土している。
いっぽう、小林市やえびの市など霧島山麓周辺の内陸部には、平入型のみ分布し、副葬品は平野部同様武器類が多いが、出土料は極端に少ない。
内陸部の特色としては、被葬者がイモガイやゴホウラなど、南海産の回輪を装着している場合が多いことや、高原町の旭台7号地下式横穴墓など、玄室壁画に朱による彩色が施されたものがみられることである。
また、えびの市の島内地下式横穴墓群1号、3号や、小木原(こきばる)地下式横穴墓群からも甲冑や馬具を出土し、一概に平野部の妻入型が古いとはいえない。
このように、副葬品に甲冑や鏡など、大和政権の色彩の強い遺物が出土することや、玄室の構造から、地下式横穴墓は大和政権(古墳文化)の影響を受けて成立した墓制であると考えられる。
そして、構造や副葬品に地域性が認められ、さらに平野部には前方後円墳存在し、内陸部には円墳しかみられず、かわりに九州西南部に分布する地下式板石積石室が混在するなど、共存する墓制も異なる。
これらのことから、地下式横穴墓は平野部から内陸部へと伝播したのではなく、あるていど類似した葬送観念のもと、それぞれの地域の生活基盤や環境に左右されて多元的に発生したものと考えられる。
そうした地下式横穴墓の被葬者たちは、高塚古墳とはちがった独自の墓制を許され、逆にそれは、大和政権が無視できないほど勢力をもった集団(民族)であったことがうかがえる。
現在、地下式横穴墓は副葬品から五世紀後半のものが最も古く、高塚古墳の出現よりかなり遅れている。最も新しいものについては、鹿児島県で八世紀までくだるものが発見されているが、地下式横穴墓のほとんどは、五世紀から六世紀代にかけてつくられている。
(資料:宮崎県風土記)