徐福岩




徐福(じょふく)は、中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)の人物で、東方の三神山から長生不老(不老不死)の霊薬を持ち帰るよう始皇帝の命を受け、3,000人の従者と五穀の種を持って船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり再び秦には戻らなかったと言われている。

日本における伝承は青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されているが、佐賀県佐賀市、三重県熊野市、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、そして宮崎県延岡市などが有名である。

その一つである延岡市の今山八幡宮の境内には「徐福岩」と呼ばれる岩があり、傍らの「徐福伝説之碑」にはこう書かれている。
  
  蓬莱山とも呼ばれ、霊気ただよう今山の麓は、太古太平洋の白波が寄せる浜であった。
  紀元前220年ころ、秦の始皇帝の命を受けた徐福は、蓬莱山にあるという不老不死の薬草を求めて中国から渡海し、この浜に到り、
  渚にあった徐  徐福岩に船をつないで上陸したと伝えられる。
  また徐福は、医・工・農などの工人多数を伴って来たことから、大陸の文化が初めて日本に入ったのはこの地であったと言えよう。
  今山八幡宮御鎮座1250年にあたり、宮司・氏子らが謀り、徐福岩を此処に移奉し、壮大な歴史ロマン、徐福伝説を語り継ぐ。

徐福伝説を記した司馬遷『史記』には「蓬莱」は方丈・瀛州(えいしゅう)とともに東方の三神山の1つであり、渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海、不老不死の仙人が住むと伝えられている、と記されている

徐福が海を渡ったのは日本は弥生時代初期にあたる。
それは日本でちょうど農耕のはじまった時期である。
徐福は、五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀、百工)を持って中国を出た。
薬草を探して持ち帰るというミッションにしてはあまりに大掛かりな行動で、それは恰も大規模な集団移民のようにも見え、船は一般にイメージされているより遥かに大規模な大船団であったと思われる。
もしかしたら始皇帝に不満をいだいていた徐福は、はなから帰国する気持ちなどなく、東方(日本)への脱出を図ったのではないか。
そして徐福らの大船団には、神武東征にも似た新たな土地での建国活動を目的とする集団が乗り込んでいたのではなかったのかと思えてくるのである。

事実、中国には、「徐福=神武天皇」とする説があって興味深い。

中国の故衛挺生教授の「徐福の日本建国考」によると、
 1 地理が合う.........「平原広沢」。 東海各島の中で日本にだけ平原広沢がある。
 2 時代が合う.........「三種の神器」。 鏡、勾玉、剣は秦代のものである。
 3 水軍の存在、舟師が活動している。
 4 少年少女..........神武東征に働いた「童男女」、後の男軍、女軍。
 5 五穀百工..........神武の軍は各地に一年以上住んでいる。 稲作などを指導した。
 6 政治思想..........秦の郡県制度のようなものを神武も作った。   諸侯=国造 県君=県主
 7 遇民政策..........文字や中国語を使わせず、使わなかった。
 8 神話.............八神の中の七神が合う。 天、地、兵、陰、月、四時主など。
 9 年代.............前203年、ヤマト橿原で即位。
10 考古遺物が合う.....秦代の明刀、安陽布などの貨幣、青銅器の出土。

また彭雙松氏の『徐福研究』のよると
 1 「史記」に実在した事実が記されている
 2 徐福について56の遺跡、32の伝説、46の文献に残っている。
 3 神武東征と徐福東征には37にわたる共通の事項がある。
 4 子孫が6、7百年後、全土を統一している。(引用者注 5世紀 倭国か)
 5 佐賀、金立神社由来記に「本神社は神武朝、振興時に之を創設」とある。
 6
日向、延岡に徐福岩がある。神武の出航した地域である。
 7 福岡県の岡(遠賀)に3年もいた。遠賀川式土器で知られる弥生文化発祥地。
 8 金関丈夫博士による縄文人と弥生人の身長差などの研究では華北からの渡航、移住を示す。

中国では80年代の半ばから「徐福は神武天皇」説をテーマにした国際シンポジウムが何回も開かれ、日本の研究者も参加している。
日本では89年、佐賀で日中の学者によるシンポジウムが開かれた。



徐福岩|宮崎県延岡市


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