鶴富屋敷 |
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鶴富屋敷は昭和31年に国の重要文化財に指定された椎葉地方独自の造りの民家である。 十根川神社に伝わる「椎葉山由来」によれば、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の残党が大分の玖珠から熊本の阿蘇 を経てこの地に入り、隠棲するようになった。 そのことは鎌倉幕府に知られることになり、弓の名手として知られた那須与市宗高の弟、那須大八郎宗久を平家 の残党討伐のために派遣した。 ところが大八郎が椎葉に到着してみると、平家の残党にはすでに再挙を企てるような様子は見られず、僅かな田 畑で細々と生きつないでいるありさまだった。 大八郎は討伐をあきらめた。 そしてこの地に3年滞在し、その間大八郎の身の回りの世話のために鶴富という女性がつけられた。 鶴富は大八郎の寵愛を受け、大八郎が鎌倉に呼び戻されて帰るときには身篭っていた。 大八郎は『男子が生まれたなら私のいる下野国(ほぼ現在の栃木県の領域)に連れて参れ、女子ならばそれには 及ばぬ』と言い、証拠の太刀と系図を与えて帰っていった。 鶴富は女子を産んで、成人したら養子をむかえて那須を名乗らせた。 椎葉の民家は「一列型平面形式」を有し、総じて同じような形式で家屋前面に縁を横一列に設け、それに各部屋を 横に長く配置している。 椎葉は平地が少なく、傾斜をうまく利用するために考えられた形式である。 那須家住宅(鶴富屋敷)は民家としては大きく太い材料を使用した椎葉独自の造りと言われる。 家の長さは24.93m、奥行き8.66mもあり、小屋組は、又首(さす)を組み合わせている。 屋根は寄棟造りで、棟飾りとして9本の千木が組まれている。 国の重要文化財に指定された当時は茅葺であったが、昭和38年から火災防止のため、銅板葺きになった。 部屋は奥から仏間の「ござ」、客間の「でい」、寝間の「つぼね」、居間の「うちね」の4室と、「どじ」と呼ばれる土間 からなる。 部屋の背面は、戸棚が造り付けとなっていて、開口部がない。 鶴富屋敷の建設時の資料はないが、建築技術から約300年前のものと考えられている。 民俗学者の柳田国男は1908(明治41)年、九州を視察旅行中に熊本や都城で聞いた椎葉の焼畑に興味を抱 き、椎葉に入った。 椎葉村長の中瀬淳は柳田を松尾で迎え、5泊6日同行した。 柳田国男は中瀬から案内された村の有力者などから話を聞き、伝書や庄屋文書を見た。 そして大河内で目にした一冊の古文書が日本民俗学の出発点と位置づけられる「後狩詞記(のちのかりのことば のき)」の原典となったといわれる。 大正時代になって椎葉にようやく県道開設の機運が高まり、県知事が椎葉を視察するようになる。 代々の知事が椎葉に入山するルートは時により様々で1914(大正3)年に入山した有吉忠一知事は南郷村神門 ~尾崎~尾崎峠~椎葉村桑弓野(泊)~上椎葉というルートを通った。 有吉知事は村民の手を借りて、腰に帯をつけ、それに綱を結んで引いてもらったり、後ろから押してもらったりしな がら山道を進んだといわれている。 鶴富屋敷は柳田国男や有吉忠一が入山したときより約200年も前に建てられた椎葉の古式な民家である。 |
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