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安井息軒 |
安井息軒 |
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安井息軒 |
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れた安井滄洲の次男として産まれた。 幼い頃から貧しい家計を助けながら学問に傾倒し、大 阪、江戸で苦学を重ね、帰郷後は父を助け清武の生 家の向かいに創設された学問所『明教堂』で教鞭をと った。 これらの功績が認められ、藩校の総裁に父の滄洲 が、助教授として息軒が任命されて、永年住み慣れ た清武を離れ、一家は飫肥城下に転居する。 後年、江戸に移住して塾を開き、谷千城、陸奥宗光ら 幾多の逸材をその門下より輩出した。 江戸幕府儒官となり、多くの書も著して、その研究は海外でも評価された。 77歳で東京で没するまで、養蚕、種痘の奨励、外国の事情等、息軒の進言により飫肥藩政に反映された事柄は 多くあったが、郷里を思い続けながらも2度と帰ることななかった。 宮崎市清武町の「きよたけ歴史館」の一角に安井息軒の生家がある。 安井息軒の一家が飫肥に転居するまで暮らした家で、いちど人手に渡った後、大正12年に公有化され、昭和54 年に国の史跡に指定された。 【安井二蘇】 安井家の生計は楽ではなく、息軒は兄の朝淳とともに家計を助けようと毎日畑に通った。 兄弟ともに学問を好み、畑仕事の往復や休憩のときにも書物を読んだという。 武道が重んじられた当時、友人達は「猿が本を読む」「猿引きも一緒だ」といって笑ったが、息軒は15歳までに父 の蔵書の全てを読みつくし、よそに違った書物があると聞くと借りに行って読んだ。 やがて兄弟を笑っていた友人達や村人は宋の蘇軾、蘇轍に較べて『安井二蘇』と讃えるようになったという。 【仲平豆】 息軒21歳、父滄洲が工面してくれた十両をもって、向学心に燃えて大阪の篠崎小竹の門を叩いた。 お金を節約するために飫肥藩邸蔵屋敷の一室で塩と醤油煮詰めた大豆を食しながら3年間猛勉強を重ねた。 この間外で食事をしたのは、連れがあって断りきれずに入ったそば屋2回だけであったという。 息軒のこのような生活に藩の医師は体を心配して帰郷を進めるが、「戦場で討ち死にするのは武士の本望、自分 は学問を志したのだから書を抱いて一室に倒れ死んでも悔いはない」と聞き入れなかった。 飫肥藩邸では、いつしか息軒のことを彼の大豆の食事のことから『仲平豆』と呼ぶようになった。 【昌平坂学問所】 大阪での学問は兄の朝淳の死によって帰郷を余儀なくされて終わった。 一度は故郷に帰ったものの、向学の心はさらに盛んで、文政7年、25歳のときに再び江戸に出て昌平坂学問所 で古賀?庵に学んだ。 南九州の日向の田舎の出身で、背が低く、種痘痕のある顔の貧乏学生は門人からしばしば嘲笑されたが、これ に対して応えた詠んだ歌が残っている。 今は音を忍ぶが岡のほととぎす いつか雲井のよそに名乗らむ 安井息軒の凄まじいばかりの心構えが伝わってくる。 【安井婦人】 安井息軒27歳のころ、父の滄洲は息軒に嫁を迎えてやらなければならないと考えたが、息軒の容姿では容易い ことではないと思い、岡にある滄洲の婦人の里方の川添家の娘はどうかと相談に行った。 川添家には2人の娘がいたが、姉の豊は十人並みの器量で明るい性格で、妹の佐代は控えめな性格だったが 「岡の小町」と噂されるような清武でも有名な美人であった。 滄洲は妹の佐代はもともと無理だと考えて姉の豊に人を立てて相談したが、「仲平さんは偉い方だとは思います が、ご亭主にするのはいやでございます」という返事があった。 しかし思いもよらなかった妹の佐代が姉の豊が断ったことを聞いて「仲平さんが貰ってくださるならわたくしは嫁に いきたい」という申し出の報せが届いた。 滄洲は意外だったが息子の息軒はさらに意外だった。 近所の若い男達は訝しみ、嫉み、「岡の小町が猿の所へいく」と口々に噂した。 妻となった佐代については森鴎外が「安井夫人」という小説に書いている。 |
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| 関連ページ(人物): 上杉鷹山 後藤勇吉 鳥原ツル 山内多門 石井十次 渡辺修三 高木兼寛 諸県君牛諸井 髪長姫 小村寿太郎 若山牧水 岩切章太郎 吾平津姫 日向御前 |
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安井息軒旧宅周辺地図:宮崎県宮崎郡清武町加納甲3368-1 |
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