山陰百姓一揆

山陰百姓一揆

山陰百姓一揆



山陰百姓一揆は1690年に現在の日向市東郷町で起こった農民約1400人の大規模な逃散事件であった。



日向市から国道327号線で西にいくと、アメリカ映画で有名なキングコングの眉から上の横顔の形に似た山が次

第に大きくなってくる。

車で走ること約20分、日向市の中心地から約10kmで山陰(やまげ)に着く。

山陰は(旧)東郷町の中心地で、そこから見るキングコングの横顔は冠の形に変わる。

かってこの冠岳は(旧)東郷町のシンボル的な山であったが、合併後は日向市のシンボルの山になった。


山陰という地名は冠岳の山陰になる地域であることからその名がついたのだと思うが、山陰地区は南の冠岳と北

の立山に挟まれているところであり、耳川とその支流である坪谷川が合流するところである。

坪谷川と合流した耳川は川からいきなりせりあがる冠岳の山裾をなぞるように激しく蛇行して、その後は美々津の

河口に向かう。

それらの条件により、耳川や支流の坪谷川にひとたび大水が出ると、両側の山で水の逃げ場がなくなりしばしば

洪水の被害を受ける地である。


その冠岳の麓の村で事件は起こった。


それは1690(元禄3)年、有馬氏の延岡藩領臼杵郡山陰村・坪谷村で300軒1422人の農民の大規模な逃散

事件であった。

牛馬や家財、弓矢、鉄砲まで持ち出した者もいたという農民の集団は隣藩の秋月氏の高鍋藩で足止めされた。

高鍋からの報せで駆けつけた延岡藩家老の説得にも応じない農民はその後11ヶ月に及ぶ闘争を続けた。


前述のように山陰地区は周囲を山に囲まれた狭い地域であり農業生産力は高い方ではなかったが、加えて事件

が起こった当時は3年続きの風水害や干ばつにあい、農民達の疲弊は甚だしいものであった。

延岡藩の郡代の梶田十郎左衛門はこうした事情を顧みることなく農民の要請する検見(けんみ)を拒否し、税の

徴収を強行した。


また郡代は、杉や楮(こうぞ)などの樹木や菜種など農産物の作付けも強制した。

その上それを管理するための役人まで送り、栽培や収獲の細かい指導をしたりという徹底ぶりで、その上に「御

はなむけ銀」という取立てまでして農民からの収奪を行った。


これらの藩の政治に「山の木の実や茅の根まで採り尽くして食う」ほどに苦しんだ農民はついに田畑や家を投げ捨

てて藩外に逃げ出すという「逃散一揆」を決行した。


逃散した農民は領主の説得を受け入れず年を越し、1691(元禄4)年2月、ついに幕府が介入する事態となった。

その結果、検見による年貢の採用、専売作物の作付けの廃止など、農民たちの要求は実現したが、一方で21人

に及ぶ首謀者たちが牢死または処刑で命を落とした。

また延岡藩の有馬氏は越後の糸魚川に転封になり、山陰は延岡藩から切り離されて天領になった。


幕府はこの事件を契機に現在の日向市のほか、西都市、国富町、宮崎市、清武町にまたがる32ケ村を天領とし

て徳川家譜代の大名を配した。


山陰地区にある成願寺(じょうがんじ)の境内には21人の戒名が刻まれた石碑がある。


この石碑には戒名だけが刻まれていて誰の戒名なのかは分らない。

一揆の指導者達のものだと伝えられるが、事件後農民達は罪人となった21人の表立った供養をはばかり、朝ま

だ夜が明けぬころに人目を避けて参拝したという。

それは成願寺のお盆の「朝参供養」として習わしになったという。


写真は耳川に架かる新東郷橋から耳川とその向こうにある冠岳の西側の横顔を見る。


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就願寺周辺地図:宮崎県日向市東郷町

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