和田越の戦い
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【西郷が死に場所と決めた和田越の戦い】
1877年、薩摩軍は熊本方面の戦いに敗れたあと、4月26日に人吉、5月31日には宮崎に移動した。
さらに薩摩軍は7月29日には宮崎を出て8月2日に延岡の大貫に着いた。
8月4日、日向市の耳川を挟んで北に薩摩軍、南に官軍が東郷町山陰に及ぶ布陣をして激突した。
8月9には美々津は官軍に制圧され、戦線は北に移動していった。
8月10日、西郷は延岡の大貫から本小路に移動し、さらに翌11日は船で五ヶ瀬川を川口まで下り、そのまま北川を上った。
その日は船で夜を明かし、12日には(北川町)熊田の吉祥寺を宿とした。
官軍が延岡に迫る13日、延岡区長の塚本は北小路(延岡市)の谷仲吉宅で薩摩軍の野村忍介(奇兵隊長)に会い、延岡を戦火から守って欲しい懇願する。
野村は延岡で戦わず退くことに反発していたが、塚本の熱心な懇願を受けて受け入れ、池上四郎などの幹部に延岡撤収の了解をとりつけた。
西郷は13、14日は熊田の南にあたる笹首の小野彦治宅に宿泊し、その間、桐野、村田、辺見などの幹部の隊も延岡から西郷のもとへ向かった。
8月15日、薩摩軍3,500は長尾山、小梓山、和田越、無鹿山の稜線に布陣した。
一方、政府軍50,000は稲葉崎、大武方面などに布陣して薩摩軍を包囲して、川口では軍艦が大砲を構えた。
官軍には実弟の西郷従道と従弟の大山巌がいた。
薩摩征討軍が編成された時、西郷の肉親であるという配慮のうえで両者は司令官からはずされていたが、このとき二人は自らの意思で参戦した。
この報せはすぐに西郷に伝わった。
それが原因なのか、鹿児島を出て以来一度も陣頭指揮をしていなかった西郷であったが、「今日の戦さはおいが指揮をとる」と言った。
この日は未明から霧が濃い日であったが、西郷が和田越の頂上に姿を現すと兵士たちから大きな歓声がわきあがった。
歓声は稜線に布陣した薩摩軍にたちまち連鎖して行き、それは薩摩軍を包囲していた官軍の兵たちにも聞えた。
午前七時ごろ霧が突然はれ、一発の銃声が聞えるとそれを合図にしたかのように戦いが開始された。
薩摩軍の桐野利秋は和田越の山頂の西郷を見て「吉っつあんは死ぬ気だ」と感じた。
指揮をとるはずの西郷は、五時間の間そこを死に場所と決めたかのように敵の銃弾にただ身をさらしているだけであったのだ。
和田越の様子をずっとうかがっていた官軍側の山県有朋、西郷従道、大山巌らにもそのことは感じ取れた。
山県は「西郷さんを射ってはならぬ」と命令したという。
正午ごろ、官軍は猛攻の末、和田越を占領し、午後2時頃に薩摩軍は長井方面に全軍退却をした。
西郷自身は退却を拒んでいたが無理やり数人の部下が西郷を抱えて山頂から下ろした。
山を下りた西郷は俵野(ひょうの)の児玉熊四郎宅に宿をとり、翌16日児玉邸から解軍令を発した。
官軍はなおも俵野の西郷達を厳重に包囲していて到底突破できる状態ではなかったが、17日の夜10時頃、西郷以下約500の敗残の兵は村人の案内で俵野を出発して背後の急峻な可愛岳を越えて祝子川に下り、地蔵谷で野営した。
可愛岳には西郷が山駕籠から降りた場所という「駕籠降り坂」や、四つん這いで山を登りながら「夜這いのごつある」と言って皆の気持ちを和らげたと言われる「夜這い坂」などの地名も残っている。
その後、一行はさらに上祝子(かみほおり)、三田井、神門(みかど)、小林を経て鹿児島の城山に戻った。

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和田越の戦い:宮崎県延岡市
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